第16話:初夏の風と、お嬢様羊のベル
荒野の空が、春の淡い水色から、爽やかな初夏の群青色へと移り変わっていた。
地平線から昇る朝日には力強い熱が宿り、吹き抜ける風にも、青草の若々しい匂いが混ざり始めている。
大木と岩壁の窪みに作られた開拓地。
ぷるが産み落としてくれた【土の雫】を寝床の下に埋めたおかげで、ティルたちは生まれて初めて、夜の寒さに一度も震えることなく、温かな安らぎの中で朝を迎えていた。
「ふぁぁぁ……! よく寝たッス! 身体の芯までポカポカで、羽毛布団の中で寝てたみたいッスよ!」
モグが寝床から元気よく飛び起き、両前足を伸ばして豪快に伸びをした。
「本当ピョね……。冷え性の鳥にとって、足元からじんわり温もりが届く寝床は夢のようピョ……」
ピピも小枝の上で羽づくろいをしながら、うっとりと目を細める。
「ぷるも! ぷるも、主さまたちとぎゅーって寝て幸せだったぷるぅ!」
ティルの胸元から、琥珀色のぷるがぽよんと跳ね起きた。
体内の大地の魔素が満ち足りているせいか、その身体は朝の陽光を浴びて、極上のトパーズのようにキラキラと澄んだ輝きを放っている。
「おはよう、みんな。本当にぷるのおかげだね。ありがとう」
ティルは微笑みながら、ぷるの頭を優しく撫でた。
前世の社畜時代、冷え切ったアパートで目覚まし時計に叩き起こされていた朝とは比べものにならない。
温かな仲間たちと土の上で目覚めることの尊さが、胸に染み渡る。
「よし、それじゃあ朝の点検に行こうか。初夏の陽射しになってきたから、畑の成長が楽しみだ」
「合点承知ッス!」
「任せるピョ!」
「ぷるもおみまわり行くぷる!」
四人は連れ立って、防風垣に守られた畑へと向かった。
だが――。
「……えっ!?」
「ゲゲッ!? な、なんスかこれぇぇぇ!?」
「ピ、ピギャァァァ!? な、何が起きたピョーーッ!?」
畑の入り口に立った瞬間、ティルたちは思わず足を止めて絶叫した。
第一号畝の【ゴツゴツ土大根】も、第二号畝の【カラカラ豆】も、第三号畝の【シャキシャキ野草】も順調に育っていた。
しかし、それらの隙間や畝の肩、水路の縁に至るまで――畑のありとあらゆる地面を埋め尽くすように、猛々しい雑草が爆発的な勢いで群生していたのだ。
「ざ、雑草だ……! それも、とんでもない量が生えてる……!」
ティルは額に手を当て、息を呑んだ。
モグが掘り、ピピが潤し、ぷるが団粒土へと生まれ変わらせた豊かな黒土。
そこに大地の魔素と初夏の強い日差しが加わった結果、土の中に眠っていた頑強な野草の種が一斉に目を覚ましたのだ。
特に酷いのは、ノコギリのような葉を持つ【トゲアザミ草】と、地面を這う【イヌワラビモドキ】だった。作物の倍以上の背丈に伸び、朝の光を容赦なく遮っている。
「だ、旦那! 大根や豆が埋もれちゃってるッス! 俺が引き抜いてやるッス!」
モグが駆け寄り、爪を立ててトゲアザミ草を掴んだ、その瞬間――。
「ピギャッ!? い、痛ってぇぇぇッス!!」
モグが悲鳴を上げて飛び退いた。
頑丈な前足のひだに、鋭いトゲが無数に刺さっていたのだ。
「モグ、大丈夫かい!?」
ティルが駆け寄り、トゲを抜いてやる。
「無理に引いちゃダメだ。それに、見てごらん……」
ティルがスコップで根元を掘ると、ゴボウのように太い主根が四方八方に張り巡らされていた。
「根が深すぎる。力任せに掘ると、隣の大根や豆の根まで千切ってしまうぞ」
「な、何ピョ!? じゃあ水を……いや、水を撒いたら余計に元気になるだけピョ!」
ピピが焦って旋回し、ぷるも「トゲトゲいたいの嫌いぷるぅ……」と身を縮めた。
「初夏の難関は雑草対策だと分かっていたけれど、この生命力は想像以上だ……」
手作業で抜くには何日あっても足りない。
重苦しい沈黙が畑を包み込んだ、その時だった。
――カラン、コロン……。
