第17話:君の名前はベル、そして極上のブラッシング
初夏の暖かな日差しが、荒野の岩壁を柔らかく包み込んでいた。
午前中の作業を終えた開拓地の三つの畝は、清々しい静寂を取り戻している。
第一号畝の【ゴツゴツ土大根】も、第二号畝の【カラカラ豆】も、第三号畝の【シャキシャキ野草】も、邪魔なトゲ雑草が綺麗に刈り払われたおかげで、伸び伸びと若葉を広げていた。
水路を流れる清らかなせせらぎが、サラサラと耳に心地よい音を響かせている。
「ふぅ……。改めて見ても、本当に見事な除草っぷりッスね!」
モグが畑の脇に腰を下ろし、満足そうに鼻を鳴らした。
「あんなに凶悪だったトゲアザミ草が、根元からスパッとなくなってるッス!」
「本当ピョ。あの生意気な毛玉、口は達者だけど腕前だけは本物ピョね」
ピピもティルの肩の上で羽づくろいをしながら、畑の隅の岩場へと視線を向けた。
そこには、雑草を腹いっぱい平らげ、冷たい湧き水を飲み干したウィード・シープの令嬢羊――ベルがいた。
日陰の平らな岩の上にちょこんと座り込み、優雅に足を折りたたんでいる。
だが、その様子がどうにも落ち着かない。
「……んっ……くぅ……メェ」
ベルは時折、小さな飴色の角を岩肌にこすりつけたり、後ろ足を不器用に動かして背中を掻こうとしたりしていた。
しかし、小柄な身体とモフモフの分厚い羊毛が邪魔をして、どうしても痒い場所に足が届かないらしい。
サファイアの瞳を潤ませながら、ツンと尖らせた口元から悔しげな吐息を漏らしている。
「……ベル、どうかしたのかい?」
ティルが作業着の土を払いながら、そっと声をかけた。
ビクッ! とベルの白い耳が跳ね上がった。
慌てて岩の上で姿勢を正し、何事もなかったかのように顎をツンと反らす。
「な、なんですの、無作法に人のプライベートを覗き見るなんて! わたくしは、高貴な午後の優雅な休息を満喫していただけですのよ! ……メェ!」
「そうかい? でも、さっきから背中を気にしているみたいだけど……」
ティルが心配そうに近づくと、ベルの毛並みの異変がはっきりと見て取れた。
遠目にはメレンゲのように真っ白で美しい巻き毛に見えていたが、間近で見ると、過酷な荒野を旅してきた爪痕が痛々しいほどに残っていた。
背中や腰のあたりには、トゲ草の種――ひっつき虫が無数に絡みつき、フェルト状に固まった毛玉があちこちにできている。
さらに毛の奥には、砂嵐で入り込んだ細かい粘土の粉塵がギッシリと詰まり、皮膚の呼吸を塞いでいるようだった。
(ああ……これは辛いよな……)
ティルは胸を痛めた。
羊にとって、毛玉のフェルト化や異物の絡まりは深刻なストレス源だ。
放置すれば皮膚が蒸れて炎症を起こし、激しい痒みや痛みに襲われることになる。
(ああ……これは辛いよな……)
ティルは胸を痛めた。
羊にとって、毛玉のフェルト化や異物の絡まりは深刻なストレス源だ。
放置すれば皮膚が蒸れて炎症を起こし、激しい痒みに襲われることになる。
「ベル、身体が痒いんじゃないかい? トゲ草の種や砂埃が、毛の奥で絡まっちゃってるよ」
「な、なんですって……!? わたくしの純白のドレスに、そのようなゴミがついているはずがありませんわ!」
ベルは必死に否定しようとするが、背中の痒みに耐えかねて、フルフルと小刻みに身体を震わせた。
「うぅ……っ。ちょ、ちょっとだけ背中がムズムズするだけですの……! でも、下民の手を煩わせるようなことではありませんわ! 淑女たるもの、気合と誇りで耐え切ってみせますの……!」
涙目になりながら意地を張る姿は、健気で見ていて痛々しい。
ぷるもティルの足元から「ひつじさん、つらそうぷるぅ……」と見上げている。
「ピピ、ちょっとモグと一緒に、あっちの枯れ木から手頃な枝を拾ってきてくれないかい? それから、除草したトゲアザミ草の太いトゲも集めてほしいんだ」
「分かったッス! すぐ持ってくるッス!」
「任せるピョ!」
モグとピピが駆け出し、程なくして手頃な硬さの枯れ木の枝と、乾燥したトゲの山を運んできた。
ティルは石板テーブルに座ると、道具袋から小刀を取り出した。
