第6話:水路の小鳥と、お節介な小言
東の地平線が茜色から淡い金色へと移り変わり、荒野に清々しい朝の光が降り注いでいた。
大木と岩壁の窪みに張った簡素な野営地。
ティルはパチリと目を覚ますと、枯れ草の寝床の上で大きく背伸びをした。
澄んだ冷気が喉を通って肺を満たしていく。
「……ふぅ。今朝も、どこも痛くないな」
前世の社畜時代なら、耳障りなアラームに叩き起こされ、重い頭痛と胃の痛みを抱えながら満員電車へ向かっていた時間だ。
それに比べれば、風の音と大地の匂いで目覚める毎日は、それだけでこの上ない贅沢だった。
「すぅ……すぅ……」
足元では、相棒のモグが丸い毛玉になって心地よさそうに寝息を立てている。
昨晩、石板で焼いた香ばしいパン粥スープをたらふく平らげたモグのお腹は、今もぽんぽこりんに膨らんでいた。
ティルは苦笑しながら、モグの身体からずり落ちていた麻袋の端を優しく掛け直してやった。
外へ出ると、春先の朝露を含んだ土の香りが鼻腔をくすぐる。
ティルはまず、昨日ふたりで命を吹き込んだ第一号の畝へと向かった。
「……おはよう、小さな緑たち」
湿り気を含んだ黒土の上で、昨日顔を出したばかりの【ゴツゴツ土大根】の黄緑色の双葉が、朝露の雫をキラキラと反射させながら誇らしげに立っていた。
たった一晩で葉の緑は一段と深くなり、大地の魔素をその小さな身にしっかりと蓄えている。
指先をそっと近づけると、大地の底から吸い上げられた生命の温かな脈動が、微かな震えとなって伝わってきた。
「うん、順調に育ってる。この調子なら大丈夫だ」
ティルは満足そうに頷くと、昨日完成させたばかりの自慢の水路へと視線を向けた。
岩壁の湧き水池から畑の脇まで、全長二十メートルに及ぶ石組みの水路。
敷き詰めた平らな石の間を、透き通った冷たい湧き水が、サラサラと涼やかな水音を立てて絶え間なく滑り落ちている。
水筒を手に何十往復も走っていた重労働が、この水路のおかげで劇的に解消されたのだ。
ティルは朝食の準備と顔洗いのために、水路沿いに岩壁の水たまりへと歩き始めた。
だが――水路の中間地点、昨日大岩をどかした緩やかなカーブのあたりに差し掛かった時だった。
「……ん?」
サラサラと流れる水の音に混ざって、不規則な水飛沫の音が耳に届いた。
――バシャッ……パシャパシャッ……ピピッ……!
「なんだろう……?」
ティルは足を止め、水路の縁を覗き込んだ。
水深十センチほどの石組みの底、水流が穏やかに渦を巻いている窪みに――何か小さな青いものが浮かんでいた。
「……鳥……?」
それは、大人の両手の中にすっぽりと収まるほどの、丸っこい小鳥だった。
瑠璃色の美しい羽毛を持っているようだが、今は水路の水に浸かってびしょ濡れになり、羽が重そうにぺたりと張り付いている。
一生懸命に短い翼をバタつかせ、石の壁を這い上がろうとしては、ツルリと滑って水の中へ落ちていた。
「ピィ……ピピッ……! 上がれないピョ……! 羽が重くて飛べないピョ……!」
小さなくちばしから漏れ出たのは、甲高い、だがどこか焦りと憤りを含んだ悲鳴だった。
「大変だ、溺れかけてるのか!?」
ティルは慌てて水路に膝をつき、両手を水の中へ差し入れた。
冷たい湧き水の中、冷え切ってガタガタと震えている小さな身体を、両方の手のひらでそっと包み込むようにすくい上げる。
「よっと……! 大丈夫かい!?」
「ピギャッ!? な、何ピョ!? 巨大な手が……! 食われるピョーッ!?」
すくい上げられた小鳥は、ティルの手の中でバタバタと暴れ回った。
だが、長い距離を飛んできたのか、その抵抗はひどく弱々しい。
