第33話:ケロ爺の天候術と、雨上がりの急成長
翌朝、東の地平線から差し込んできた陽光は、いつもとはまるで違う光景を開拓地にもたらしていた。
工房の重い木の扉を開けたティルは、思わずその場に立ち止まり、息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、幻想的な白銀と黄金が混ざり合う、柔らかな朝霧の海だった。
「……わぁ……! なんだこれ、霧……?」
冷たく湿った不快な霧ではない。
肌を撫でる空気は、まるで高級な化粧水をふわりと吹きかけられたかのように瑞々しく、ほんのりと温かい。
大気には、雨上がりの澄んだ大地の匂いと、甘い若草の香りが濃密に溶け込んでいた。
「旦那、おはようッス! ……うわぁ!? 外が真っ白ッスよ!」
工房の中から飛び出してきたモグが、目を丸くして前足をパタパタと振った。
その小さな黒い鼻先をひくひくさせ、ふかふかの土の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいる。
「アタシの羽が、全然重くならないピョ! 霧なのに、不思議とサラサラしてて気持ちいいピョね!」
ピピもティルの肩の上で翼を広げ、心地よさそうに朝露の香りを吸い込んだ。
「わほっ! ご主人様、おはようワン!」
サンが元気に駆け寄ってくると、胸の太陽の核から柔らかな光が零れ落ちた。
その黄金色の光が朝霧の微粒子に乱反射し、広場全体がまるで巨大な天蓋付きの温室のように、優しく柔らかな光で包み込まれていく。
「カラン、コロン……」
澄んだ銀鈴の音とともに、ベルが優雅に歩み出てくる。
いつもなら湿気で重くなるはずの極上フリースが、ふんわりと空気を含んで誇らしげに膨らんでいた。
「ふむ……。湿気を帯びているのに、毛並みがベタつきませんわ。……まるで、極上の蒸気浴を楽しんでいるかのようですの。……メェ」
そして、のっしのっしと重厚な足音を響かせ、ガン親方が姿を現した。
玄武岩の甲羅をカチリと鳴らし、霧の立ち込める水路の方を顎で指差す。
『フン……。朝っぱらから、粋な真似をしおるわい。あの仙人蛙め……ガメ』
ガン親方の視線の先――。
水路の沈砂池の縁に据えられた玄武岩の上で、若草色の小蛙――ケロ爺が、蓮の葉の笠をかぶり、葦の杖を両手で構えて静かに座り込んでいた。
その背中の水色の斑点が、朝の光を浴びて淡く神秘的な輝きを放っている。
『ケロ、ケロリ……。よい朝じゃケロな、ティル様。昨日の大雨の恵み、余すところなく畑に行き渡らせておる最中じゃケロ』
「ケロ爺さん! この温かい霧は、あなたが……?」
ティルが駆け寄ると、ケロ爺はのんびりと目を細め、葦の杖で畑の方向を指し示した。
『百聞は一見にしかずじゃケロ。まずは自分たちの目で、畑を見てくるがよいケロよ』
ティルたちは顔を見合わせ、急ぎ足で畑の畝へと向かった。
そして、第一号畝から第四号畝へと視線を走らせた瞬間――全員が言葉を失った。
「「「ええええええええっ……!?」」」
昨日までとは、まるで別世界だった。
まず、第二号畝の【カラカラ豆】だ。
昨日の豪雨の前までは、紫色の小さな花を満開に咲かせていただけだったツル草。
それが今や、花が落ちた節々のすべてから、手のひらほどもある鮮やかなエメラルド色の豆鞘が、たわわにぶら下がっていたのだ。
一莢一莢がはちきれんばかりに膨らみ、朝露を浴びてキラキラと輝いている。
「う、嘘ッスよね……!? 昨日まで花だったのに、もうこんなに大きな豆が生ってるッス!!」
モグが両前足で頭を抱え、信じられないものを見るように飛び跳ねた。
ティルはおそるおそる手を伸ばし、一番手前に実っていた豆鞘を指先でつまんでみた。
瑞々しい皮はピンと張り詰め、中には大粒の豆がぎっしりと隙間なく詰まっているのが指先越しに伝わってくる。
試しに、ひと莢だけをプチリと摘み取り、両手でパキッと割ってみた。
パキッ……!
小気味よい音とともに、中から現れたのは、翡翠のように艶やかな五粒の丸々とした豆だった。
切り口からあふれ出したのは、青臭さのない、甘い若草のような爽やかな果汁だ。
「モグ、一粒食べてごらん」
ティルが一粒手渡すと、モグは両手で受け取り、ポリッと口に放り込んだ。
ポリッ、ジュワッ……!