(前世の祖父が、飼い犬のために手作りしていた木製ブラシ……確か、こうやって作るんだったな)
ティルはまず、硬い枯れ木の枝を手のひらに馴染む櫂の形に削り出した。
握りやすい丸みを持たせた柄と、平らな長方形の土台。
土台の表面に等間隔の小さな穴を無数に穿ち、トゲアザミ草のトゲの針先を小刀で丸めて、滑らかに整える。
親指の腹で触れてみてもチクリともせず、適度なしなりと心地よい刺激がある硬さだ。
そのトゲのピンを木の穴へ差し込み、樹液と粘土の天然接着剤で固定すれば――。
「よし……できた」
手のひらに収まる、素朴だが温かみのある【特製・木製スリッカーブラシ】の完成だ。
「旦那、それ、なんスか?」
モグが不思議そうに覗き込む。
「毛の奥に絡まったゴミをほぐして、皮膚を綺麗にするブラシだよ」
ティルはブラシを手に、岩の上のベルの元へと歩み寄った。
そして、膝をついてベルの目線に合わせる。
「ベル。少しだけ、俺に背中を預けてくれないかい? 痛いことは絶対にしないから」
「な、なんですの、その怪しげな木片は……!? わたくしの神聖な身体に触れる気ですの!?」
ベルは警戒して後ずさろうとしたが、岩の端に追い詰められ、青い瞳を泳がせた。
「お願いだ、ベル。君が誇り高いお嬢様なのは分かっている。でも、痒いのは我慢しなくていいんだよ。今度は俺に君を助けさせてほしい」
ティルの穏やかで誠実な眼差しが、ベルを真っ直ぐに見つめた。
「う……っ」
ベルは言葉に詰まった。
王都では「高級羊毛を産む愛玩魔物」としか見られず、一頭の生き物として心配されたことなど一度もなかったのだ。
「……ふ、ふん! あなたがそこまで頼むなら、特別に許可してあげなくもありませんわ!」
ベルはそっぽを向き、ツンと鼻を鳴らした。
「痛かったら、自慢の角で突撃して差し上げますからね! 覚悟なさいな……メェ!」
「ああ、約束するよ」
ティルは微笑むと、ベルの背中の毛にそっと左手を添えた。
大地の主の穏やかな温もりを送り込み、緊張で強張っていた筋肉を解きほぐす。
そして、右手のブラシをベルの首筋の毛の生え際へとあてがい、ゆっくりと梳き下ろした。
――サクッ……サクッ……スーッ……。
静かな荒野に、心地よい摩擦音が響いた。
丸めたトゲのピンが、固まっていた巻き毛の隙間へと滑らかに入り込んでいく。
絡まり合っていたトゲ草の実が解け落ち、奥に溜まっていた粘土の粉塵が、白い煙のようにふわりと舞い上がった。
「……っ!? ひゃ……あぁぁぁん……っ!?」
ベルの口から、お嬢様らしからぬ、とろけた悲鳴が漏れた。
「べ、ベル!? 痛かったかい!?」
「ち、違うんですの……! 痛いどころか……な、なんですの、この感覚は……!? 背中の奥の痒いところが……じんわり温かく撫でられて……肌に風が通っていきますわ……っ! メェェ~~……!」
ベルのサファイアの瞳が、とろりと蕩け始めた。
角を支えていた首の力が抜け、ピンと立っていた白い耳が、ふにゃりと垂れ下がる。
「ふふ、気持ちいいかい? じゃあ、腰の方も梳いていくよ」
ティルは手首を柔らかく使って、リズミカルにブラシを動かした。
サクッ、サクッ、スーッ。
サクッ、サクッ、スーッ。
ブラッシングを重ねるたびに、埃っぽかった純白の毛が、ふんわりと空気を含んで膨らんでいく。
固まった毛玉はほぐれ、太陽の光を浴びた毛並みが、綿菓子のようにボリューミーに、真珠のような輝きを取り戻していった。
「んぅぅぅ……メェェェ……。そこ……そこですわ……肩甲骨のあたりを……あぁぁ、極楽ですの……」
ベルは前足を投げ出し、ティルの膝の上にコテンと頭を預けて、喉をゴロゴロと鳴らしている。
あまりの心地よさに、足先がピクピクと喜びに震えていた。
「あはは! 見るッス、ピピ姉さん! あの高飛車だった羊が、旦那の膝の上でとろけてるッス!」
モグが手を叩いて笑った。
「まったく、形無しピョね!」
ピピも呆れ顔で笑い、ぷるも「ひつじさん、ふわふわの雲みたいになったぷるぅ!」とフカフカの毛に顔をうずめた。