すぐに力尽きたようにくったりと脱力し、ハァハァと荒い息を吐きながら、ティルの手のひらに顎を乗せてしまった。
「危ないところだったね。大丈夫、何もしないよ。取って食ったりしないから、落ち着いて」
ティルはそっと指の腹で小鳥の背中を撫でた。
全身の羽毛は冷え切っており、細かく痙攣している。
荒野の乾いた風に当たれば、体温を奪われて命に関わるかもしれない。
「モグ! ちょっと起きてくれ!」
ティルが野営地に向かって声を張り上げると、枯れ草の山からボサボサの頭がピコッと飛び出した。
「ふぁぁぁ……! な、なんスか旦那!? 敵襲ッスか!?」
「敵じゃない、怪我鳥だ! 焚き火の火を少し大きくしてほしい!」
「了解ッス!」
モグは状況を察するや否や、短い足をフル回転させて焚き火の元へ駆け寄り、乾いた小枝をくべて火勢を強めた。
ティルは小鳥を両手で優しく包んだまま、焚き火のそばへと運んだ。
荷物の中から使い古しの清潔な木綿の布を取り出し、小鳥の身体にそっと巻きつける。
「まずは身体を温めて、羽の水分を拭き取ろう」
ティルは布越しに、指先で優しくトントンと水気を吸い取っていった。
焚き火の心地よい熱が当たり、じんわりと温もりが戻ってくる。
びしょ濡れだった青い羽毛が、乾くにつれて少しずつ、綿毛のようにふわふわとした質感を取り戻していった。
「旦那、この鳥……『シャワー・バード』ッスね!」
モグが身を乗り出し、小鳥の顔をまじまじと観察しながら言った。
「シャワー・バード?」
「はいッス! 体内に綺麗な水を溜め込んで、喉や羽から霧やシャワーみたいに水を吹き出す魔物ッスよ。いつも清らかな水辺に群れで住んでるはずなんスけど……なんでこんな荒野に一羽だけでいるんスかね?」
「昨夜、水路の方から羽音とさえずりが聞こえたんだ。夜の風に乗って、遠くから飛んできたのかもしれないな」
ティルは金属の水筒から、汲みたての湧き水を指先に一滴すくい取り、小鳥の小さなくちばしの先へとそっと運んだ。
「ほら、喉が渇いているんだろ? 少し飲んでごらん」
くちばしの先に冷たい水滴が触れた瞬間、小鳥の黒いつぶらな瞳がピクッと動いた。
ペロッと小さな舌が伸び、指先の水滴を舐め取る。
「……チュルッ、ゴクン……」
一滴、また一滴。
大地のミネラルを豊富に含んだ湧き水が喉を通るたび、小鳥の身体にみるみるうちに生気が蘇っていく。
呼吸が穏やかになり、閉じていた両目がパチリと大きく見開かれた。
「……生き返ったピョ……」
「よかった。気がついたかい?」
ティルがホッと安堵の息を漏らした――その瞬間だった。
息を吹き返した小鳥は、布の中からピョンと飛び出すと、ティルの膝の上に仁王立ちになった。
そして、ふっくらとした胸を反らし、翼の先を腰に当てるようなポーズをとると、ティルの顔をジロジロと睨め回したのだ。
「…………ちょっと、アンタ!!」
「えっ?」
「何その頭! 起きたばっかりだからって、髪の毛がスズメの巣みたいにボッサボサじゃないピョ! いい歳した大人の男が、朝一番に身だしなみも整えないでウロウロするもんじゃないピョ!」
「は……!?」
ティルはぽかんと口を開けた。
助けたばかりの小鳥から、いきなりマシンガンのような勢いで説教を食らったのだ。
「それだけじゃないピョ! アンタ、唇がカサカサに乾いてるピョ! 水分補給はちゃんとしてるピョ!? 人間はすぐに油断して脱水症状で倒れるんだから、もっとこまめに水を飲まなきゃダメピョ!」
「あ、いや……今起きたばかりで……」
「言い訳は聞かないピョ! 朝起きたらまず一杯の水! これ常識ピョ!」
(な、なんだこの鳥……!?)
