第4話:ふたりの水路と、小さな緑
翌朝、荒野の空は抜けるような群青色から、淡い桜色の朝焼けへと染まりつつあった。
「ふぁぁぁ……! 旦那、おはようッス!」
「おはよう、モグ。今朝も元気いっぱいだな」
ティルが岩陰の寝床から起き上がると、すでにモグは起きて前足の爪をパシパシと打ち鳴らし、準備運動を始めていた。
朝の冷たい湧き水で顔を洗い、ふたりで昨日の第一号の畝へと向かう。
昨日植えたばかりの【ゴツゴツ土大根】の種は、まだ土の底でじっと眠っている。
だが、モグが前足の爪をそっと土に触れさせると、満足そうに鼻を鳴らした。
「うん! 種たちはぐっすり大地の魔素を吸い込んでるッスよ! 土の湿り気もちょうどいいッス!」
「よかった。……でも、モグ。毎日こうやって、岩壁の湧き水から水筒で何十往復も水を運ぶのは、さすがに限界があるよな」
ティルは手にした金属の水筒を見つめた。
容量はせいぜい一リットル。今は一列の小さな畝だからなんとかなっているが、これから畑を広げていけば、水汲みだけで一日が終わってしまう。前世のオフィスワークで言えば、「エクセルの集計作業をすべて電卓の手打ちでやっている」ような非効率さだ。
「そこでだ、モグ。昨日の提案通り、岩壁の湧き水の水たまりから、この畑のすぐ脇まで『水路』を引こうと思うんだ」
「水路……! 水が勝手に畑まで流れてくる溝のことッスね!」
「そう。でもね、ただ一直線に地面を掘るだけじゃダメなんだ」
ティルは足元の小枝を拾い、乾いた地面に図を描き始めた。
「水は高いところから低いところへ流れる。だから、岩壁の水たまりから畑に向かって、ごくわずかな『傾斜(勾配)』をつけて掘らなきゃいけない。傾斜が緩すぎると途中で水が止まって淀んでしまうし、急すぎると水流の勢いで土の溝が削れて決壊してしまうんだ」
「なるほどッス……! 水のスピードをコントロールするんスね!」
「それだけじゃない。この荒野の土はよく肥えている分、砂利や隙間も多い。ただ土を掘っただけの溝だと、水が畑に届く前に全部地面に吸い込まれて消えてしまうんだ。だから――」
ティルは岩壁の麓に転がっている無数の石を指さした。
「モグが掘ってくれた溝の底と壁面に、平らな石を隙間なく敷き詰めて『石組みの水路』にする。石と石の隙間には、水たまりの底にある細かい粘土を塗り込んで、水漏れを防ぐんだ」
「おおぉぉぉっ! すっげぇッス、旦那! まるで小さなお城の堀を作るみたいッス!」
モグの目がキラキラと輝いた。
前世の農業土木動画で幾度となく眺めていた知識が、こうして異世界の荒野で具体的な設計図として結実していく。
「役割分担をしよう。モグは地中の障害物を避けて、一番水がスムーズに流れるルートを探知しながら溝を掘り進めてほしい。俺は岩壁から手頃な平たい石を拾って運んで、水路の底に石を敷き詰めていく」
「了解ッス! 土掘りなら俺の独壇場ッス! 旦那、最高の水路を作るッスよ!」
ふたりは泥まみれの手と前足を合わせると、さっそく作業に取りかかった。
「よし、ルート探査開始ッス!」
モグが岩壁の湧き水池の端に立ち、前足のシャベル爪をサクッと地面に差し入れた。
ピタッと動きを止め、大地の声に耳を澄ます。
「……見えたッス! ここから畑まで約二十メートル。途中に大木の古い根っこと、硬い岩盤が走ってるッスけど、右に緩やかな弧を描くように迂回すれば、緩やかな下り坂で一気に畑まで抜けられるッス!」
「よし、そのルートで行こう!」
「『シャベル・掘削』、発動ッス!」
モグの体がブレるほどの速度で、左右の前足が高速回転を始めた。
ザザザザッ! ホロホロホロッ!
