第3話:シャベルの爪と、大地の声
朝の澄んだ風が、荒野の草先をかすかに揺らしていた。
「よし、モグ。ここが昨日、俺がスコップで耕した場所だ」
「おおっ! ここが俺たちの畑になる予定地ッスね!」
ティルが指さした先には、昨日掘り返したばかりの、縦横三メートルほどの黒褐色の土壌が広がっていた。
大木の根元から少し離れた、一日中よく陽の当たる特等席だ。
だが、掘り返したばかりの土は、まだ大人の拳ほどの大きさの土塊があちこちにゴロゴロと転がっている。表面を覆っていた硬い表土をなんとか引っくり返しただけの、いわば「荒起こし」の状態だった。
「野菜の種を蒔くには、この大きな土の塊をスコップで細かく砕いて、空気をたっぷり含んだふかふかの『畝』を作らなきゃいけないんだ」
「うね……? 土を山みたいに盛り上げるヤツッスね!」
「そう。雨が降っても水が溜まって根が腐らないように、細かくほぐした土をかまぼこ型に盛り上げるんだよ。……ただ、このスコップ、刃先がぼろぼろだから結構骨が折れるんだよな」
ティルは手にした古いスコップを苦笑しながら見つめた。
刃先があちこち欠けて丸くなっており、固まった土塊を叩き割るだけでも一苦労だ。前世のサラリーマン時代、運動不足だった三十路の腰に、早くもじんわりと重い疲労感が蓄積しつつある。
「せーのっ、ザクッ! ……ふぅ、硬いな」
ティルが体重をかけてスコップを振り下ろすが、乾燥して引き締まった土塊は鈍い音を立てて弾かれるばかり。これを手作業で何百回も繰り返すとなると、午前中どころか丸一日かかってしまいそうだ。
「旦那!{俺にやらせてほしいッス!」
足元から、元気いっぱいの声が響いた。
見下ろすと、モグが自慢の前足をパシパシと胸の前で打ち鳴らし、鼻息を荒くして見上げていた。
「モグ? でも、土塊を砕くのは結構力がいるよ」
「へへっ、モグラを舐めちゃ困るッス! 俺のこの爪は、土を掘るために生まれてきたんスから!」
モグは意気揚々と畑の中央に駆け込むと、短い後足を踏ん張り、扇状に広がった黒鉄色の爪を地面に突き立てた。
――サクッ。
ティルが全体重をかけても弾かれた土壌に、モグの爪はまるで柔らかいバターに熱いナイフを入れるかのように、抵抗なく吸い込まれていった。
「……っ!?」
その瞬間だった。
土に爪を突き刺したモグが、ピタッと石のように静止した。
つぶらな黒い瞳がカッと見開かれ、ピンと立った丸い耳が小刻みに震え始める。
「モグ……? どうしたんだい? 手が痛んだのか?」
ティルが心配して駆け寄ろうとしたその時、モグが弾かれたように顔を上げた。
「だ、旦那……! やっぱり、やっぱりそうッス! 頭の中に、ぶわぁぁぁって映像が流れてくるッス!」
「えっ? 映像……?」
「土の声が……地中の様子が、爪を通して手に取るように視えるんス!」
モグは興奮のあまり爪を地面に突き刺したまま、早口で叫ぶようにまくし立てた。
「旦那、聞いてほしいッス! いま旦那がスコップを入れようとした場所の、ちょうど深さ三十センチの真下……そこに、俺の身体よりふた回りもでっかい、ゴツゴツした硬い石が埋まってるッス!」
「えっ、石……?」
「それだけじゃないッス! その大石の右側を迂回した深さ五十センチのあたりに、岩壁の水たまりから繋がってる、すごく冷たくて細い地下水脈が通ってるッス! 土がすごく湿ってて、いい匂いがするッス!」