ベルは目を細め、「ふにゃぁ……メェ」と幸せそうに鼻を鳴らすだけだった。
全身を丁寧にブラッシングし終えた頃、ベルの足元には、梳き取られた毛玉と砂埃の山ができていた。
そして――岩の上に立ち上がったベルの姿に、一同は息を呑んだ。
「……うわぁ……!」
モグが感嘆の声を漏らす。
そこにいたのは、春の青空に浮かぶ雲のように、ふっくらと柔らかく波打つ純白の羊だった。
一本一本の毛が独立して呼吸を始め、風が吹き抜けるたびに絹糸のようにサラサラとなびいている。
首元の若草色の鉱石が、真新しくなった胸元に映えて、清らかな鈴の音を響かせた。
カラン、コロン……。
「……ふぅ……」
ベルは深呼吸をし、自分の身体を見回した。
皮膚を締め付けていた重苦しい痒みは消え去り、全身を包むのは、日だまりのような温もりと爽快感だけだった。
ベルはティルを見上げた。
青い瞳には警戒の光は一片もなく、純粋な驚きと戸惑いが揺れていた。
「あ、あなた……本当にただの人間なんですの……? 王都の一流の調教師ですら、わたくしの毛並みをここまで完璧に整えられた者はいませんでしたわ……」
「喜んでもらえてよかったよ」
ティルは優しく微笑みかけた。
「君の毛並みは、本当に素晴らしいよ。……君の名前、改めて呼んでもいいかい?」
「……え?」
「さっき、自分のことを『ベル』って言っていたよね。首元の綺麗な鉱石が涼やかな鈴の音を鳴らすし、何より気品ある君にぴったりの名前だ」
ティルは温かな眼差しで、そっとその名を呼んだ。
「君の名前は、ベル。……この開拓地で、俺たちと一緒に暮らさないかい?」
「ベ……ル……」
ベルはその名を小さく反芻した。
王都では個体番号でしか呼ばれず、彼女自身の美しさを心から讃えてくれる者などいなかった。
「べ、別に……あなたが名付け親だなんて認めませんけれど……」
ベルは顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。
「ベルという名前自体は、わたくしの気品にふさわしい響きですから……特別に、そう呼ぶことを許してあげますわ……! メェ!」
ツンと澄ましながらも、その短い尻尾はパタパタと激しく振られていた。
その瞬間だった。
――トクン……。
ティルの胸の奥深く、大地の鼓動と重なるようにして、柔らかな温もりが湧き上がった。
ティルの右の手のひらが、淡い黄金色の光を放ち始める。
ベルの胸元からも、同じ黄金色の光の粒子がふわりと立ち上り、二人の間を優しく巡った。
「旦那! また光が出たッス!」
「【大地の主】の魂の契約ピョ……!」
互いの命を認め合い、慈しみ合うことで結ばれる、魂の絆。
頭の中に、ベルの心の奥底の声が流れ込んできた。
『……ずっと、怖かったんですの。誰にも必要とされず、捨てられて……荒野で干からびて死ぬのだと思っていましたわ……』
『ありがとう……ティル。わたくしの身体を、こんなに温かく抱きとめてくれて……』
不器用なお嬢様の本当の心。
ティルは胸を打たれ、そっとベルの額に温かな手を添えた。
「もう怖がらなくていいよ、ベル。君はもう、ひとりぼっちじゃない」
黄金色の光がスッと収まった瞬間、ベルの首元の若草色の鉱石が、カラン……と、これまでよりも一段と澄んだ美しい音色を響かせた。
「ぷるぅ! ひつじのベルちゃん、家族になったぷる!」
ぷるが嬉しそうに跳ね回り、モグもピピも笑顔で拍手を送った。
「ふ、ふん! 勘違いしないでよね!」
ベルは赤くなった顔を隠しながら、ツンと胸を張った。
「契約を結んであげたのは、あなたが懇願したからですわ! こき使おうなんて思ったら承知しませんことよ!」
「ああ、分かっているよ。よろしくね、ベル」
ティルが笑って手を差し出すと、ベルは文句を言いながらも、その手のひらにそっと自分の柔らかい鼻先を押し当ててきた。
初夏の爽やかな青空の下、涼やかな鈴の音と、仲間たちの笑い声が心地よく響き渡る。
四人と一頭になった開拓地。
広がりゆく畑と、豊かさを増す大地のスローライフは、確かな絆とともに、新たな一歩を踏み出していた。