幅三十センチ、深さ二十センチ。定規で測ったかのように綺麗なU字型の溝が、モグの足元からぐんぐんと畑に向かって伸びていく。
ティルも負けてはいられない。
古いスコップを手に岩壁の麓へ走り、手のひら大の平らな石を選別しては、麻袋に詰めて水路へと運ぶ。
石はどれもずっしりと重く、往復するだけで太ももと背筋が悲鳴を上げそうになる。
だが、モグが楽しそうに土を跳ね上げながら前進していく姿を見ていると、不思議と疲れよりも高揚感が勝った。
「よいしょ……っ! モグ、石を持ってきたぞ!」
「ありがとうッス、旦那! 掘ったそばから石を敷いてもらえると、溝が崩れなくて助かるッス!」
ティルはモグが掘り進めた溝の底に、平らな面を上にして石を隙間なく並べていく。
石の並びを確かめながら、湧き水池の底からすくってきた青白い粘土を指先で取り、石の継ぎ目にぎゅっ、ぎゅっと丁寧に塗り込んでいく。
泥臭く、根気のいる手作業だ。
だが、冷たい粘土の手触りと、パズルのように石が噛み合っていく感触は、言葉にできないほど心地よかった。
作業が中間地点の十メートルほどに達した時だった。
――ガツンッ!!
小気味よい土を掘る音が、突如として甲高い金属音に遮られた。
「ピギィッ!?」
モグが小さく悲鳴を上げて跳ね返され、土の上に尻餅をついた。
慌ててティルが駆け寄る。
「モグ! 大丈夫かい!?」
「だ、大丈夫ッス……。でも旦那、これを見てほしいッス……」
モグが指さした溝の底には、黒光りする硬質な岩の塊が、水路を塞ぐように横たわっていた。
地表からは見えなかったが、地中深くに根を張った、大人の胴体ほどもある巨大な玄武岩の出っ張りだった。
「うわ……これは大きいな。モグの爪でも砕けないかい?」
「くっ……! 俺の爪なら時間をかければ削れるッスけど、爪の先が欠けちまうかもしれないッス……。それに、ここを避けて迂回しようとすると、傾斜が逆になっちまって水が止まっちまうッス!」
モグが悔しそうに耳を垂らし、硬い大岩を睨みつける。
水路計画の最大の難所だった。
ここで諦めてしまえば、水路は完成しない。
ティルは岩の周囲をじっくりと観察した。
岩そのものはびくともしないように見えるが、大岩の底面と土の境目には、わずかな隙間がある。
(……前世の土木作業動画で見たな。重機がない時代、人間はどうやって巨石を動かしていた?)
「モグ、落ち込むのはまだ早いよ。ふたりの力を合わせれば、この大岩は動かせる」
「えっ……? 動かせるッスか!?」
「ああ。テコの原理を使うんだ」
ティルは古いスコップを両手でしっかりと握り直した。
「モグ、君の鋭い爪で、この大岩の根元の土を少しだけ掘り崩してくれないかい? 岩の真下にスコップの刃先を差し込めるだけの隙間を作りたいんだ」
「わ、分かったッス! 土を掘るだけなら朝飯前ッス!」
モグは再び前足を動かし、大岩の左右と底面の土を慎重に掻き出していった。
ほんの数十秒で、岩の底にスコップの先端がぴったり入る隙間が口を開ける。
「よし、できた! 下がっててくれ、モグ!」
ティルはスコップの刃先を大岩の下へと深々と差し込んだ。
そして、手近にあった頑丈な丸石を支点としてスコップの柄の根元に挟み込む。
足元が滑らないよう、モグがすかさずティルの踏み込む足元の土をトントンと平らに踏み固めてくれた。
スコップの柄の端を両手で握り、全体重をかけて下へと押し下げる。
「ぐっ……ぬぅぅぅぅ……っ!!」
樫の木の柄がミシミシと軋んだ音を立てる。
背筋の筋肉が引き絞られ、腕の血管が浮き上がる。
だが、大岩は重く、わずかに数ミリ浮き上がったところで止まってしまう。
「旦那ぁぁぁ! 俺も手伝うッス!!」
モグがティルの足元に駆け寄り、スコップの柄の先端に両前足で飛びついた。
全体重をかけて、ティルと一緒に柄を力いっぱい引き下げる。
「せーのっ……いっけぇぇぇぇぇぇッ!!」
「ッスぅぅぅぅぅぅぅ!!」
――ズズッ……ゴロンッ!!
