第20話:星空の大晩餐会、初夏の恵みと令嬢羊の笑顔
荒野の地平線に夕日が沈み、茜色から群青色へと移ろう空に、無数の星々が瞬き始めていた。
昼間の厳しい熱気は心地よい涼風へと変わり、大木と岩壁の窪みに作られた開拓地を優しく包み込んでいる。
畑を二倍の広さに拡張し、第四号畝の造成と豆の支柱立てという大仕事を成し遂げたティルたちは、心地よい疲労感に包まれながら、野営地の石板テーブルを車座になって囲んでいた。
パチパチ、と赤々と熾った焚き火が心地よい音を立てる。
昼間の作業着から着替えたティルは、手桶の冷たい湧き水で顔を洗い、爽やかな笑顔を浮かべて立ち上がった。
「みんな、今日の一日、本当にお疲れ様! 畑の拡張も、豆の支柱も、みんなの力のおかげで完璧に仕上がったよ」
「ふぁぁぁ……! 働いたあとの夕暮れは、最高に気持ちいいッスね!」
モグが焚き火の前で前足を伸ばし、満足そうに鼻を鳴らした。
「当たり前ピョ! 四つの畝が整然と並んで、水路がサラサラ流れる景色は圧巻ピョよ!」
ピピがティルの肩の上で誇らしげに胸を張る。
「ぷるも、お土いっぱい混ぜて、おなかペコペコぷるぅ!」
ティルの足元で、琥珀色のぷるがぽよんと跳ねた。
そして、石板テーブルの特等席には、手作りのドーナツ型クッションの上にちょこんと座った令嬢羊のベルがいた。
昼間の土埃をティルに綺麗に拭ってもらい、夕方に水路の清流で軽く足を洗ったおかげで、その純白のフリースは夕闇の中でも月のように神聖な輝きを放っている。
「ふん……。下民の泥臭い労働に付き合わされて、全身がクタクタですわ」
ベルはツンと顎を反らせ、サファイアの瞳を細めた。
「ですが、畑の景観が美しく整ったことだけは、認めてあげてもよくってよ。……メェ」
「あはは、ありがとう、ベル。……さあ、今夜は第四号畝の完成祝いと、ベルの正式な歓迎会だ。腕によりをかけて、とびきりの大晩餐を用意したよ」
ティルが笑顔で焚き火の上の石板と、コトコトと湯気を立てる金属鍋に手をかざした。
そこには、初夏の荒野がもたらす大地の恵みを総動員した、目にも鮮やかな料理の数々が並んでいた。
まず一つ目は、水筒鍋でじっくりと煮込んだ【間引き大根と炒り穀物の初夏ポトフ】だ。
第一号畝で間引いた新鮮な土大根を、葉も根も余すところなく一口大に刻み、香ばしく炒ったキビと湧き水でコトコトと煮込んだもの。
透き通る黄金色のスープからは、大根の素朴な甘みと大地の滋味あふれる香りが、湯気とともに立ち上っている。
二つ目は、熱々の石板で香ばしく焼き上げた【若草と挽き割りキビの焼きガレット】。
水路沿いで摘んだ清涼な野草を細かく刻み、炒りキビ粉の生地に練り込んで薄く延ばし、両面にカリッと香ばしい焼き目をつけた薄焼きパンだ。
そして三つ目は、ピピが丹精込めて淹れた【冷涼湧き水のミントハーブティー】。
野生のカモミールとミントの葉を適温の湯で蒸らした後、水路の最も冷たい湧き水でキリリと冷やした、琥珀色に輝く清涼感抜群のお茶だった。
「うわぁぁぁ……! いい匂いッス! ヨダレが止まらないッスよ!」
モグが身を乗り出して歓声を上げる。
「ふふん! 今回の冷製ハーブティーは、アタシが一番香りの良い若葉だけを厳選した逸品ピョ!」
ピピも得意げに胸を張った。
「主さま、ぷるのごはんは、あのあまいお土ぷる?」
「もちろん、ぷるには昼の完熟堆肥と青白粘土を練り合わせた特製泥ムースを用意してあるよ」
「わぁい! ぷる、大喜びぷるぅ!」
仲間たちが賑やかに盛り上がる中、ベルは不思議そうに石板テーブルを見つめていた。
人間の食べるポトフやガレットの匂いは芳ばしいが、羊の身体では小麦や穀物のパンを消化するのは難しい。
サファイアの瞳に、ほんの少しだけ寂しげな色が差す。
王都のサロンにいた頃も、貴族たちが豪奢な肉料理やパイを囲む傍らで、彼女に与えられたのは埃っぽい乾燥藁だけだった。
(……まあ、仕方がありませんわね。わたくしは羊ですもの、ごちそうの輪に入れないのは当然のこと……)
ベルがそっと視線を落とした、その瞬間だった。
「ベル。君のための特別なフルコースも、ちゃんと用意してあるよ」
ティルが穏やかな声で微笑みかけた。
