第7話:君の名前は、ピピ
荒野の朝日はぐんぐんと昇り、岩壁の窪みの野営地を黄金色に染め上げていた。
食後の焚き火の煙が細く立ち上る中、ティルは温かい湧き水を注いだ金属水筒を傾け、ホッと一息ついていた。
先ほど救助したばかりの青い小鳥――シャワー・バードは、石板で煎った野性の穀物を腹いっぱい平らげ、すっかり元気を取り戻している。
だが――。
「……ちょっとアンタ! 食後にぼんやり座ってないで、早く片付けをするピョ!」
突如として、甲高い、だが鋭い声が野営地に響き渡った。
声の主は、ティルの肩の上に器用に爪を引っかけ、仁王立ちになっている青い小鳥だった。
「ほら見なさいピョ! 昨日の夜に使った石板に、パンの焦げカスが少し残ってるピョ! 使った調理器具はすぐ水路で洗って乾かしておかないと、不衛生極まりないピョ!」
「あ、うん……すぐ洗うよ……」
「返事は一回ピョ! それとアンタ、座ってる時の背筋が曲がってるピョ! 腰を丸めてると内臓が圧迫されて消化に悪いんだから、ピンと伸ばすピョ!」
ティルは慌てて背筋を正した。
小鳥は短い翼を腰に当てるような仕草をし、ティルの肩から今度は地面へとパタパタと飛び降りた。
そして、自慢のシャベル爪をぽりぽり掻いていたモグの前へと歩み寄る。
「それから、そこのモグラ!」
「ピギッ!? お、俺ッスか!?」
「当たり前ピョ! アンタ、寝床の枯れ草を足で蹴飛ばして散らかしっぱなしピョ! 爪の間に挟まった泥もちゃんと水路で落としてから寝床に入りなさいピョ! 男ふたりで暮らしてるからって、野営地をゴミ屋敷にしていい理由にはならないピョ!」
「ぐ、グサァッ……! な、なんで俺まで怒られてるんスか……!」
モグは耳をぺたりと伏せ、ティルの足元へと逃げ込んできた。
ほんの三十分前まで冷たい水路で溺れかけていた小鳥とは思えないほどの、堂々たる仕切りっぷりだ。
(……すごいな。昨日までは静かで穏やかなふたり暮らしだったのに、急に実家のオカンが引っ越してきたみたいだ……)
ティルは前世の記憶を思い出しながら、苦笑いを噛み殺した。
だが、その小言には悪意が微塵もない。散らかった部屋を見過ごせず、家族の健康を本気で心配しているお母さんのような温かさがあった。
「よし、じゃあ石板を水路で洗って、寝床も整えようか」
「うぅ……了解ッス、旦那……」
ふたりでそそくさと後片付けを済ませると、小鳥は満足そうに「ふんす」と鼻を鳴らした。
「さて……片付けも終わったし、畑の様子を見に行こうか」
ティルは金属の水筒に水路の湧き水をたっぷりと汲み、第一号の畝へと向かった。
モグと小鳥もその後ろをちょこちょことついてくる。
湿り気を含んだ黒土の中央。
昨日植えたばかりの【ゴツゴツ土大根】の黄緑色の双葉が、朝の光を浴びて健気に立っていた。
荒野の乾いた風が吹き抜けるたび、小さな葉がプルプルと可愛らしく揺れる。
「うん、今日も元気そうだ。……今のうちに、たっぷり水をあげておこう」
ティルが水筒の口を傾け、双葉の根元に向かってジャバジャバと水を注ごうとした――その刹那だった。
「ストォォォップ! ストップピョーーッ!!」
鋭い叫び声とともに、青い影が風を切って飛んできた。
小鳥はティルの手首にバシッと体当たりするように飛び乗ると、水筒の縁をつついて制止したのだ。
「わっ!? ど、どうしたんだい?」
「どうしたんだい、じゃないピョ! アンタ、正気ピョ!? その重い水筒から、そんな大量の冷水をいきなりぶっかけるつもりだったピョ!?」
「え……? 水やりをしようと思ったんだけど……」
ティルが目を丸くすると、小鳥は心底呆れたように大きなため息をつき、頭を抱える仕草をした。
「やれやれピョ……。これだから素人の男所帯は怖くて見てられないピョね」
小鳥はティルの手首から双葉のすぐ脇の土へと飛び降りると、小さなくちばしで双葉の茎をそっと指し示した。
「よく見なさいピョ。この土大根の双葉は、まだ殻を破って土から顔を出したばかりピョ。茎だって、糸くずみたいに細くて柔らかいピョね?」
「うん、確かにすごく繊細だね」
「そんな頼りない芽に向かって、水筒から太い水流をドバドバ流し込んだらどうなると思うピョ? 水の重みで細い茎がへし折れるか、根元の土が激しく抉れて、せっかく張った根っこが剥き出しになっちゃうピョ!」
「あ……!」
ティルはハッと息を呑んだ。
前世の家庭菜園の動画でも、