ティルの脳裏に、前世の記憶が電撃のように蘇った。
徹夜明けの早朝、ボロボロのスーツで出社した際、
『ちょっと鈴木くん! ちゃんと朝ご飯食べたの!? エナジードリンクばかり飲んでたら身体壊すわよ!』
と、頼んでもいないのに野菜ジュースを押し付けてきた、総務部の世話焼きベテラン事務員・佐藤さんの姿が完全に重なったのだ。
「だ、旦那にいきなり説教するなんて、なんて無礼な鳥ッスか!」
我慢ならなくなったモグが、前足のシャベル爪を構えて抗議の声を上げた。
すると、小鳥はクルリと首を回し、鋭い眼光でモグをキッと睨みつけた。
「アンタもピョ!」
「ピギッ!?」
「鼻の頭に真っ黒い泥をくっつけたまま、何を得意げに胸を張ってるピョ! ご飯の前に顔を洗うのは生き物としての基本ピョ! そんな汚い手足でウロウロしてたら、せっかくの毛並みが台無しピョよ!」
「ぐ、グサッ……! そ、それは……モグラの身だしなみッスから……!」
モグは自慢の爪で必死に鼻の頭を擦りながら、タジタジになって後ずさりした。
この小鳥の小言には、反論を許さない独特の正論が込められているらしい。
「ふぅ……やれやれピョ。男ふたりで暮らしてると、基本的な生活習慣がてんでおろそかになるから困るピョね」
小鳥は深いため息をつきながら、やれやれと首を横に振った。
その仕草は、散らかった部屋を見かねて腕まくりをするオカンそのものだった。
だが――。
――ギュルルルルルゥゥ……。
静かな荒野の朝に、やけに情けない、大きなお腹の虫の音が響き渡った。
「…………ピョ」
小鳥の動きがピタッと止まった。
青い羽毛の下の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「い、今のは……風の音ピョ。決してアタシのお腹じゃないピョ」
「いや、どう聞いても君のお腹の音だったよ」
ティルが思わず苦笑すると、小鳥はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「……うぅ。べ、別に施しなんて求めてないピョ……。ただ、三日三晩、飲まず食わずで飛んできたから、ちょびっとだけ胃袋が文句を言ってるだけピョ……」
「素直じゃないなぁ。よし、説教の前に、まずは朝ご飯にしようか。モグ、石板の準備をしてくれるかい?」
「了解ッス、旦那!」
ティルは焚き火の上の平らな石板を温め直した。
黒パンは昨夜のスープで使い切ったが、水路の脇に群生していた、野性の穀物の小さな実がある。
「この種をね、熱々の石板の上で軽く乾煎りするんだ」
パラパラと石板の上に散らすと、パチパチと小気味よい音が鳴り、香ばしい穀物の香りがふわりと立ち上った。
軽く狐色に焼き上がったところで、丁寧に洗った平らな木の葉の上に種を移す。
さらに、小さなくぼみのある滑らかな石に、水路から汲んできたばかりの清らかな湧き水をたっぷりと満たした。
「はい、お粗末だけど朝ご飯だよ。熱いから気をつけて食べてね」
ティルが小鳥の足元に差し出すと、小鳥はごくりと喉を鳴らした。
先ほどまでの偉そうな態度はどこへやら、落ち着きなく両足をもじもじと踏み変えている。
「……毒なんて入ってないピョね?」
「入れるわけないだろ。僕らも同じものを食べるんだから」
「……な、なら、味見くらいはしてやるピョ……!」
小鳥はそう言い訳しながら、まず水たまりの石へとくちばしを伸ばした。
冷たい湧き水を一口、そっと口に含む。
「…………っ!!」
瞬間、小鳥の瑠璃色の羽がブワッと一気に逆立った。
まん丸な瞳が見開かれ、翼をバタバタと激しく羽ばたかせる。
「ピョォォォッ!? な、何この水ピョーッ!?」
「どうしたんだい? 冷たすぎた?」
「冷たすぎるとかじゃないピョ! 甘い……! 雑味が一切なくて、喉の奥にスーッと染み込んでいくピョ! それに、この大地のエネルギー……! 枯れ果てた身体の隅々まで、澄み切った魔素が満ちていくのを感じるピョ……!」
小鳥は我を忘れたように、石の器に顔を突っ込んで水をガブガブと飲み始めた。
ゴクン、ゴクンと喉を激しく上下させ、あっという間に器の水を飲み干してしまう。
「ぷはぁぁぁ……! こんなに澄んだ水、王国のどこを探したって飲めないピョ!」
興奮冷めやらぬまま、小鳥は木の葉の上の煎り種へとくちばしを突き立てた。
カリッ、ポリッ。小気味よい咀嚼音が鳴る。
「……んん~~っ! 香ばしいピョ! ただの種なのに、じっくり火を通してあるから、噛めば噛むほど素朴な甘みが広がるピョ……!」
小鳥は小さな頭を小刻みに上下させながら、一心不乱に種をついばみ続けた。
丸っこいお腹がぷっくりと膨らみ、最後の一粒を飲み干すと、満足そうに「ピチュ……」と長いため息を漏らしてその場にぺたんと座り込んだ。