静まり返った開拓地に、まるで涼やかな鈴のような澄んだ音が響いた。
「……何の音だ?」
ティルが顔を上げると、西側の岩陰から、白くて丸い「ナニカ」が姿を現した。
そこにいたのは、一頭の小柄な羊だった。
まるで泡立てたメレンゲのようにふんわりとした純白の巻き毛。埃っぽい荒野にありながら汚れ一つなく、朝露を弾いて真珠のような光沢を放っている。
頭には優雅に巻かれた飴色の角。首元には、歩くたびに音を立てる淡い若草色の鉱石が揺れていた。
そして何より、サファイアのように澄んだ大きな青い瞳が、どこか高飛車そうにティルたちを見下ろしていたのだ。
「……羊、かい?」
ティルが呟くと、その羊は岩の上にトンと立ち、貴族令嬢のような澄ました声で言い放った。
「あら? 朝早くから騒々しいと思えば……こんな吹き溜まりの荒野で泥まみれになって、見苦しいですわね。……メェ」
「「「喋ったぁぁぁーーッ!?」」」
ティル、モグ、ピピの声が重なって木霊した。
「だ、旦那! 白くてモフモフしてるのに、めちゃくちゃ偉そうッス!」
「ちょっとアンタ! こっちは一生懸命働いてる開拓団ピョ! 見苦しいとは何事ピョ!」
ピピが抗議するが、羊はふんと鼻を鳴らし、長いまつ毛をパチリと瞬かせた。
「お黙りなさい、青い小鳥。耳障りな金切り声ですわ。……メェ」
「な、なんですってぇぇぇ!?」
怒るピピをティルが慌てて宥め、羊を見上げた。
「君は……ウィード・シープかい?」
「当然ですわ。わたくしは高貴なるウィード・シープの【ベル】。選ばれし血統の令嬢羊ですのよ」
ベルは誇らしげに胸を張った。
「勘違いしないでくださる? わたくしは風に誘われて通りかかっただけですの。こんな野蛮な開拓地に興味なんてありませんわ! 泥だらけの人間や下民の集まりになど……」
ベルが気取ったポーズを取った、その瞬間――。
――ぎゅるるるるるぅぅぅ……メェ。
静かな荒野に、重厚な腹の虫の音が響き渡った。
ベルの純白のお腹から鳴ったものだった。
「…………」
ベルの耳がピクンと跳ね、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まった。
「い、今の音は風の悪戯ですわ! 決してわたくしのお腹ではありませんの!」
必死に取り繕うが、足先は旅の疲れで震え、極度の空腹であることは明らかだった。
(絵に描いたようなツンデレお嬢様だな……)
ティルは笑いを堪え、穏やかに声をかけた。
「そうだったんだね。……ところでベル、あそこの畑を見てくれないかい?」
「……あら? なんですの、あの見苦しい緑の塊は」
ベルが視線を向けた瞬間、その青い瞳が見開かれた。
ひく、ひくと小さな鼻が蠢く。
「こ、これは……!? なんですの、大地の魔素を極限まで吸い上げた、野草の芳香は……!?」
ベルの喉がゴクリと鳴った。
人間には厄介なトゲ雑草だが、雑草を主食とするウィード・シープにとっては、極上のミネラルを蓄えた最高級サラダバーだったのだ。
だが、プライドがそれを素直に認めない。ベルはわざとらしく顎を上げた。
「ふ、ふん! 美しい庭園を愛するわたくしにとって、下品な雑草が生え散らかしている景色は視覚への冒涜ですわ!」
「うん。トゲが痛くて困っているんだよ」
ティルが困り顔を見せると、ベルは勝ち誇ったように目を細めた。
「仕方がありませんわね! 慈悲深いこのわたくしが、特別に力を貸して差し上げますわ! 勘違いしないでよね! お腹が空いたからじゃなくて、見苦しい景観を整えるために処分してあげるだけですのよ!」
「本当かい? 助かるよ!」
ティルが招くと、ベルはカラン、コロンと鈴を鳴らし、第一号畝へと進み出た。
「見なさいな、これが一流の除草ですわ!」
ベルは凶悪なトゲアザミ草の群生へと顔を突っ込んだ。
そして――。
――シャキッ、シャキシャキシャキシャキッ!!