『発芽直後のデリケートな双葉には、ジョウロのハス口を上に向けて、柔らかな雨のような霧状の水を与えること。直射の水流は厳禁』
と解説されていたことを思い出したのだ。
「それに、この水路の水は岩壁から湧き出たばかりで、とっても冷たいピョ。朝の陽射しで少し温まった土に、いきなり氷水みたいな冷水を流し込んだら、根っこが温度ショックを起こして成長が止まっちゃうピョよ!」
「なるほど……! 確かにその通りだ。冷たすぎる水は根を痛めるもんな」
「ふん! 分かればよろしいピョ!」
小鳥は誇らしげにふっくらとした胸を張った。
その観察眼と的確な知識に、ティルは素直に感嘆の声を漏らした。
「君はすごいな。水のことや植物の育ち方のことを、本当によく知ってるんだね」
「……えっ?」
ティルが真っ直ぐな目で微笑みかけると、小鳥は不意を突かれたように固まった。
丸い黒い瞳がぱちくりと瞬き、瑠璃色の羽がわずかに震える。
「な、何を当たり前のことを言ってるピョ……。アタシたちシャワー・バードは、生まれつき水と一緒に生きてる魔物ピョ。これくらい知ってて当然ピョ……」
急にしおらしくなった小鳥の様子に、ティルはそっと腰を下ろし、目線を小鳥の高さに合わせた。
「ねえ。君はどうして、そんなに水や作物の扱いに詳しいんだい? さっき話してくれた森の川だけじゃなくて、人間が育てる畑のこともよく知っているみたいだったけど」
ティルの優しい問いかけに、小鳥の表情がふっと陰った。
威勢の良かった嘴がキュッと結ばれ、足元の黒土を爪先で所在なげにつつく。
「…………昔の、ことピョ」
ぽつり、と小鳥の口からこぼれたのは、先ほどまでの勢いが嘘のような、静かで重い声だった。
「アタシたちシャワー・バードはね……カルガワ王国の貴族たちの間では、『便利な道具』として飼われていたピョ」
「道具……?」
「そうピョ。体内に綺麗な水を溜め込んで、霧やシャワーを吹き出す魔物……。王国の偉い人間たちにとっては、暑い日に屋敷を涼しくする『生きた冷房』だったり、贅沢な温室の花に水を撒く『自動水やり機』だったピョ」
小鳥の翼が、冷たい風に吹かれたかのように小さく震えた。
「アタシも昔、王都の大きな屋敷の庭園で、鉄の鳥かごに入れられて飼われてたピョ。『もっと細かい霧を出せ』『花びらを濡らさずに湿度だけ上げろ』って、朝から晩まで水を吐かされて……。上手に霧を出せたら褒められるんじゃなくて、『魔物のくせに動作が鈍い』って、棒で鳥かごを叩かれたピョ」
「そんな酷いことを……!」
モグが怒りで毛を逆立て、前足の爪を地面に突き立てた。
「酷いなんてもんじゃないピョ。身体の中の水が空っぽになっても、休ませてもくれないピョ。濁った泥水を無理やり飲まされて、『早く水を出せ』って魔法で痛めつけられて……。仲間の中には、喉や羽の器官が焼き切れて、動かなくなった者もたくさんいたピョ」
小鳥はギュッと目を瞑り、昔の恐怖を振り払うように首を振った。
「動けなくなったら、ゴミ箱に捨てられるだけピョ。人間にとって、アタシたちは心を持った生き物じゃないピョ。壊れたら買い換えればいい、ただの便利な水撒き器だったピョよ……」
小鳥の瞳に、ジワリと涙が滲んでいた。
屋敷の鳥かごから隙を見て逃げ出し、国境の森へ逃げ延びたものの、そこも軍事特区の暴力的な魔法によって干上がらされた。
どこへ行っても、人間たちの身勝手な都合で居場所を奪われ、傷つけられ続けてきたのだ。
「だから……アタシ、人間なんて大嫌いだったピョ。みんな偉そうに命令して、搾取して、用が済んだらポイって捨てる……最悪の生き物だと思ってたピョ」
小鳥は涙をこらえながら、ティルの顔をじっと見つめた。
「なのに……アンタは変な人間ピョ。水路で溺れてたアタシを、道具じゃなくて生き物として助けてくれたピョ。貴重な火で温めてくれて、自分のご飯を分けてくれて……アタシが口うるさく小言を言っても、叩くどころか笑って聞いてくれたピョ……」
ティルは何も言わず、静かに小鳥の言葉に耳を傾けていた。
前世の自分も、同じだったからだ。
会社という巨大な組織の中で、替えの利く歯車として扱われ、心と身体をすり減らして使い潰された日々。
誰にも労われず、ただ数字とノルマのためだけに消費されていく絶望を、ティルは痛いほど知っていた。
「……辛かったね」
ティルはそっと両手を伸ばし、小鳥の小さな身体を優しく包み込んだ。
手のひらから伝わる温もりに、小鳥の身体がビクッと強張る。
