第22話:君の名前はサン、太陽のぬくもり
初夏の柔らかな朝の光が、大木と岩壁に囲まれた開拓地を眩しく照らし出していた。
東の玄武岩の谷底から戻ったティルたちは、野営地の木陰へと辿り着いた。
ティルの腕の中では、極限の寒さと恐怖から解放された黄金色の子犬が、微かに「くぅ……すぴぃ……」と穏やかな寝息を立てている。
痩せこけた小さな身体はまだ驚くほど軽かったが、ティルの胸の温もりを吸い込んで、冷え切っていた手足には確かな血の気が戻り始めていた。
「旦那、寝床はこっちッス!」
モグが小走りで駆け寄り、寝床のオンドル(天然の床下暖房)の上に敷かれた羊毛マットをポンポンと叩いた。
「わたくしのクッションも貸して差し上げますわ」
ベルが前足で、自分のドーナツ型クッションをそっと押し出してきた。
「過酷な環境で痛めつけられた毛並みには、上質なフリースの保温性が不可欠ですもの。……勘違いしないでくださる? 淑女の慈悲ですわよ。……メェ」
「ありがとう、ベル。助かるよ」
ティルは微笑みながら、ベルのふわふわのクッションの窪みへと、子犬をそっと寝かせた。
子犬は柔らかな羊毛の感触に包まれると、無意識のうちに手足をぎゅっと丸め、心地よさそうに鼻を鳴らした。
ピピが清らかな湧き水で濡らした手ぬぐいをくわえて飛び、ティルがそれを受け取って、泥まみれだった子犬の耳や肉球を優しく拭ってやる。
ぷるもそばに寄り添い、体温を逃がさないようにぽよんと寄り添った。
「さて……。あの子が目を覚ましたときのために、お腹に優しいごはんを作ろう」
ティルは立ち上がり、石板テーブルの上の調理道具へと向かった。
何日もまともな食事を取れず、飢えと暴力に晒されてきた子犬の胃腸は、ひどく弱り切っているはずだ。
固いパンや油っこい肉を急に与えれば、消化不良を起こして激しい腹痛に苦しむことになる。
(前世で実家の弱った子犬を看病した時のように、じっくり煮込んだ滋養おかゆを作ろう)
ティルは金属鍋に水路の澄んだ湧き水をたっぷりと注ぎ、細かくすり鉢で挽いた炒りキビと野生の穀物の粉を投入した。
焚き火の穏やかな熾火にかけ、木べらで底が焦げ付かないよう、ゆっくりと円を描きながら時間をかけて煮込んでいく。
さらに、第一号畝から収穫した新鮮な【ゴツゴツ土大根】を取り出した。
大根の首に近い、最も水分が多く甘みが強い部分を選び、小刀の背で丁寧にすりおろしてきめ細やかなペースト状にする。
大根に含まれる天然の消化酵素は、弱った胃壁を優しく守り、穀物の栄養の吸収を助けてくれるのだ。
それをコトコトと煮立つ鍋の中に溶かし込むと、大根の素朴な甘みが、香ばしい穀物のスープ全体へと優しく溶け込んでいった。
仕上げに、昨夜の晩餐で残しておいた野菜スープの上澄みをひとさじ加え、極少量の岩塩でまろやかに味を調える。
コトコト、コトコト……。
三十分ほどじっくりと煮込むと、鍋の中身はポタージュのように滑らかで、温かな黄金色のおかゆへと仕上がった。
湯気とともに、香ばしい穀物の香りと、大地の甘い匂いが、初夏の風に乗ってふわりと漂う。
「うわぁ……! すごく優しい匂いッス!」
モグが鼻をひくひくさせて目を細めた。
「これなら、弱った胃腸にもすんなり染み渡るピョね!」
ピピも太鼓判を押す。
その香ばしい匂いに誘われるように――。
クッションの上で丸くなっていた子犬の小さな黒い鼻が、ピクピクと激しく蠢いた。
「……ぅ……ん……?」
子犬が重そうに瞼を持ち上げた。
琥珀色に澄んだ大きな瞳が、ぼんやりと光を取り戻していく。
だが次の瞬間、子犬は自分がどこにいるのか分からず、パニックを起こしたように飛び起きようとした。