「地下水脈まで……!?」
ティルの目が丸くなった。
地表から見れば、どこも同じように見える乾いた土だ。下に何が埋まっているかなど、実際に掘り起こしてみなければ誰にも分からないはずだった。
「よし、ちょっと確かめてみよう」
ティルはスコップを手に取り、モグが指定した位置の土を慎重に掘り進めた。
ザクッ、ザクッ、ガリッ。
表面の柔らかい土を二十センチほど掻き分けたところで、スコップの先端が硬い手応えにぶつかった。
周囲の土を手で払い落としてみると――。
「……本当だ。本当に大きな石が埋まってる……!」
そこには、大人の頭ほどもある、灰色のごつごつとした岩石が埋まっていた。もしこのまま力任せにスコップを突き立てていたら、刃先が折れて作業不能になっていたところだ。
さらに、ティルがその石の右側の土をスコップで少し深く掘り下げてみると、湿り気を帯びた黒土の間から、ジワリ……と澄んだ冷たい水が染み出してきた。
「水だ……! モグの言った通り、すぐ下に地下水が通ってる!」
「ほ、本当ッスか!? やったぁぁぁッ! 俺の爪、大正解ッス!」
モグは嬉しさのあまり、土の上でくるくると三回転して喜びを爆発させた。
「すごいよ、モグ! 君の爪は、地中の硬さや障害物だけじゃなくて、水の流れまで透視できるのか!?」
「へへっ、透視っていうか……爪を土に当てると、土の中の温度や湿り気、魔素の濃さが、音や匂いみたいにビンビン伝わってくるんスよ! 契約してもらってから、この感覚が何倍もハッキリ分かるようになったッス!」
ティルは深く息を呑んだ。
これが、シャベル・モグラという魔物の真の力なのだ。
カルガワ王国の農民や兵士たちは、彼らが畑のあちこちを掘り返すのを見て、「勝手気ままに穴を掘って作物の根を荒らす害獣」と決めつけていた。
だが、事実はまったく逆だったのだ。
彼らは、作物の根が岩にぶつからないよう障害物を避け、地下水脈から水分が均等に行き渡るよう、大地の声を聞きながらトンネルを掘っていたのではないか。
(農地にとって、これほど頼もしい土壌センサーがあるだろうか……!)
前世の農業現場でも、土壌水分計や地中レーダーといった高価な機械を使って土の中を調べていた。
だが、モグの爪はそれらを遥かに凌駕する精度で、リアルタイムに大地の状態を教えてくれるのだ。
「モグ、君の能力は本当に素晴らしいよ。それじゃあ、この場所で一番野菜が育ちやすい土の深さって、分かるかい?」
「任せてほしいッス! この畑なら、深さ四十センチまで土を耕して空気を混ぜてやれば、地中の魔素と水分が綺麗に混ざり合って、最高の土壌になるッス!」
「よし、頼んだぞ、モグ!」
「了解ッス、旦那! 『シャベル・耕起』、いくッスよぉぉぉ!」
モグが気合いの雄叫びを上げると同時に、その両前足が目にも留まらぬ速さで動き始めた。
――ザザザザザザッ! ホロホロホロッ!
まるで小型の耕運機が土の上を滑っているかのようだった。
モグは扇状の爪を器用に扇動させ、固まった土塊を瞬く間に細かく粉砕していく。
ただ掘り散らかすのではない。大きな石ころだけを器用に畑の外へと弾き飛ばし、空気を含んだ柔らかな土だけを、流れるような手つきで中央へと寄せていく。
ザッ、ザッ、スルスルッ……!