「君は道具なんかじゃないよ。誰かの都合で使い潰されていい命なんて、この世にひとつもないんだ」
「ティル……」
「君が水や畑に詳しいのは、それだけ一生懸命に生きて、周りを観察してきた証拠だろ? さっきの注意だって、この畑の土大根のことを本気で心配してくれたから言ってくれたんだ。口うるさいどころか、すごく嬉しかったよ。ありがとう」
「う……ぅ……」
小鳥の喉から、小さな嗚咽が漏れた。
命令されるのではなく、感謝された。
道具としてではなく、ひとつの命として、その存在を丸ごと肯定されたのだ。
「なぁ、小鳥さん」
ティルは穏やかな笑みを浮かべ、手の中の小鳥を見つめた。
「これからも俺たちと一緒に、この荒野で暮らしてくれるかい? 命令なんてしないし、無理に水を吐かせたりもしない。君が美味しい水を飲んで、温かいご飯を食べて、のんびり暮らしてくれるだけでいいんだ」
「ほ、本当に……アタシがここにいていいピョ……? 口うるさい小言ばっかり言う、可愛げのない鳥ピョよ……?」
「何を言うんスか!」
横からモグが元気に割り込んできた。
鼻先にちょこんと土をつけたモグが、胸をドンと叩いて笑う。
「さっきの説教、痛かったッスけど、畑のためを思って言ってくれたのは俺にも分かったッス! 俺と旦那だけじゃ、細かいところまで気が回らないッスからね! アンタがいてくれたら、百人力……いや、百万馬力ッスよ!」
「モグラ……」
小鳥の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
ティルの手のひらを濡らす温かい雫。
それは苦しみや恐怖の涙ではなく、凍りついていた心が溶け出した歓喜の涙だった。
「さて……これからずっと一緒に暮らしていくんだ」
ティルは小鳥の涙を指先で優しく拭いながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「いつまでも『小鳥さん』じゃ呼びにくいし、君に名前を贈りたいんだ。いいかい?」
「な、名前……!? アタシに……名前をくれるピョ!?」
小鳥が弾かれたように顔を上げた。
王国の屋敷では「第七号」と札をつけられていただけの自分に、固有の名前が与えられる。それがどれほど特別なことか、魔物である彼女には痛いほど分かっていた。
「うん。昨日の夜、風に乗って聞こえてきた君のさえずりがね、『ピピピ』ってすごく澄んでいて綺麗だったんだ。それに、小さくて元気いっぱいに飛び回る姿が、すごく愛らしいだろ? だから――『ピピ』っていうのはどうかな?」
「ピピ……」
小鳥は与えられた音を、嘴の中で何度も大切そうに反芻した。
「ピピ……アタシの名前は、ピピ……」
その瞬間だった。
フワリ……と、朝の陽射しとは異なる、淡く温かなエメラルドグリーンの光がティルとピピの身体を包み込んだ。
大地の底を流れる清らかな魔素がふたりを結び、確かな魂の契約が結ばれていく。
ピピの瑠璃色の羽毛が一層の艶と鮮やかさを増し、まるで朝露をまとったかのようにキラキラと輝き始めた。
「わぁ……! 羽がすごく綺麗になったッス!」
モグが歓声を上げる。
光が静かに収まると、ピピはティルの手からパッと飛び立ち、頭の上をくるくると楽しそうに旋回した。
そして、ティルの肩にチョコンと着地すると、照れ隠しのようにツンとそっぽを向いた。
「……ふん! ちょっと単純すぎる名前ピョね!tでも……まあ、アンタが一生懸命考えてくれたんだから、ありがたく名乗ってやるピョ!」
「……ふん!tちょっと単純すぎる名前ピョね! でも……まあ、アンタが一生懸命考えてくれたんだから、ありがたく名乗ってやるピョ!」
「あはは、気に入ってくれたみたいでよかったよ」
「勘違いしないでほしいピョ! 名前をもらったからって、手加減はしないピョよ! ティル、モグ! 今日からアタシがこの農園の『水遣り主任』兼『生活指導係』ピョ! ふたりとも、アタシの指示に従ってビシバシ働くピョ!」
「了解ッス、ピピ姉さん!」
「誰が姉さんピョ! アタシはまだピチピチの若鳥ピョ!」
ピピが真っ赤になって羽をバタつかせ、モグの頭をペチペチと叩く。
その賑やかな掛け合いに、ティルは声を上げて笑った。
荒野の抜けるような青空の下。
冷たい水路のせせらぎと、土の匂い、そして三人の笑い声が心地よく響き渡っていた。
孤独だった開拓地は、また一歩、確かな温もりに満ちた「我が家」へと近づいていた。