「あ、甘いッス……! 生なのに全然渋みがなくて、噛むと甘いお豆のミルクがジュワッと口いっぱいに広がるッスよ!」
モグが両目を輝かせて叫んだ。
ティルも自分用に一粒口へと運んでみた。
歯を立てた瞬間、小気味よいパリッとした破砕音とともに、枝豆に似た爽やかな香気と、トウモロコシのような濃厚な甘みが舌の上に弾け飛ぶ。
青臭さは微塵もなく、朝露をたっぷり吸い込んだ豆の粒は、果物のようにみずみずしかった。
「これはすごい……! 塩茹でにするだけで極上のごちそうになるし、完熟させて乾燥豆にすれば、最高の保存食になるよ」
ティルが感嘆すると、サンも足元で「ワン! ぼくも食べたいワン!」と尻尾を振って見上げた。
ティルが薄皮を剥いた小さな豆粒を差し出すと、サンは器用に舌で巻き取り、嬉しそうに目を細めて喉を鳴らした。
「ピピも食べてみるかい?」
「もぐもぐ……ピョ! 豆の薄皮が柔らかくて、とってもジューシーピョね!」
ピピも嘴で器用についばみ、満足そうに羽をパタパタと弾ませた。
さらに、第四号畝の【蜜入り野イチゴ】に目を向けると、驚きはさらに跳ね上がった。
昨日、ベルの敷き藁マルチで雨から守ったばかりの小さな本葉が、濃い緑色の分厚い葉へと一気に茂り広がり、その間から無数の可憐な白い花が一斉に咲き誇っていたのだ。
花の中心には、すでに親指の先ほどの青い実が結実し始めており、漂ってくる甘いベリーの香りは、昨日の何倍にも濃くなっていた。
「お花がいっぱい咲いて、もう実ができてるピョ……! こんなの、植物の成長スピードじゃないピョね!」
ピピが目を白黒させて叫ぶ。
「ぷるぅ……! お土が……ぷるのお土が、すっごく栄養いっぱいで喜んでるぷるぅ!」
ぷるが土の上にぽよんとダイブすると、大根を収穫したあとの第一号畝の黒土が、まるで油を塗ったかのような深い漆黒の艶を放ち、発酵した大地の芳しい匂いを漂わせていた。
ティルがしゃがみ込み、黒土を一握りすくい上げて指先でほぐしてみると、土の粒子一つひとつが小さな団粒となってふんわりと崩れ、指にまとわりつくことなくサラサラと零れ落ちていく。
「大雨の水分と雷の窒素を、ぷるの粘液が見事に包み込んで定着させてくれたんだね。……これなら、すぐにでも次のかぼちゃや芋の苗を植え付けられるよ」
ティルがぷるの頭を優しく撫でると、ぷるは誇らしげに体内の水滴をキラキラと輝かせた。
ベルも第四号畝の脇に歩み寄り、野イチゴの若葉を優雅につまんで吟味する。
「ふむ……。葉の裏の葉脈まで力強く張り巡らされていますわ。これほど健康な苗なら、病害虫の心配も皆無ですわね。……ふふ、わたくしの敷き藁マルチの保温効果も大いに貢献したということですわ。……メェ」
「ケロ爺さん……! これ、一体どういうことなんだい!?」
ティルが驚きのあまり声を上ずらせて振り返ると、ケロ爺はひょいと跳ねてティルの肩の上へと飛び乗った。
そして、老仙人らしいニヤリとした笑みを浮かべ、葦の杖をくるりと回したのだ。
『カッカッカ! 驚くのも無理はないケロな。これぞ、ワシらウェザー・フロッグの真の秘技――【調気仙術・霧雨の衣】の力じゃケロ!』
ケロ爺は誇らしげにくちばしを鳴らし、霧に煙る空を見上げた。
『ティル様、昨日の雷を伴う大雨はのう、ただの水ではないのじゃよ。天の雷光は、大気の中に眠る【肥沃の素】を目覚めさせ、雨水に溶け込ませて大地へと降り注ぐ。つまり昨日の雨は、天から降ってきた極上の天然肥料じゃったのじゃケロ』
「雷雨の窒素固定……! 前世の農業でも、雷が多い年は豊作になるって言われていた……!」
ティルが膝を打つと、ケロ爺は感心したように目を丸くした。
『ほう! 相変わらず若造のくせに物知りじゃケロな! その通りじゃ。じゃがな、ただ雨を降らせただけでは、作物はこれほど育たん。豪雨のあとに急激な日差しが照りつければ、土の中の水が熱湯のように煮え立ち、根腐れを起こして苗は一発で全滅する【蒸れ枯れ】を起こすのじゃ』
「確かに……! 雨上がりの強い直射日光は、野菜にとって一番危険なんだ!」
「そうじゃケロ。そこでワシの出番よ」
ケロ爺は杖の先をツンと向けた。
『ワシの魔力で、雨上がりの余分な湿気をこの微細な【保温の朝霧】へと再構成したのじゃ。サンの放つ陽だまりの光を霧の粒子で優しく拡散させ、葉焼けを防ぎつつ、光合成に最も適した湿度六十五パーセント、気温二十二度を完璧に維持しておるのじゃケロ!』
「サンの光を拡散させて、天然の温室を作っていたのか……!」
ティルは胸が熱くなるのを感じた。
サンの強力な光と熱。
ピピとガンが整えた清らかな水路。
ぷるとベルが育んだ肥沃な土壌。