「えっ……? わ、わたくしの……?」
ベルが目を見張る前へ、ティルは丁寧に洗った三つの平らな石皿を恭しく並べた。
「今夜の主賓のための、特製ハーブコースだ」
一枚目の石皿に乗っていたのは、前菜――【初夏の若草とカモミールの摘みたてサラダボウル】。
水路の冷涼な湧き水で洗ったばかりの、露をまとった瑞々しい野生のハーブと、ベルが好む柔らかい若草の芽を、彩り豊かに盛り付けたものだ。
二枚目の石皿は、メインディッシュ――【香ばしトゲアザミと炒り穀物殻の温燻製ミルフィーユ】。
昼間にベルが綺麗に刈り取ってくれたトゲアザミの若茎を、焚き火の遠火で軽く炙ってトゲの刺激を香ばしさに変え、完熟腐葉土の甘みと炒り穀物の香ばしい殻を幾重にも重ね合わせた逸品だった。
そして三枚目の小皿は、デザート――【冷涼湧き水ゼリー仕立ての野性ミント小鉢】。
ピピが集めてくれた新鮮な野生ミントの葉を、透き通る湧き水で閉じ込めた、涼やかで爽快なデザートである。
「ぷ、プレ……!? な、なんですの、これは……!?」
ベルはサファイアの瞳を限界まで見開いた。
ただの雑草の山ではない。
一つ一つの草が丁寧に泥を落とされ、苦味や香りのバランスを考え抜かれ、まるで一流レストランの前菜のように、美しく盛り付けられていたのだ。
「昼間、君がトゲアザミのほろ苦さや、香ばしい草を好んで食べていただろう? だから、君の口に合うように、荒野で一番新鮮な野草を選りすぐって仕立ててみたんだ」
ティルが優しく微笑みかける。
「気に入ってくれると嬉しいんだけど……どうかな?」
「…………」
ベルの全身が、小刻みに震え出した。
長いまつ毛が激しく瞬き、サファイアの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちて、石皿の青草の上へと落ちた。
「べ、ベル!? どうしたんだい? もしかして、嫌いな草が入っていたかい!?」
ティルが慌てて身を乗り出すと、ベルは首を千切れるほど激しく横に振った。
「ち、違いますわ……! 違うんですの……!」
ベルはしゃくりあげるように、小さな前足で顔を覆った。
「王都の貴族たちは……わたくしに、色あせた古い干し草しか投げてくれませんでしたわ……。『羊のくせに贅沢を言うな』って、冷たい檻に閉じ込められて……誰も、わたくしがどんな草が好きなのか、気にも留めてくれませんでしたの……」
夜の静寂の中、ベルの震える声だけが焚き火の音に重なって響いた。
「それなのに……あなたたちは……! わたくしのために、こんなに綺麗にお皿に並べてくれて……ただの雑草なのに、大切なお料理として作ってくださるなんて……! 『羊の餌』じゃなくて……『ベルのごはん』を用意してくださるなんて……っ! メェェ~~……!」
ベルはティルの膝に飛び込み、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
高貴なお嬢様を気取り、誰にも弱みを見せまいと虚勢を張ってきた小さな羊。
その頑なだった心の氷が、ティルたちの温かな思いやりによって、完全に溶け去っていた。
「ベル……。君はもう、狭い檻に閉じ込められることも、冷たい干し草を我慢する必要もないんだよ」
ティルは優しく背中の羊毛を撫でた。
「君は俺たちのかけがえのない仲間で、この農園の大切な家族なんだから。胸を張って、美味しいごはんを食べておくれ」
「うわぁぁぁん……! ティルぅぅぅ……!」
「ベル、泣かないでほしいッス!」
モグが駆け寄り、前足でベルの首元をぎゅっと抱きしめた。
「俺たち、今日一緒に汗を流した仲間ッスよ! 遠慮なんていらないッス!」
「そうピョ! せっかくの摘みたてハーブが乾いちゃうピョ! ほら、涙を拭いて全部平らげなさいピョ!」
ピピも目を潤ませながら、優しく翼でベルの背中をポンポンと叩いた。
「ベルちゃん、いっしょに食べるぷる! ごはん、だあいすきぷるぅ!」
ぷるも寄り添って、身体をぷるぷると揺らした。
「う、うん……! いただきますわ……いただきます、ですの……!」
ベルは涙を拭うと、石皿の料理へと顔を寄せた。
まず、摘みたてハーブのサラダを一口。
――シャキッ、シャキシャキッ!