モグが通り過ぎたあとの地面には、まるでふるいにかけたかのように粒子の揃った、美しい黒土の山が盛り上がっていく。
ティルが手で触れてみると、信じられないほどふんわりとしていて、指が手首まで抵抗なく沈み込んだ。
「うわぁ……すごい。土が呼吸してるみたいに柔らかいぞ……!」
ほんの五分ほどの間に、縦三メートル、幅五十センチ、高さ二十センチの、見事な直線を描く第一号の畝が完成してしまった。
スコップで半日かかる重労働を、モグは息ひとつ切らさずにこなしてしまったのだ。
「ふぅ……! 旦那、どうッスか!? 俺の耕した畝ッス!」
鼻先にちょこんと黒土をつけたモグが、誇らしげに腰に前足を当てて胸を張る。
「百点満点……いや、一万点だよ、モグ! こんなに綺麗な畝、プロの農家でもなかなか作れないよ!」
「えへへぇ……旦那に褒められるのが、一番嬉しいッス!」
モグは照れくさそうに顔をごしごしと擦った。
「さて……最高の畝ができたところで、いよいよ本番だな」
ティルは腰の麻袋から、追放された時に兵士たちから投げ捨てられた、あの小さな革袋を取り出した。
中に入っているのは、何の植物かも分からない、しわびて干からびた数粒の種だ。
「これ、軍事特区の兵士たちが『退職金代わりにくれてやる』って投げつけてきた種なんだけど……何の種か分かるかい?」
ティルが手のひらに種を数粒広げて見せると、モグが興味深そうに鼻を近づけた。
くんくん、と念入りに匂いを嗅ぎ、前足の爪の先でチョンチョンと種の表面をつつく。
「……んん!? こ、これは……ッス!」
「何か分かるかい?」
「旦那、これ、【ゴツゴツ土大根】の種ッスよ!」
「ゴツゴツ土大根……?」
ティルの脳裏に、設定資料の記憶が蘇る。
大地の魔素を吸って育つ、見た目はゴツゴツと不格好だが、じっくり煮込むととろけるように甘くなるという、春の荒野の救荒作物だ。
「王国の人間たちは、この種を『芽も出ない死に種』って呼んで捨ててたッス。軍事特区の周辺の土は魔力が抜けきってカラカラに死んでるから、この種を蒔いても絶対に育たないんスよ。だから、旦那への嫌がらせで持たせたんだと思うッス」
「なるほどな……。あいつららしい嫌がらせだ」
ティルは苦笑した。
だが、モグの瞳には悔しさではなく、爛々とした輝きが宿っていた。
「でも、旦那! あいつらは大間違いッス! この種、死んでなんかいないッスよ!」
「死んでない?」
「はいッス! 爪から伝わってくるッス……殻の奥で、小さな命がじっと息を潜めて、大地の栄養を待ってるッス! この荒野の、魔素がぎゅっと詰まったふかふかの土に蒔いてやれば、絶対に芽吹くッスよ!」
モグは力強く請け負うと、完成した畝の土を爪でトントンと叩いた。
「深さ十センチ! ちょうど地中の湿り気と大地の魔素が一番濃いこの深さに植えてやれば、種が目を覚ますッス!」
「よし……やってみよう!」
ティルとモグは、畝の頂点に等間隔で小さな穴を指先と爪で開けていった。
一、二、三、四、五。
全部で五つの小さな穴。
ティルは干からびた黒い種を一粒ずつ、慈しむように穴の中へと落とし込んだ。
そして、周囲のふかふかの黒土をそっと上から被せると、両方の手のひらで優しくトントンと土を押さえた。
種と土を隙間なく密着させ、毛細管現象で地中の水分を種に吸わせるための「鎮圧」という作業だ。前世で何度も眺めた園芸動画の知識が、異世界の荒野で自然と手先を動かしていた。
「元気に育つんだぞ……」
仕上げに、岩壁の湧き水を水筒ですくい、種を蒔いた土の上に優しく円を描くように注ぎかけた。
乾いていた黒土が清らかな水を吸い込み、しっとりとした深い艶を帯びていく。
大気中の紫色の魔素が、水を含んだ土壌へとじんわりと溶け込んでいくのが、ティルの肌にも温かく感じられた。
「ふぅ……! 種蒔き、完了ッスね!」
「ああ。モグのおかげで、最高のスタートが切れたよ」
「へへっ! 旦那、これだけで満足しちゃ困るッスよ!」
モグが自慢のシャベル爪を腰に当て、得意げに鼻を鳴らした。
「まだ一列植えただけッス! 水たまりから畑まで細い水路を掘れば、水汲みの手間も省けるッスし、もっと畝を増やして、いろんな野菜を育てたいッス!」
「水路に、畑の拡張か! いいね、モグ。よし、明日はふたりで本格的な拡張作業をやろう!」
「了解ッス、旦那! 俺と旦那の農園、どんどん広げていくッスよ!」
泥だらけになった手と前足を突き合わせ、満面の笑みを交わすふたり。
空はどこまでも高く青く澄み渡り、心地よい春の風が、耕したばかりの畑を優しく撫でていく。
追放された無能テイマーと、居場所を奪われていたシャベル・モグラ。
ふたつの小さな手が土に託した命の粒は、荒野の底で、静かに力強い鼓動を刻み始めていた。