そして、それらのバランスを天候と湿度の調整によって完璧に調和させる、ケロ爺の仙人技。
誰か一匹の力ではない。
仲間たちの能力がパズルのピースのように噛み合うことで、この荒野の畑は、見事な実りの楽園へと進化を遂げていたのだ。
『ケロリ! さらに見せてやるケロよ! ……【調気・風通しの陣】!』
ケロ爺が葦の杖を天に向けて掲げると、杖の先の水滴がキラリと輝いた。
次の瞬間――。
ファァァ……と、南から心地よい微風が吹き抜け、畑の畝の間を滑るように通り抜けていった。
すると、適度な水分を土に残したまま、作物の葉を濡らしていた余分な水滴だけが、ふわりと上空へと蒸発していったのだ。
立ち込めていた朝霧がゆっくりと晴れ上がり、澄み切った青空から、心地よい初夏の陽光が畑一面へと降り注いだ。
「うわぁ……! 葉っぱがサラッサラになったッス!」
モグが豆の葉に触れて歓声を上げる。
「風通しが良くなって、カビや病気の心配が消え去ったピョ!」
ピピも上空から嬉しそうに羽ばたいた。
「おじいちゃんの風、すっごく気持ちいいワン!」
サンが嬉しそうに駆け回り、ケロ爺の足元でじゃれつく。
ティルは第四号畝の野イチゴの前に歩み寄り、白い花の中心で膨らみ始めた青い実をそっと撫でた。
朝露が適度に残された葉は生き生きと天を仰ぎ、甘い蜜の香りがそよ風に乗って広場へと漂っていく。
「本当にすごいよ、ケロ爺さん……! これなら、カラカラ豆も数日中に収穫できるし、野イチゴも初夏の間に真っ赤な大粒の実をつけてくれる!」
ティルが心からの賛辞を贈ると、ケロ爺は蓮の笠を目深に引き下げ、照れくさそうにくちばしを尖らせた。
『カ、カッカッカ! 仙人に向かってすごいなどと、安っぽい世辞を言うでないケロ! ……ワシはただ、ワシを信じて工房の火にあたらせてくれた施主に、当然の恩返しをしたまでじゃケロよ』
ぶっきらぼうにそっぽを向くケロ爺。
だが、その首元の若草色の皮膚が、微かに桃色に染まっていた。
ガン親方がのっしのっしと歩み寄り、豪快に太い前足でケロ爺の背中をパシンと叩いた。
『ガハハ! 素直でないところは昔と変わらんのう、仙人蛙め! だが、見事な腕前じゃったぞい……ガメ!』
『ゲホッ、ゲホッ……! 叩く力が強すぎるケロ、この馬鹿亀! 甲羅を削って薄くしてやるケロよ!』
二匹の微笑ましい口喧嘩に、広場には仲間たちの明るい笑い声が弾けた。
ティルは立ち上がり、みずみずしい緑に満ちた畑を誇らしげに見渡した。
そして、肩の上のケロ爺に向かって、目を輝かせながら言った。
「ケロ爺さん。天候と湿度がコントロールできるなら……これからは、もっと繊細な野菜や作物の苗も育てられるんじゃないかな?」
ティルの言葉に、ケロ爺はニヤリと老練な笑みを浮かべた。
『ほう……! 相変わらず欲張りな若造じゃケロな。じゃが、その通りじゃ。天気を読めれば、育たぬ作物などこの世にないわい。……よし、それなら次は、天候を自在に操るための専用の【天候ハウス】と【育苗床】を作るがよいケロ!』
「天候ハウスと育苗床……! ガン親方の石組みと組み合わせれば、年中苗を育てられるね!」
ティルが身を乗り出すと、モグとピピも目を輝かせた。
「合点承知ッス! すぐに土を運ぶ準備をするッスよ!」
「アタシは木材と葦草を集めてくるピョ!」
仲間たちの元気な声が、雨上がりの青空へとどこまでも高く響き渡っていった。
***
【後書き】
第33話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
ウェザー・フロッグのケロ爺編、第3幕【能力判明編】をお届けしました!
大雨のあとに立ち込めた、不思議な温かい朝霧!
天の雷雨に含まれる窒素(天然肥料)とサンの太陽光を極限まで活かす、ケロ爺の【調気仙術・霧雨の衣】が炸裂しました!
蒸れ枯れを防ぎ、光と湿度を完璧にコントロールした結果、カラカラ豆は一晩で大豊作の長莢へ、野イチゴも一斉に開花・結実!
ティルの前世農業知識と魔物たちの能力が見事に噛み合い、農園の生産性が一気に跳ね上がりました!
次回、第34話――「天候ハウスと、命を繋ぐ育苗床(仮)」。
ケロ爺の天候術を常時活かすため、ガン親方の石組みとピピの水流を合わせた「全天候型温室(天候ハウス)」の建設へ!
仲間たち全員で新たな栽培施設を作り上げる【共同作業編】をどうぞお楽しみに!
「ケロ爺さん頼もしすぎる!」「生豆美味しそう!」と思っていただけましたら、
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次回もどうぞよろしくお願いいたします!