「ひっ……!? こ、ここはどこワン……!? ぼく、寝坊しちゃったワン!? 怒られる……殴られるワン……!?」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
ティルが穏やかな声で呼びかけ、そっと子犬の頭に手のひらを添えた。
「誰も君を怒ったりしないよ。ここは安全な開拓地だ。君はもう、殴られることなんてないんだよ」
「あ……」
子犬はティルの優しい笑顔を見上げ、それから自分の足元を見回した。
冷たい泥と影の裂け目ではない。
日だまりのように暖かく、ふかふかの純白の羊毛ベッドの上。
周りには、心配そうに見つめるモグやピピ、ぷる、そしてベルがいる。
「ご主人様……。夢じゃなかったワン……?」
子犬の目に、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
「ああ、夢じゃないよ。……お腹が空いただろう? 君のために、温かいごはんを作ったんだ」
ティルは木製の小鉢に注いだ、適温まで冷ました黄金色のおかゆを差し出した。
そして、木の匙ですくって、子犬の口元へと運ぶ。
「お腹に優しい穀物と大根のおかゆだよ。ゆっくり食べてごらん」
子犬はおずおずと舌を伸ばし、匙の上のおかゆをペロリと舐めた。
――とろり。
「……っ!?」
子犬の琥珀色の瞳が、カッと見開かれた。
「あ、あまい……! とろとろしてて……身体の中に、ぽかぽか温かいお日さまが入ってくるみたいだワン……!」
子犬は夢中で匙に食らいつき、やがて待ちきれなくなったように小鉢に顔を突っ込んで、ハフハフと音を立てておかゆを平らげ始めた。
お腹が痛くなることもなく、すうっと五臓六腑に染み渡る大地の恵み。
最後の一滴まで綺麗にお皿を舐め尽くすと、子犬は「ぷはぁっ!」と息を吐き、満足そうにお腹をポヨンと膨らませた。
そして、ちぎれんばかりに短い尻尾をパタパタと振り、ティルの膝へと前足をかけた。
「おいしかったワン……! こんな美味しいの、生まれて初めて食べたワン! ご主人様、ありがとうワン!」
「ふふ、綺麗に食べてくれて嬉しいよ」
ティルは温かい手ぬぐいで口元を拭いてやりながら、愛おしそうに子犬の背中を撫でた。
朝の陽光を浴びた子犬の毛並みは、泥が落ちたことで、本来の美しい輝きを取り戻していた。
まるで、初夏の青空に昇る太陽そのもののように、温かく、眩く、黄金色にきらめいている。
撫でる手のひらに伝わってくるのは、天気のいい日に天日干ししたばかりの布団のような、香ばしく愛おしい温もりだった。
その光を見つめながら、ティルは穏やかに口を開いた。
「ねえ。君に、素敵な名前を贈りたいんだ」
「な、なまえ……ワン?」
子犬が耳をピクンと立てて首を傾げた。
「ああ。君のその黄金色の毛並みは、どんな暗闇も優しく照らす、太陽そのものだ。冷たく凍えていた俺たちの心まで、ぽかぽかと温めてくれる」
ティルは真っ直ぐに子犬の瞳を見つめた。
「君の名前は『サン』。太陽のサンだ。……どうかな、気に入ってくれるかい?」
「サ……ン……」
子犬はその響きを、宝物のように何度も繰り返した。
「サン……! ぼくの名前、サン……! 役立たずの雑種なんかじゃなくて、お日さまの名前だワン……!」
サンの全身が、歓喜の震えに包まれた。
王都の軍事特区では、名前すら呼んでもらえず、「駄犬」「クズ」と罵られて蹴飛ばされるだけだった。
そんな自分が、大好きなご主人様から、こんなにも美しく尊い名前を授かったのだ。
「ぼく、サンだワン! ご主人様、大すきワン!!」
サンはティルの胸へと飛び込み、顔中をペロペロと熱烈に舐め回した。
その瞬間だった。
――ドクン……!
