第21話:暗闇のうずくまりと、太陽の仔犬
荒野の地平線が白み始め、夜の群青から淡い東雲色へと空が茜を帯びていく。
夜明け前の澄んだ静寂。
開拓地の大木の下では、昨日新調した羊毛ベッドの上で、モグとピピ、ぷる、そしてベルが身を寄せ合って穏やかな寝息を立てていた。
初夏の朝風は肌に心地よく、水路のせせらぎが遠くでサラサラと流れている。
だが、ティルはひとり、静かに目を覚まして身を起こしていた。
(昨夜、風に乗って聞こえたあの声……)
眠りにつく直前、遠く東側の岩山からかすかに届いた、切ない子犬のすすり泣き。
空耳ではなかったはずだ。
前世で孤独な社畜生活を送っていた頃、誰にも助けを求められず、夜の冷たいアパートでうずくまっていた自分の記憶と重なり、胸の奥がチクリと痛んでいた。
ティルは足音を忍ばせ、作業着の上着を羽織ると、革袋に温かいスープの残りと湧き水、そして清潔な手ぬぐいを詰めた。
静かに歩き出そうとした、その時だった。
「……旦那、どこ行くッスか?」
モグが寝床から鼻をひくつかせ、目をこすりながら起き上がった。
「アタシを起こさずに単独行動なんて、感心しないピョね」
ピピも小枝から降りてきて、ティルの肩にちょこんと止まった。
「ぷるも! 主さまと一緒に行くぷる!」
ぷるがティルの長靴にぽよんと吸い付く。
さらに、特製クッションの上で丸くなっていたベルが、サファイアの瞳をぱちりと開けて、優雅に立ち上がった。
「朝早くから、どこへお出かけですの? わたくしに断りもなく出歩くなんて、無礼ですわよ……メェ」
「みんな、起こしてごめんね」
ティルは苦笑しながら、東の岩山を指差した。
「昨夜、あっちの岩山の奥から、小さな鳴き声が聞こえたんだ。誰かが寒さに震えているような気がして、どうしても気になってね」
「鳴き声ッスか……! 俺も土の声を聞いてみるッス!」
モグが地面に爪を突き立て、耳を澄ませた。
「……あっ! 聞こえるッス! 東の玄武岩の谷間、深さのある裂け目から、すっごく弱々しい鼓動が聞こえるッスよ!」
「本当ピョ!? アタシが上空から道案内するピョ!」
「よし、行こう!」
一同は揃って、朝露を踏みしめながら東側の未開拓地へと急いだ。
昨日みんなで広げたばかりの第四号畝を越え、防風垣の外へと出ると、景色は一変した。
そこは足場の悪い岩肌と急な傾斜が続く、荒涼とした岩山地帯だった。
初夏の朝風はまだ冷たく、そそり立つ黒い玄武岩が陽光を遮り、谷底には暗く冷え切った影が落ちている。
太陽の光を浴びて青々と輝く畑とは、まるで別世界のような寒々しさだった。
「カラン、コロン……」
ベルの首元の鈴が、岩肌に反響して涼やかに鳴り響く。
ベルは小さな鼻をひくひくと動かし、険しい顔をした。
「……冷たい風ですわね。日当たりが良いはずの荒野なのに、この谷底だけは太陽の光が届かず、底冷えがしますわ。……メェ」
「あそこピョ! あの尖った黒い岩の割れ目ピョ!」
先を飛んでいたピピが、上空から急降下しながら鋭く叫んだ。
ティルたちが駆け寄ると、人の腰ほどの幅しかない、薄暗い岩の裂け目があった。
底を覗き込むと、湿った冷気が立ち込め、外の初夏の陽気とはかけ離れた冷え込みに満ちている。
昼間でも太陽の光が一度も差し込まない、天然の冷暗所だった。
そして――その最も暗く、冷え切った岩の角。
そこに、ひとつの小さな「金色の塊」がうずくまっていた。
「……あの子だ」
ティルは息を呑んだ。
そこにいたのは、生後数ヶ月ほどに見える、小さな子犬だった。
本来なら太陽の光を浴びて黄金色に輝くはずの柔らかな毛並みは、泥と乾いた砂埃にまみれてくすみ、骨が浮き出るほど痩せ細っている。
前足を胸に抱え込み、丸まって激しくガタガタと震えていた。
その身体の表面からは、淡い黄金色の光の粒が、まるで消え入りそうな蝋燭の炎のように、頼りなくチカチカと瞬いていた。
だが、周りの冷たい影に熱を奪われ、その光は今にも吹き消されそうになっている。
(……サンシャイン・ドッグ……!)