「ふぅ……ごちそうさまピョ。……ま、まあ、アンタにしては上出来な朝ご飯だったピョね」
「素直に美味しかったって言えないんスかね、この鳥は!」
モグが横でぷくーっと頬を膨らませる。
ティルはふふっと笑いながら、座り込んだ小鳥の前に腰を下ろした。
「気に入ってくれたならよかったよ。……それで、君はどうしてこんな荒野に来たんだい?」
ティルの問いかけに、小鳥の表情がふっと真面目なものへと変わった。
瑠璃色の翼を整えながら、小さな声で話し始める。
「……逃げてきたピョ。アタシが住んでたカルガワ王国の国境沿いの森は、最近ひどいことになってるピョ。軍事特区の兵士たちが、戦争の訓練だかなんだかで大掛かりな攻撃魔法をぶっ放しまくって、森の川や池が全部干上がっちまったピョ」
小鳥のくちばしが、悔しそうに小さく震えた。
「残ったわずかな水たまりも、魔法の燃えカスとドロドロの毒素で濁って、苦くてとても飲めたもんじゃなかったピョ。アタシたちシャワー・バードは、綺麗な水を身体に取り込まないと生きていけないピョ。仲間たちはみんな遠くの山へ散り散りに逃げたけど……アタシは途中で嵐に巻き込まれて、群れとはぐれちまったピョ」
「そんなことが……」
ティルの胸の奥に、苦い思いが広がった。
カルガワ王国・第一軍事特区。
バレン王子が率いるあの軍隊は、自分たちのような人間を使い捨てるだけでなく、森の生態系や小さな魔物たちの平穏な暮らしまで、容赦なく踏みにじっていたのだ。
「水を探して、当てもなく飛んで……気づいたらこの荒野の上空だったピョ。見渡す限りカチカチの地面で、もう力尽きて死ぬんだと思ったピョ。そしたら昨日の夜、風に乗って、信じられないくらい澄んだ『甘い水の匂い』が漂ってきたピョ」
小鳥は水路の方へと視線を向けた。
「必死で匂いを追いかけて飛んできたら、夜の荒野に、ピカピカ光る石組みの水路があったピョ。嬉しくて嬉しくて、夢中で飛び込んだまではよかったんだけど……力尽きて羽が濡れて、上がれなくなっちまったってわけピョ」
小鳥は恥ずかしそうに羽づくろいをしながら、上目遣いでティルを見上げた。
「……アンタ、追放された人間ピョね? その粗末な服と、使い古しのスコップを見れば分かるピョ」
「ああ、そうだよ。無能テイマーだって言われて、特区から追い出されたんだ」
「ふん! あんな節穴の国、こっちから願い下げピョ!」
小鳥は吐き捨てるように言うと、両翼をパタパタと振った。
「こんな何もない荒野で、たったふたりでこんな立派な水路を引いて、ふかふかの畑を作って……あいつら王国の兵士たちより、アンタたちの方がよっぽど本物の力を持ってるピョ!」
「へへっ! 分かってるじゃないッスか!」
モグが得意げに胸を張る。
小鳥は立ち上がると、水路の末端にある貯水枡と、土大根の小さな双葉をじっと見つめた。
そして、ふんす、と鼻息を荒くすると、ティルの作業着の袖に飛び乗ってきた。
「決めたピョ!」
「ん? 何をだい?」
「アタシ、ここに住むピョ!」
「えっ!?」
ティルとモグの声が綺麗にハモった。
小鳥はティルの肩にちょこんと飛び移ると、当然のように胸を張った。
「当たり前ピョ! こんな極上の湧き水と水路がある場所、手放すわけないピョ! それに……アンタたちを見てると、危なっかしくて放っておけないピョ!」
「危なっかしい?」
「そうピョ! 水路を引いたのはいいけど、畑の水やりはどうするつもりピョ?t土大根の双葉はデリケートだから、水筒からバシャバシャ冷たい水をぶっかけたら、根っこが痛んで一発で枯れちゃうピョ! 朝夕の乾燥対策も、葉っぱへの水分補給も、男ふたりじゃ絶対に手が回らないピョ!」
小鳥はピシッと翼を伸ばし、ティルの頬をペチペチと軽く叩いた。
「アタシがこの農園の『水遣り主任』兼『生活指導係』になってやるピョ! アンタたちのずぼらな生活習慣も、アタシがビシバシ叩き直してやるから覚悟するピョ!」
「せ、生活指導係……!?」
ティルは肩の上の小鳥を見つめ、思わず吹き出してしまった。
追放された荒野で始めた、気ままなスローライフ。
体育会系で純粋な後輩モグラに続いて、今度は口うるさくもお節介で温かい「小さなお母さん」が仲間に加わったのだ。
「ふふっ……頼もしいな。よろしく頼むよ、小さなお母さん」
「お、お母さんじゃないピョ! アタシはまだピチピチの若鳥ピョ!」
小鳥が真っ赤になって羽をバタつかせ、ティルの耳元をつつく。
その賑やかな声に、モグも呆れ顔から一転、楽しそうに笑い声を上げた。
「あっはは! 賑やかになりそうッスね、旦那!」
「ああ、本当にね」
朝の柔らかな光が、水路の水面をキラキラと照らし出していた。
せせらぎの音と、土の匂い、そして心地よい笑い声。
荒野の小さな開拓地に、またひとつ、温かな命の輪が広がろうとしていた。