ティルの胸の奥深く、大地の鼓動と呼応するようにして、これまでにないほど眩い黄金色の光が溢れ出した。
ティルの右の手のひらから放たれた光の粒子が、サンの胸元にある太陽の核へと吸い込まれ、二人の魂を一本の光の絆で強く結びつけていく。
【大地の主の魂の契約】。
サンの心の奥底から、濁りのない純粋な忠誠と、あふれんばかりの愛が、ティルの心へとダイレクトに流れ込んできた。
『ご主人様……! ぼくを拾ってくれて、命を救ってくれてありがとうワン……!』
『ぼくの命ぜんぶを使って、ご主人様とみんなを守るワン! 畑を、おうちを、ぜったいに照らし続けるワン……!』
健気で、どこまでも真っ直ぐな誓い。
かつて無能と蔑まれて追放されたティル自身の魂と、深く強く共鳴し合う。
ティルは目頭を熱くしながら、光の中でサンの小さな身体を力強く抱きしめた。
「ありがとう、サン。君は俺の、最高の相棒だ。これからずっと、一緒に暮らそうね」
光がスッと収まると、サンの姿には驚くべき変化が現れていた。
ガリガリに痩せこけていた身体には確かな筋肉の張りが宿り、黄金色の毛並みはまるでシルクのように艶やかに波打っている。
そして何より、サンの全身から、ほんのりと春の陽だまりのような優しい温熱と光が、常にふわふわと放たれるようになっていたのだ。
「やったッスね、サン! これで正真正銘、俺たちの弟分ッス!」
モグが嬉しそうに駆け寄り、前足でサンの背中をポンポンと叩いた。
「畑の見回りも、土掘りも、俺がぜんぶ教えてやるッスよ!」
「ふふ、礼儀正しいワンちゃんは大歓迎ピョ! 困ったことがあったら、アタシに何でも相談しなさいピョ!」
ピピも誇らしげに翼を広げる。
「サンちゃん、あったかいぷるぅ~! お日さまのにおいするぷる!」
ぷるがサンの足元にすり寄り、ぽよんと跳ねた。
そして、ベルがカランと首の鈴を鳴らし、上品に進み出た。
「ふん……。元気を取り戻したようで何よりですわ」
ベルはツンと顎を反らせながらも、そのサファイアの瞳には優しい光が宿っていた。
「ですが、わたくしは高貴な令嬢羊ですのよ。飛びついて泥をつけたりしたら、容赦なく角で小突いて差し上げますからね! ……メェ」
「わかったワン! ベルお姉ちゃん、ありがとうワン!」
サンが無邪気に尻尾を振って応えると、ベルは「お、お姉ちゃん……!? な、なんて馴れ馴れしい……!」と顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
仲間たちの温かな笑い声が、初夏の青空の下へと響き渡る。
体力を完全に取り戻したサンは、元気いっぱいに開拓地の広場を駆け回った。
尻尾を風車のようにブンブンと振り回し、土を踏みしめる感触を全身で楽しんでいる。
走るサンの足跡からは、ぽかぽかとした金色の光の粉がふわりと立ち上り、乾いた地面に温かな生命の気配を宿していく。
やがてサンは、昨日みんなで広げたばかりの第四号畝(野イチゴの畑)と、第二号畝(カラカラ豆の棚)の前でピタリと立ち止まった。
そして、キラキラと輝く琥珀色の瞳で畑を見つめると――。
「わほっ!」
サンが空に向かって嬉しそうに一声吠えた。
その瞬間、サンの胸元の太陽の核から、まるで小さな朝日のような、柔らかく眩い黄金色の光がパァッと放たれたのだ。
光の波は畑全体を優しく包み込み、土の奥深く、そして青々とした若葉の細胞へとじんわり染み渡っていく。
朝露が光の粒となってキラキラと蒸発し、微小な虹が畝の上に無数に架かる。
その温もりを浴びた瞬間、畑の土と作物たちに、誰もが予想していなかった驚くべき変化が起き始めていた。