「……っ! 冷たくて瑞々しくて、草の甘みがジューシーに弾けますわ……!」
続いて、香ばしく炙ったトゲアザミのミルフィーユへ。
――サクサク、サクッ!
「香ばしくて、奥深い大地の風味が身体の芯まで染み渡りますの……!」
そして、冷涼ミントの小鉢をつるりと平らげる。
「爽やかで……胸の奥のつかえが、すうっと晴れていくようですわ……! 天上のごちそうですの……メェェ~~!」
ベルが三つの皿を夢中で平らげた瞬間だった。
――カラン、コロン……!
ベルの首元の若草色の鉱石が、かつてないほど清らかで澄み渡った音色を夜空に響かせた。
それと同時に、ベルの全身の純白の巻き毛が、真珠のような淡い虹色の光を帯びて、ふわりと柔らかく輝き始めたのだ。
心からの幸福と感謝が大地の魔素と共鳴し、ベルの生命力が一段と高い調和へと達した証だった。
光が収まると、ベルの毛並みはさらにきめ細かく、シルクのように滑らかで温かな輝きを放っていた。
「ふふ……ごちそうさまでした、ですの」
ベルは満面の笑みを浮かべた。
ツンと澄ました令嬢の仮面ではない。
仲間たちに向けられた、愛らしくて心からの、本当の笑顔だった。
「さあ、みんな! 冷めないうちに俺たちも食べよう!」
「「「いただきますッス(ピョ/ぷる)!」」」
熱々のポトフをすすり、カリカリのガレットを頬張り、冷たいハーブティーで喉を潤す。
石板テーブルの周りには、絶え間ない笑い声と歓声が満ち溢れていた。
満天の星空の下、赤々と燃える焚き火と、足元から伝わる大地の温もり。
土を掘るモグ。
水を導くピピ。
土を育てるぷる。
草を刈り、温もりをくれたベル。
そして、前世の孤独を越えて、この場所で真の幸福を築き上げたティル。
かつて追放された絶望の荒野は、今やかけがえのない仲間たちが寄り添い合う、最高に温かな我が家となっていた。
宴が終わり、夜が更けていく。
オンドルの上に敷いた極上羊毛のベッドに横たわると、ひんやりとしたサラサラの感触が、心地よい眠気を優しく誘ってくれた。
モグとぷるが寄り添って丸くなり、ピピが寝息を立て、ベルがティルの腕枕に幸せそうに頭を預けている。
「……おやすみ、みんな」
ティルが呟き、静かに目を閉じた。
だが――その静寂の中。
初夏の夜風に乗って、遠く東側の岩山の裂け目から、かすかな声が風に乗って届いた。
『……クゥン……クゥン……』
それは、凍えるような暗闇の中で、誰かの温もりを求めて震える、小さな子犬の鳴き声のようだった。
東の空の端で、黄金色の淡い光の粒が、寂しげにチカチカと瞬いている。
新たな出会いの予感を乗せて、荒野の夜は静かに更けていった。