設定資料集の記述が、ティルの脳裏に鮮やかに閃いた。
光と熱をその身に宿し、周囲に太陽の暖かさをもたらす、心優しい忠犬の魔物。
「クゥ……クゥン……」
ティルたちの足音に気づいたのか、子犬がビクッと耳を跳ね上げ、恐る恐る顔を上げた。
泥に汚れた顔の中で、琥珀色に澄んだ丸い瞳が、怯えきった光を宿してティルを見上げていた。
だが、人間であるティルの姿を認めた瞬間――子犬の全身が、絶望に満ちた激しい痙攣を起こしたのだ。
「ひっ……! ご、ごめんなさい……ごめんなさいワン……!」
子犬は耳をペタリと倒し、前足で頭をかばうようにして縮こまった。
「ぼく、たたかえない役立たずワン……! 敵を噛むことも、強い攻撃魔法も使えないワン……! だから……だから、殴らないで……蹴飛ばさないでほしいワン……!!」
しゃくりあげるような悲痛な叫び。
その小さな身体には、激しい打撲の痕や、硬い靴で蹴られたような古傷が痛々しく残っていた。
王都の第一軍事特区。
攻撃力と武力だけが絶対のヒエラルキーとされるあの場所で、攻撃能力を持たず、ただ周囲を温かく照らすだけの光しか出せないこの子は、「無能な雑種」「役立たずの駄犬」と罵られ、暴力の末にこの極寒の岩陰へと投げ捨てられたのだ。
「……っ」
ティルの胸が、激しい怒りと深い痛みに締め付けられた。
前世の自分が、使えない歯車として冷遇され、夜のオフィスで使い潰された記憶。
そして、この世界で「無能テイマー」として罵られ、追放された理不尽。
そのすべてが、この小さな震える命と完全に重なり合っていた。
ティルは武器を持たず、姿勢を低くして膝を地面につけた。
目線を子犬と同じ高さに合わせ、ゆっくりと、穏やかな声で語りかける。
「……誰も、君を殴ったりしないよ」
子犬がピクッと震えて、薄目を開けた。
「君を蹴飛ばす奴なんて、ここには一人もいない。……怖かったね。ずっと一人で、寒かったね」
ティルは優しく目を細め、道具袋から手ぬぐいと水筒を取り出した。
そして、水筒の蓋に注いだ温かい穀物スープを、そっと自分の手のひらに乗せて差し出した。
スープの湯気とともに、香ばしいキビと大根の優しい甘い香りが、冷たい岩陰にふわりと漂う。
「お腹が空いているだろう? まずはこれを飲んでごらん。温かいよ」
「くぅ……? ほんとうに……なぐらないワン……? ぼく……ただの、ひかりが出るだけの……役立たずワン……?」
子犬は信じられないものを見るように、怯えながらティルの手のひらを見つめた。
その時、ティルの背後から、仲間たちが一歩前に進み出た。
「旦那の言う通りッスよ!」
モグが前足を広げて、温かな笑顔を見せた。
「俺だって昔は『穴を掘るだけの無能なモグラ』って捨てられたッス! でも旦那は、俺の爪を世界一の宝物だって言ってくれたッス!」
「そうピョ!」
ピピも羽を丸めて優しく声をかける。
「アタシだって『お湯が出るだけの役立たず鳥』って追い出されたピョ! 戦えなくたって、アンタにはアンタにしかない素晴らしい力があるピョよ!」
「ぷるも! ぷるも『泥スライム』って塩まかれたけど、主さまが温かいおうちくれたぷる! ここは、みんなのおうちぷるぅ!」
ぷるがぽよんと跳ねて、励ますように身体を揺らした。
そして、ベルが進み出た。
首元の鈴をカラン、コロンと優雅に鳴らし、サファイアの瞳を細めて子犬を見つめる。
「……お聞きなさい、名もなき仔犬。わたくしも王都の者たちに散々見下され、捨てられましたわ」