鈍い地鳴りとともに、水路を塞いでいた巨大な玄武岩がテコの力で持ち上がり、溝の外の平地へと転がり出た。
「や、やったぁぁぁぁぁぁっ!!」
「抜けたッス! 大岩が抜けたッスよ、旦那!」
ティルとモグは、尻餅をつきながら抱き合って歓声を上げた。
大岩が抜けたあとの溝は、完璧な勾配を保ったまま、畑へと向かって一直線に開けていた。
最大の難所を突破したあとの作業は、驚くほど順調だった。
午後を回る頃には、岩壁の湧き水池から畑のすぐ脇まで、全長二十メートルに及ぶ美しい石組みの水路が一本、荒野の大地に完成していた。
水路の末端には、モグが手際よく掘り下げてくれた小さな貯水枡も作られている。
「よし……モグ。いよいよ、水を通してみようか」
「ゴクリ……。緊張するッスね、旦那!」
ティルは岩壁の湧き水池へ戻り、池と水路を仕切っていた土の堰にスコップを突き立てた。
ざくっと土を取り除くと――。
――トプン……チョロチョロ……。
澄み切った冷たい湧き水が、堰を越えて石組みの水路へと流れ出した。
水は平らな石の底を軽やかに滑り、カーブを曲がり、大岩をどかした跡を抜け、涼やかなせせらぎの音を荒野に響かせながら下っていく。
粘土で目地留めをした石組みは一滴の水漏れも許さず、水流は勢いを失うことなく、畑の脇の貯水枡へと――。
――ジャァァァァ……!
「流れた……! 水が、畑まで流れてきたッス!」
「大成功だ、モグ!!」
澄んだ水が満ちていく貯水枡を前に、ふたりは思わずハイタッチを交わした。
もう、重い水筒を持って何十往復も走る必要はない。
畑のすぐ隣に、いつでも使える豊かな水場ができたのだ。
「へへっ、旦那! 水がこんなに近くにあるなら、畑をもっと広げなきゃ嘘ッスよ!」
モグは誇らしげに鼻息を荒くすると、第一号畝の隣へと駆け出した。
「『シャベル・耕起』、おかわりッス!」
勢いに乗ったモグの神速の耕作により、第一号畝と並ぶように、ふかふかの第二号畝と第三号畝が瞬く間に誕生した。
小さな荒野の一角が、みるみるうちに「本物の農園」の姿へと生まれ変わっていく。
「ふぅ……! やりきったな、モグ」
「やりきったッス、旦那!」
夕暮れの茜色の光が、荒野全体を優しく包み込み始めていた。
ふたりは並んで地面に腰を下ろし、心地よい風に吹かれながら、完成した水路と広くなった畑を眺めていた。
泥にまみれた身体の芯に、充実した心地よい疲労感がじんわりと染み渡る。
その時だった。
「……ん?」
ティルの視界の端で、第一号畝の黒土の上に、何か小さな違和感があった。
昨日、モグと一緒に【ゴツゴツ土大根】の種を五粒蒔いた、あの畝だ。
ティルは腰を上げ、畝のそばへと近づいた。
目を凝らして土の表面を見つめる。
「……モグ、ちょっと来てくれ」
「どうしたんスか、旦那?」
モグが小走りで駆け寄ってくる。
ティルは人差し指で、湿った黒土の一点をそっと指さした。
そこには――。
黒く肥えた土をそっと押し分け、夕日を浴びてキラキラと輝く、鮮やかな黄緑色の小さな双葉が、ぽつんと顔を覗かせていた。
「ピギッ……!? め、芽が出てるッス!!」
モグが飛び上がって叫んだ。
「ゴツゴツ土大根の芽ッスよ! 昨日蒔いたばっかりなのに、もう芽が出たッス!」
「本当だ……。小さな、可愛い芽だな……!」
王国の軍事特区では「死に種」と罵られ、捨てられた種。
それが、荒野の濃厚な大地の魔素と、モグが空気を含ませて耕したふかふかの土、そしてふたりで注いだ清らかな水によって、わずか一日で固い殻を破り、力強く芽吹いたのだ。
指先を近づけると、双葉の小さな葉脈を通じて、大地から吸い上げられた生命の温かな脈動が、ティルの胸に直接伝わってくるようだった。
「俺たちの畑が……本当に、始まったんだな」
「はいッス! 俺と旦那の畑ッス!」
モグの瞳には、夕日を反射した誇らしげな光と、うっすらとした感動の涙が浮かんでいた。
その時、静まり返った畑に、ぐぅぅぅぅ……と盛大な腹の虫の音が響いた。
「ピギッ……あ、また鳴っちゃったッス……」
恥ずかしそうにお腹を押さえるモグを見て、ティルは声を上げて笑った。
「あはは! 一日中全力で働いたんだ、腹が減るのも当然だよ。手持ちの黒パンはもう残り少ないけど……水路の脇で見つけたあの香りの良い野草と、この清らかな湧き水を使って、何か温かくて美味いスープを作ってみようか」
「野草のスープ……! 旦那、最高ッス! 俺、薪を集めてくるッス!」
夕闇が迫る荒野の中、小さな緑の命に見守られながら、ふたりは互いの労をねぎらう特別な夕餉の準備へと歩き出した。




