第2話:君の名前は、モグ
鳥のさえずりのような、澄んだ朝風の音が耳をくすぐった。
「ん……んん……」
ティルはゆっくりとまぶたを押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、ひび割れたオフィスの天井でも、カルガワ王国軍事特区の陰鬱な兵舎でもない。
木々の梢の間から差し込む、淡い金色の柔らかな朝の光だった。
(……朝だ。起きて、胃が痛くない……!)
前世の社畜時代、朝を迎える瞬間は毎日のように地獄だった。
けたたましく鳴り響くスマートフォンのアラーム、深夜まで残業したせいで鉛のように重い身体、今日中にこなさなければならない膨大なタスクと、上司の不機嫌な顔。目覚めた瞬間に胃がきりきりと痛み、息が浅くなるのが当たり前だった。
だが、今朝はどうだ。
背中には昨夜敷き詰めた枯れ草の心地よい弾力があり、肺を満たすのは、冷涼で瑞々しい大地の香りだ。
そして何より――。
――すぅ……すぅ……。
ティルの膝の上で、温かな毛玉がひとつ、規則正しく上下していた。
昨夜、飢えと寒さから保護した小さなシャベル・モグラだ。
丸っこい背中を丸め、両前足のシャベルをお腹の上で器用に折りたたんで、無防備に寝息を立てている。
指先でそっと背中の毛に触れてみると、ビロードのように滑らかで、じんわりとした確かな温もりが伝わってきた。
(可愛い……。朝起きたら、膝の上にモフモフがいる。これだけで、前世の残業三千時間分くらい報われた気がするぞ……)
ティルが思わず口元を緩めていると、モグラの小さな鼻先がピクピクと痙攣した。
黒く艶やかな毛並みがモゾモゾと蠢き、やがて短いまん丸の前足で、ごしごしと自分の目をこすり始めた。
「……ふ、ふわぁぁぁ……ッス……」
口を大きく開けてあくびをしたモグラは、ぱちくりとつぶらな黒い瞳を瞬かせた。
そして、自分が人間の膝の上で眠りこけていたことに気づいた瞬間、身体をビクンと跳ね上がらせた。
「ピギィッ!? あ、朝ッス!? お、俺、人間の上で寝てたッスか!?」
「おはよう。よく眠れたかい?」
「お、おはよう……ッス……。あ、あの、旦那、重くなかったッスか? 足、痺れてないッスか?」
慌てふためいてティルの膝から飛び降りようとするモグラを、ティルは優しく両手で支えて地面に下ろしてやった。
「全然重くなかったよ。むしろ、湯たんぽみたいに温かくて、ぐっすり眠れた。ありがとうね」
「ゆ、湯たんぽ……? よく分からないけど、役に立ったなら嬉しいッス!」
モグラは照れくさそうに短い尻尾をふりふりと揺らした。
ティルは立ち上がり、大きく伸びをして身体をほぐした。
関節が小気味よい音を立てる。睡眠時間は短いはずなのに、身体の芯から力が満ちてくるような爽快感があった。やはり、この荒野の土と大気に含まれる濃密な生命エネルギーのおかげだろう。
「さて、まずは顔を洗って、朝飯にしようか」
「朝飯……! また飯を食っていいんスか!?」
モグラの瞳がパッと輝く。
昨夜あれだけ黒パンを食べたというのに、小さな身体のどこにそんな食欲が詰まっているのか不思議なくらいだ。
ティルは岩壁の割れ目へ向かった。
岩肌を伝って湧き出る水は、朝の光を浴びて水晶のように澄み渡っている。
両手ですくい、冷たい水で顔を洗うと、頭の芯までシャキッと目が冴え渡った。
「冷たくて気持ちいいな。モグ……あ、いや、君も顔を洗うかい?」
「俺はいいッス! モグラはあんまり水で顔を濡らすと、鼻に水が入ってくしゃみが出るッスからね!」
前足のシャベルで器用に自分の顔の泥を払いながら、モグラが得意げに胸を張る。どうやら彼らなりの身だしなみの作法があるらしい。
ティルは昨夜の残りの荷物から、配給された最後の黒パンを取り出した。
相変わらず石のようにカチカチで、そのまま噛みつけば歯が欠けそうだ。
「昨日は水でふやかしただけだったけど、朝は少し工夫してみようか」
ティルは周囲の枯れ木から小枝を集め、岩陰の風が当たらない場所に小さな石でかまどを組んだ。
麻袋の底に入っていた火打石を取り出し、乾燥した枯れ葉に火花を散らす。
カチッ、カチッ、ボッ。
細い煙が立ち上り、パチパチと心地よい音を立てて小さな焚き火が熾きた。
「おおっ! 火ッス! 人間は火を使うんスね!」
モグラは少し熱さに警戒しながらも、物珍しそうに首を伸ばして焚き火を見つめている。
ティルは平らで滑らかな川原の石のような岩片を拾い、水で綺麗に洗ってから、焚き火の上に網代わりに渡した。