「え……!?」
モグが目を丸くした。
鋭いトゲを一切痛がる様子もなく、平然と奥歯ですり潰していたのだ。採れたての新鮮なセロリを味わうように、小気味よい音が響く。
「はむ、もぐもぐ……シャキシャキ! んん~~っ! このトゲの刺激と、ほろ苦い野性味……! そして根元の土から吸い上げたミネラルの甘み……天上の美味ですわ! メェェ~~ッ!」
ベルの青い瞳が感動で潤い、首元の鈴を激しく鳴らしながら猛烈な勢いで草を刈り進めていく。
「す、すっげぇ……! トゲトゲの草を平気で食べてるッス!」
「ちょっと見なさいピョ! 雑草だけを選んでるピョよ!」
ピピの声に、ティルも目を見張った。
ベルの食べ方は驚くほど正確だった。
トゲアザミ草の生え際を前歯でプチッと刈り取り、土を掘り返すことなく地上部だけを綺麗にしていく。
しかも、わずか数センチ隣にある【ゴツゴツ土大根】の若葉には一切触れず、ミリ単位の精度で作物を避けて雑草だけを刈り取っていた。
「ぷるぅ! ひつじさん、大根さん食べないぷる! 悪い草だけお掃除してるぷる!」
ぷるが歓声を上げた。
「作物の匂いと雑草の匂いを、嗅ぎ分けているんだ……!」
ティルは深く感動した。
普通の家畜なら作物の新芽まで食べてしまうが、ベルは雑草だけを好んで食し、作物を傷つけずに畑を整えてくれている。
わずか半時間足らずで、あれほど絶望的だったトゲ草のジャングルは消え去っていた。
第一号畝も、第二号畝も、第三号畝も。
作物の周囲の雑草が綺麗に刈り払われ、畝の黒土に初夏の風と陽光がたっぷりと降り注いでいる。
「ふぅ……。ごちそうさまでした、ですの」
ベルはお腹を満足そうに膨らませ、上品に口元を拭った。
だが、ティルたちが駆け寄ると、慌ててツンと澄ました顔を取り繕う。
「ふ、ふん! わたくしの手にかかれば、この程度の雑草など朝飯前ですわ!」
「本当にすごいよ、ベル! 畑が息を吹き返した。ありがとう!」
ティルが感謝を伝えると、ベルは「メ、メェ!?」と後ずさった。
「な、なんで笑うんですのよ! わたくしは自分のために食べただけですの! 感謝される筋合いはありませんわ!」
ツンツンと怒るベルに、ティルは微笑みながら水路へと向かった。
素焼きの手桶に、岩肌から湧き出る冷涼な湧き水をたっぷりと汲み、ベルの足元に置く。
「喉が渇いただろう? 水路の湧き水だよ。ミネラルが豊富で冷たくて美味しいんだ」
ベルはゴクリと唾を呑んだ。
「……施しを受けるつもりはありませんけれど、水を無駄にするのは淑女のマナーに反しますものね。仕方なく味見してあげますわ!」
ベルは手桶に顔を近づけ、ごきゅっ、ごきゅっと水を飲んだ。
「……っ!? 雑味が一滴もなくて、甘くて冷たいですわ……! 王都の一流の湧き水より、何倍も清らかですの……!!」
我を忘れて飲み干すと、ベルはぷはぁっと息を吐き、うっとりと目を細めた。
「美味しかったかい?」
「ま、まあ及第点ですわ! 勘違いしないでよね! お水が美味しかったからって、仲間になる気なんてサラサラありませんわ!」
「あはは、分かっているよ」
ティルが笑うと、モグやピピ、ぷるも駆け寄ってきた。
「でもベル、お前すっげぇ奴ッス! 尊敬するッス!」
「……ふん! 腕前だけは認めてあげてもいいピョね」
「ひつじさん、ふわふわでカッコいいぷるぅ!」
「な、なんなんですの、この暑苦しい集まりは……! わたくしは令嬢羊ですのよ! 馴れ馴れしくしないでくださる……メェ!」
文句を言いながらも、ベルは開拓地から離れようとはしなかった。
首元の鉱石が、カラン、コロンと楽しげに音を立てている。
初夏の爽やかな風が、青々と輝く開拓地の畝を優しく吹き抜けていく。
頑固な雑草を物ともしない、誇り高きお嬢様羊との出会い。
ティルたちの農園スローライフは、また一つ、温かな賑やかさを増そうとしていた。




