第5話:星空のスープと、ふたりの約束
荒野の日はとっぷりと暮れ、夜空には零れ落ちそうなほどの満天の星が瞬いていた。
昼間の熱気が引いた大地には、春先特有の凛とした冷気が降りてきている。
だが、岩壁の窪みに作られたふたりの野営地には、赤々と燃える焚き火の温もりと、パチパチとはぜる小枝の心地よい音が満ちていた。
「旦那! 乾いた小枝、まだまだいっぱい拾ってきたッスよ!」
「ありがとう、モグ。これだけあれば、今夜はずっと火を絶やさずにいられるよ」
モグが両前足に抱えてきた枯れ枝を受け取り、焚き火にくべる。
橙色の炎が揺らめき、ふたりの泥まみれの笑顔を温かく照らし出した。
昼間、ふたりで力を合わせて完成させた全長二十メートルの石組み水路。
そして、夕暮れの光の中で力強く顔を出した、【ゴツゴツ土大根】の小さな黄緑色の双葉。
土にまみれて全身を酷使した一日の終わりに、ふたりの心を満たしていたのは、心地よい達成感と、耐えがたいほどの強烈な空腹だった。
「よし……それじゃあ、約束の晩飯を作ろうか」
「待ってましたッス! お腹と背中がくっつきそうッス!」
モグがお腹をさすりながら、焚き火の前にちょこんと正座した。
ティルは麻袋の底から、手持ちの食糧を取り出した。
カルガワ王国を追放された時に配給された黒パン。固くて酸味の強い、粗末極まりないパンだが、残りはもう手のひら半分ほどの小さな塊がひとつだけだ。
「パンはもうこれでおしまいだけど……今夜はこれを使って、とびきり温まる特別なスープにするよ」
「その固いパンでスープを作るんスか……?」
モグが不思議そうに首を傾げる。
ティルは優しく微笑むと、まず平らな石板を焚き火の上に渡し、しっかりと熱した。
「固くなったパンはね、そのまま煮込むんじゃなくて、こうするんだ」
ティルは黒パンを指先で一口大の小さなサイコロ状にちぎると、熱々の石板の上に並べた。
――ジュワッ……パチパチ……。
石板の熱で、乾燥したパンの表面がじっくりと乾煎りされていく。
指先で触れるとカリリと小気味よい音が鳴り、数分もしないうちに、焦げた小麦の香ばしい匂いが夜の冷気にふわっと広がった。
「うわぁ……! ただのパンなのに、焼くとこんなに甘くて香ばしい匂いがするんスね!」
「うん。前世でね、固くなったフランスパンをこうやって香ばしく焼いてから煮込む料理があったんだ。『パナーダ』っていうパン粥スープさ。こうすると、パンの酸味が飛んで、香ばしさと旨味だけがぎゅっと凝縮されるんだよ」
次にティルは、金属の水筒に、開通したばかりの水路から汲んできたばかりの清らかな湧き水をたっぷりと注ぎ、焚き火の火元にかけた。
水路の脇に自生していた、ミントに似た爽やかな香りの野草と、大地の魔素を含んで青々と育っていたシャキシャキの若葉。それを水で丁寧に泥を洗い流し、細かく千切って用意する。
コトコトコト……。
水筒の水が沸騰し、細かな白い泡が立ち上ってきた。
「よし、投入だ」
ティルは香ばしく焼き色がついた黒パンの塊と、刻んだ野草を、沸き立つ熱湯の中へと一気に投入した。
――シュワァァァ……!
瞬間、湯気とともに立ち上ったのは、野草の爽やかな芳香と、ローストされた小麦の濃厚な香りだった。
塩も胡椒もない。肉も野菜のブイヨンもない。
だが、大地のミネラルを豊富に含んだ冷涼な湧き水と、焦がし小麦の滋味、そして荒野の野草が持つ生命力あふれる香りが混ざり合い、信じられないほど重厚で優しいスープの香りを醸し出していた。
スプーン代わりに削った木のヘラで、ゆっくりと底をかき混ぜる。
水分を吸った黒パンがほろほろと崩れ、澄んでいたスープが黄金色のとろみのあるポタージュ状へと変化していく。
「完成だ。……モグ、熱いから気をつけて食べてね」
ティルは水で綺麗に洗った深みのある木の皮を二つ並べ、そこに熱々のパン粥スープをたっぷりと注ぎ分けた。
「いただきますッス……!」
モグは両前足のシャベル爪で器を包み込むように持ち上げた。
立ち上る白い湯気に顔を近づけ、ふーっ、ふーっと一生懸命に息を吹きかける。
そして、とろりとした黄金色のスープを、おずおずと一口啜った。
――ズズッ……。
「…………っ!?」
モグの全身の毛並みが、一瞬にしてピンと逆立った。
丸い耳が小刻みに震え、つぶらな黒い瞳が限界まで見開かれる。
「モグ? 熱すぎたかい?」
「う……うまい……ッス……」
「え?」
「うまいッス……! なんだこれ……なんだこれッス……!? パンがとろっとろで、口の中でじゅわぁって溶けて……野草の爽やかな香りと、スープの甘みが、喉の奥まで染み渡るッス……!!」
モグは叫ぶように言うと、あとはもう言葉も忘れたように、夢中でスープにかじりついた。
ハフハフと熱い息を漏らしながら、両頬をパンパンに膨らませてスープを啜り、とろけたパンを味わう。
ズズッ、ズズズッ……!