ベルは誇らしげに純白のフリースを揺らした。
「ですが、この不器用な人間と仲間たちは、わたくしたちの存在を、決して役に立つ・立たないなどという下品な物差しでは測りませんの。あなたのその小さな温もりを、笑う者などここには誰一人いませんわ……メェ」
仲間たちの温かな言葉が、冷え切っていた岩の裂け目を、春の日だまりのように満たしていく。
子犬の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「うぅ……ぅわぁぁん……! ほんとうに……? ほんとうに、ぼく、ここにいていいワン……?」
子犬はおずおずと小さな鼻を伸ばし、ティルの手のひらに乗った温かいスープをペロリと舐めた。
――ごくん。
胃の奥に温かい滋養が染み渡った瞬間、子犬は夢中でティルの手のひらに顔をうずめ、最後の一滴までスープを飲み干した。
「うまい……! あったかいワン……! こんな美味しいの、生まれて初めて食べたワン……!」
子犬はティルの指先にすがりつき、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
ティルはそっと両手を伸ばし、ガタガタと震える小さな身体を、優しく胸元へと抱き上げた。
――ふわっ……。
ティルの胸に触れた瞬間、子犬の凍りついていた心が、大地の主の穏やかな温もりによって解きほぐされていく。
骨が浮き出るほど痩せていた身体が、ティルの腕の中で安心して脱力し、小さな頭をティルの首元へとすり寄せてきた。
「よく頑張って生きていてくれたね。……もう大丈夫だよ」
ティルは温かい手ぬぐいで、子犬の泥まみれの顔と足を丁寧に拭ってやった。
その時だった。
ティルの胸の奥から注ぎ込まれる温かな魔素に反応するように、子犬の全身から、ふわりと淡い黄金色の光が溢れ出したのだ。
それは、先ほどまでの消え入りそうな光ではない。
まるで、春の朝に昇る生まれたての太陽のように、柔らかく、温かく、周囲の冷気を優しく押し返す光だった。
「……わぁっ……!」
モグが目を丸くして歓声を上げた。
子犬の放つ光が、ティルの腕を通して周囲へと広がる。
すると、どうだろう。
足元の日陰に生えていた小さな苔や野草の芽が、その光を浴びた瞬間、まるで春の陽射しを浴びたように青々と背筋を伸ばし、瑞々しく輝き始めたのだ。
「こ、これは……!? 植物の光合成を活性化させる、純粋な『太陽光の魔素』ピョ……!」
ピピが驚愕の声を上げた。
「戦う力なんかじゃなくて……命を育むための、最高に優しい光じゃないか」
ティルは胸を打たれ、子犬の背中を愛おしそうに撫でた。
子犬はティルの腕の中で、トクン、トクンと穏やかな鼓動を刻みながら、琥珀色の瞳をトロンと細めた。
「あったかいワン……。ご主人様のお胸……お日さまのにおいがして、すっごく落ち着くワン……」
安心しきった子犬は、ティルの腕の中で丸くなり、小さく「くぅ……すぴぃ……」と幸せそうな寝息を立て始めた。
何日も暗闇で震え続け、一睡もできなかった疲労が、ようやく訪れた安らぎの中で溶けていったのだ。
「さあ、みんな。おうちへ帰ろう」
ティルが笑顔で呼びかけると、モグもピピもぷるも、そしてベルも嬉しそうに頷いた。
カラン、コロン……と鳴る鈴の音とともに、一行は朝の光に満ちた開拓地へと戻っていく。
ティルの腕の中で眠る黄金色の子犬を、初夏の青空から降り注ぐ柔らかな太陽の光が、どこまでも優しく照らし続けていた。