石が熱を帯びてくると、ナイフ代わりにスコップの端で薄くスライスした黒パンを載せる。
さらに、水袋の水を指先でパッパッと振りかけ、蒸気を閉じ込めるように上から大きめの枯れ葉を被せた。
――ジュウゥ……パチパチ……。
数分もしないうちに、香ばしい穀物の焦げる匂いが、朝の澄んだ空気にふわりと広がった。
「うわぁぁ……! すっごく良い匂いがしてきたッス!」
「うん、うまく蒸し焼きになったみたいだ」
枯れ葉を取り除くと、カチカチだった黒パンは蒸気を含んでふっくらと膨らみ、表面には食欲をそそる狐色の焼き目がついていた。
さらにティルは、岩壁のそばに自生していた、ミントに似た爽やかな香りのする野草の若葉を数枚摘み取り、湧き水を満たした金属の水筒に入れて焚き火の端で温めていた。
「はい、どうぞ。焼きたてだから、熱いから気をつけてね」
木の皮を皿代わりに敷き、ふっくらと焼き上がったパンをちぎってモグラの前に差し出す。
「い、いただきますッス……!」
モグラは両前足で熱々のパンを挟み、ハフハフと息を吹きかけながら、夢中でかぶりついた。
「もぐ……サクッ、もちっ……! う、うめぇぇぇぇッス!!」
外側はカリッと香ばしく、中はモチモチとして温かい。
昨夜の水でふやかしただけのパンとは比べ物にならない風味に、モグラの丸い耳がピコピコと激しく痙攣した。
頬袋をこれでもかと膨らませ、喉を鳴らしながらパンを飲み込んでいく。
「はは、慌てなくていいよ。はい、このお湯も飲んでごらん。野草を少し入れたから、身体が温まるよ」
「ず、ずずっ……ぷはぁぁぁ……! 五臓六腑に染み渡るッス……!」
野草の爽やかな香りと大地の微かな甘みが溶け出した白湯を飲み干し、モグラは心底幸せそうに、ぽっこりと膨らんだお腹をさすった。
ティルも焼きたてのパンを口に運ぶ。
決して贅沢な食事ではない。調味料すら塩ひとつない質素なものだ。
だが、自分の手で火を起こし、澄んだ空気の中で食べる焼きたてのパンは、前世の高級レストランのどんな料理よりも、細胞のひとつひとつに沁み渡る美味しさだった。
「ふぅ……美味しかった。ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでしたッス!」
食事を終え、焚き火の火を少し弱めると、ティルはふと思い立ってモグラに視線を向けた。
「そういえば……君は、どうしてあんな荒野のど真ん中にいたんだい? 図鑑には、シャベル・モグラはもっと王国の農村地帯に住んでいるって書いてあったけど」
ティルの問いかけに、モグラの表情がふっと曇った。
自慢げにピンと立っていた耳がぺたりと垂れ下がり, 丸っこい前足を所在なげに弄ぶ。
「……追っ払われたんス」
「追っ払われた?」
「そうッス。俺たちシャベル・モグラは、王国の人間たちから『畑を荒らす汚い害獣』って呼ばれてるッス」
モグラはぽつりぽつりと、静かな声で語り始めた。
「俺たちは土の中にトンネルを掘るのが生きがいッス。でも、王国の畑で穴を掘ると、農民たちが鍬や鋤を持って血相を変えて追いかけてくるッス。『作物の根を傷つけるな』『畝を崩すな』って、石を投げられたり、煙で燻されたりして……」
「…………」
「軍事特区の兵士たちなんて、もっと酷かったッスよ。『動く的の練習になる』って言って、槍や矢を投げつけてきて……俺の兄弟たちも、みんな散り散りになっちまったッス」
モグラの小さな両肩が、怒りと悔しさ、そして拭いきれない恐怖で小さく震えていた。
「誰も俺たちのことなんて見てくれないッス。この前足の爪だって、『畑を破壊する凶器』だって言われて……。だから俺、人間が誰も来ない場所に逃げようと思って、この死の荒野を目指したんス」
「荒野まで……一人で逃げてきたのか」
「はいッス。でも、荒野の土は表面がカチカチに凍りついてて、草の根っこも全然生えてなくて……。巣穴を掘る体力も尽きて、飢えと寒さで動けなくなって、もうここで死ぬんだと思ってたッス。そしたら昨日、旦那が上からスコップで土を耕してくれて……俺の巣穴の天井が抜けて、転がり出たってわけッス」
モグラはそこまで話すと、バツの悪そうに顔を伏せた。
「俺……やっぱり迷惑な害獣ッスかね。畑を作りたい旦那にとっても、俺みたいなモグラが近くにいたら邪魔ッスよね……?」
震える声で尋ねてくるモグラ。
そのつぶらな瞳には、「また拒絶されるのではないか」という怯えの色が色濃く浮かんでいた。
ティルは静かに息を吸い込むと、モグラの前に膝をつき、その丸っこい頭にそっと手のひらを置いた。
「……王国の人間たちは、本当に何も分かってないな」