そして――。
モグの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
涙は頬の毛を濡らし、木の器の中にポタリと落ちて小さな波紋を作った。
「モグ……? どうしたんだい? 舌を火傷したんじゃないのか?」
ティルが慌てて身を乗り出すと、モグは首をぶんぶんと横に振った。
「違うッス……! 痛くないッス……! ただ……嬉しくて……胸が苦しいッス……!」
「嬉しい?」
「俺たち下級の魔物は……いつも泥にまみれた草の根っこを齧ったり、人間が捨てた生ゴミを漁るしかなかったッス……。冷たくて、硬くて、土臭くて……それでも生きるために、お腹を満たすためだけに喉に詰め込んでたッス……」
モグは涙で濡れた顔を上げ、ティルをまっすぐに見つめた。
「温かい火を通した飯なんて、王国の偉い貴族様しか食べられない夢のまた夢だと思ってたッス……。誰かが自分のために、こんなに温かくて美味しいものを作ってくれたのなんて……生まれて初めてッス……!」
「モグ……」
「誰かと一緒に、星を見ながら『美味しいね』って笑い合って食べるご飯が……こんなに温かいなんて、知らなかったッスよぉぉぉ……!!」
モグは前足で目を覆い、しゃくりあげるように泣きながら、それでも最後の一滴まで愛おしそうにスープを舐め取った。
ティルも自分の分のスープを木べらですくい、口へと運んだ。
舌の上に広がるのは、カリッと焼けた小麦の素朴な香ばしさと、野草の清々しい苦味、そして大地の湧き水が持つ柔らかな甘み。
「……うん。すごく、優しい味だ」
ティルは目を細め、静かに夜空を見上げた。
前世の社畜時代。
深夜のオフィスで、冷え切ったコンビニ弁当をパソコンの画面を睨みながら口に詰め込んでいた。
何を食べても味がせず、胃に流し込むだけの作業。誰とも会話を交わさず、ただ明日への恐怖とプレッシャーに怯えながら過ごしていた夜。
(あの頃の俺は、生きているんじゃなくて、ただ死ぬのを先延ばしにしていただけだったんだな……)
それに比べて、今の生活はどうだ。
カルガワ王国を追放され、肩書きも金も、豪勢な住まいもない。
あるのは粗末な作業着と、古いスコップと、この何もない荒野だけだ。
けれど、ここには自分の手で耕した豊かな土がある。
ふたりで力を合わせて引いた、清らかな水がある。
明日への希望を宿した、小さな緑の芽がある。
そして何より――心から信じ合い、肩を並べて温もりを分かち合える、かけがえのない相棒がいる。
(これ以上の贅沢が、人生のどこにあるっていうんだ)
ティルは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
王都への復讐なんて、本当にどうでもいい。
あの冷たい特区に戻るくらいなら、この荒野でモグと一緒に土をいじり、温かいスープを啜っている方が、億倍も幸せだ。
「モグ。俺もね、前世ではずっと一人で冷たいご飯を食べてたんだ。だから……君がそんなに美味しそうに食べてくれて、すごく嬉しいよ。ありがとうな」
「旦那……!」
モグは空になった器を置くと、ティルの膝の上に飛び乗ってきた。
ぽんぽこりんに膨らんだ温かいお腹をティルの太ももに預け、小さな前足でティルの手をぎゅっと握りしめる。
「旦那! 俺、決めたッス!」
「ん? 何をだい?」
「俺、一生旦那のそばにいるッス! 旦那が作る野菜も、新しく開く畑も、全部俺の爪で耕してみせるッス! 旦那が美味い飯を作ってくれるなら、俺、どんな硬い岩盤だって砕いてみせるッスよ!」
涙で濡れた瞳をキラキラと輝かせながら、力強く誓うモグ。
ティルはふっと吹き出し、その丸っこい頭を優しく撫でた。
「はは、頼もしいな。でも無理はしちゃダメだよ。明日からも、ふたりで一歩ずつ、のんびりやっていこう」
「へへっ、了解ッス、旦那!」
モグは満足そうに目を細めると、ティルの膝の上でくるんと丸まった。
焚き火の温もりと満腹感に包まれ、やがて「すぅ……すぅ……」と幸せそうな寝息を立て始める。
手の中で伝わってくる小さな命の温もり。
ふと見上げた夜空の彼方。
完成したばかりの水路のあたりから、パシャ……と小さな水飛沫の音が響き、続いて風に乗って――ピピピ、と澄んだ小鳥のさえずりのような羽音が、荒野を吹き抜けていった。
ふと見上げた夜空の彼方、夜風に乗って、どこか遠くからかすかに――ピピピ、と澄んだ小鳥のさえずりのような羽音が、荒野を吹き抜けていった。
(……鳥の声? 水路の水に誘われてやってきたのかな)
ティルは穏やかに微笑みながら、膝の上のモグが冷えないよう、麻袋の端を優しく掛け布団のように掛けてやった。
追放された無能テイマーと、居場所を失っていた一匹のシャベル・モグラ。
ふたりが荒野に灯した小さな明かりは、明日への確かな希望となって、夜の帳を優しく照らし続けていた。