「え……?」
モグラが呆然と顔を上げた。
ティルの表情には、怒りも侮蔑もなかった。あるのは、大地の真理を知る者としての、確信に満ちた優しい眼差しだった。
「モグラくん、よく聞いてくれ。土っていうのはね、放っておくと雨や重みで締め固まって、カチカチになって息ができなくなるんだ。土の中に隙間がなくなると、空気も水も通らなくなって、微生物も根っこも窒息して枯れてしまうんだよ」
「ち、窒息……?」
「そう。だから人間は、わざわざ腰を痛めながらスコップや鍬で土を掘り返すんだ。でもね、君が土の中にトンネルを掘ってくれることは、土の中に新鮮な空気の通り道を作って、大地の呼吸を助けることそのものなんだよ」
ティルはモグラの丸い前足をそっと指先で持ち上げた。
幅広で頑丈な扇状の爪。土を捉え、空気を含ませながらほぐすための、完璧な形状。
「君のその立派な前足は、畑を破壊する凶器なんかじゃない。固まった大地を柔らかく耕し、作物が元気に根を伸ばせるようにするための、最高の宝物だ。俺にとって、君は迷惑な害獣なんかじゃなくて、喉から手が出るほど欲しい『最高の相棒』なんだよ」
「ほ、宝物……!? 俺の爪が……宝物ッスか……!?」
モグラの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
生まれてからずっと、誰からも歓迎されず、ただ石を投げられ、忌み嫌われてきた小さな命。
その存在を、誇りを、目の前の青年はこれ以上ないほど温かい言葉で包み込み、肯定してくれたのだ。
「う、うわぁぁぁぁんッ! 旦那ぁぁぁぁッ!!」
モグラは堪えきれずにティルの胸に飛び込むと、服の裾を小さな前足でぎゅっと握りしめ、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
ティルはその背中を、落ち着くまで何度も、何度も優しく撫で続けた。
やがて泣き止み、鼻をぐずぐずとすすりながら顔を上げたモグラに、ティルは穏やかに微笑みかけた。
「さてと。これからも一緒に暮らして、一緒に畑を作っていくんだ。いつまでも『モグラくん』って呼ぶのも味気ないし……君に、名前をつけてもいいかい?」
「な、名前……!? 俺に、名前をくれるッスか!?」
モグラの耳がピコンと跳ね上がる。
「ああ。君が昨日も今日も、美味しそうにご飯をもぐもぐ食べてくれた姿がすごく印象的だったし、土を元気に掘り起こすシャベル・モグラの誇りを込めて……『モグ』っていうのはどうかな?」
「モグ……」
モグラはその言葉を、口の中で何度も大切そうに転がした。
「モグ……モグッスか……! すっごく可愛いし、力強くて……最高ッス! 俺、今日からモグッス!」
その瞬間だった。
――ぽわぁぁぁぁん……。
ティルの胸の奥から、温かな魔力の光が溢れ出した。
同時に、モグの小さな胸元からも、柔らかな琥珀色の光が立ち上る。
二つの光は朝の木漏れ日の中で溶け合い、螺旋を描きながら、お互いの魂を優しく結びつけていく。
(これが……テイマーの契約……!)
軍事特区の兵士たちが使っていたような、力でねじ伏せ、隷属の首輪で縛り付ける冷酷な呪縛ではない。
お互いを認め合い、信じ合い、慈しみ合うことで成立する、真の魂の絆。
「ピギャァァァッ!」
光が収まると、モグの毛並みはさらに艶を増し、前足のシャベルの爪はまるで上質な黒鉄のように鈍い光沢を放っていた。
ティルの頭の中には、モグの感情――溢れんばかりの感謝と、誇りと、ティルへの純粋な忠誠心が、自分の感情のようにリアルタイムで伝わってきた。
「ティルの旦那! 身体の底から、力がモリモリ湧いてくるッス!」
「はは、契約の力かな。毛並みも一段とピカピカになったよ、モグ」
「へへっ、旦那! ……あれっ? なんだか不思議ッス。土に爪を当てるだけで、地中の深いところの固さや湿り気が、頭の中にフワッと浮かんでくるような気がするッス……?」
「へえ、土の様子が爪で分かるのかい? それはすごいな!」
「任せてほしいッス! 旦那の畑のためなら、このモグ、地の底まで耕してみせるッスよ!」
胸を張って力強く前足を突き出すモグ。その瞳には、もう過去の怯えなど微塵も残っていなかった。
「頼りにしてるよ、モグ。よし、それじゃあ朝飯も食べたし、昨日掘った土をさらに細かくほぐして、最初の畝を作ってみようか!」
「了解ッス、旦那! 畑仕事の始まりッス!」
朝日が荒野を黄金色に染め上げる中、青年と一匹のモグラは、元気いっぱいに畑へと駆け出した。




