第10話:星空のお粥と、三人の約束
荒野の日はゆっくりと地平線の彼方へ沈み、群青色の夜空には零れ落ちそうなほどの満天の星が瞬き始めていた。
昼間、荒れ狂っていた春の突風は、三人が力を合わせて作り上げた「防風垣」によって優しく受け流されていた。
すだれ状に編み込まれた枝草を通り抜ける風は、かすかなカサカサという心地よい衣擦れの音を立てるだけで、畑の土大根の双葉も、蒔かれたばかりのカラカラ豆の畝も、穏やかな静寂の中で健やかに守られている。
大木と岩壁の窪みに作られた野営地。
赤々と燃える焚き火が、パチパチとはぜる小枝の心地よい音とともに、夜の冷気を優しく押し返していた。
「ふぁぁぁ……! 風が止まって、すっごく落ち着くッスね!」
モグが焚き火の前にちょこんと座り、両前足を火にかざして温まっている。
昼間の穴掘りで土まみれになったモグの毛並みも、ピピのミストで綺麗に洗われ、焚き火の光を浴びてビロードのように柔らかく輝いていた。
「当たり前ピョ! アタシたちが完璧な垣根を作ったんだから、風が静かになるのは当然ピョ!」
ティルの肩の上で、ピピが誇らしげに翼を広げた。
だが――。
――きゅるるるるるぅぅ……。
ピピのふっくらとしたお腹から、静かな荒野の夜に響き渡るほど盛大なお腹の虫の音が鳴り響いた。
「…………ピョ」
「あはは! ピピ姉さん、胸を張ってる場合じゃないッスよ!」
「う、うるさいピョ、モグラ! 垣根に水を撒いて、種をぬるま湯で起こして、ミストまで降らせたんだから、お腹が空くのは当然ピョ! ……ティル、早くご飯にするピョ!」
ピピは真っ赤になってティルの耳元をツンツンとつついた。
ティルは痛がるふりをしながら、楽しそうに笑い声を上げた。
「はいはい、ピピ主任。今日の大仕事を祝って、とびきり美味しい晩飯を作るよ」
ティルは平らな石板を焚き火の上に渡し、しっかりと熱した。
そして、昼の作業の合間に水路沿いや岩壁の麓で集めておいた食材を丁寧に並べていく。
水路の脇に群生していた、アワやキビに似た野性の小粒な穀物。
岩肌の湿った割れ目に自生していた、ミントに似た爽やかな香りの野草と、甘い蜜の香りを放つ野性のカモミールのような白い小花。
そして、大地の魔素を吸って青々と育っていたシャキシャキの若葉だ。
「今日はね、ピピのための特別なメニューだよ」
「アタシのための……?」
ピピが目を丸くして首を傾げる。
「うん。ピピは昼間、たくさん水やミストを吐いてくれただろ? それに昔、王国の貴族の屋敷で喉を酷使させられたって言ってたから……喉を優しく潤して、身体の芯から温まる料理を作ろうと思ってね」
「ティル……」
ピピの瑠璃色の羽が、微かに震えた。
「まずは、この野性の穀物を熱々の石板で炒るんだ」
ティルは熱せられた石板の上に、パラパラと穀物の粒を広げた。
――パチッ、パチパチパチッ!
小気味よい破裂音が鳴り響き、小さな穀物の粒がポップコーンのように弾けて、白くふっくらと膨らんでいく。
焦げた小麦や炒り米のような、香ばしく甘い匂いが、夜の冷気の中にふわりと広がった。
「うわぁ……! 種が弾けて、お花みたいに白くなったッス!」
モグが身を乗り出して歓声を上げる。
「炒ることで穀物の香ばしさと甘みが引き出されて、消化もすごく良くなるんだ。これを、水路から汲んできた湧き水でじっくりコトコト煮込むのさ」
ティルは金属の水筒に清らかな湧き水を注ぎ、焚き火の熾火にかけると、白く弾けた炒り穀物をたっぷりと投入した。
さらに、細かくちぎった野草の若葉と、カモミールに似た白い小花をそっと浮かべる。
コトコトコト……。
水筒の底から細かな泡が立ち上り、穏やかな湯気が立ち上り始めた。
炒り穀物が水分を吸って柔らかく煮崩れ、澄んでいたスープが淡い黄金色のとろみのあるお粥へと変化していく。
野草の清々しい香りと、小花のほのかな甘い香り、そしてローストされた穀物の素朴な滋味が混ざり合い、野営地全体を優しい香りで包み込んだ。
「仕上げに……ピピ、この小鉢を見てごらん」
ティルは丁寧に洗った小さな石の窪みに、熱湯で蒸らしたミントと小花を浮かべ、淡い琥珀色に透き通った温かいハーブティーを注ぎ分けた。
「荒野の特製ハーブティーだ。野草の爽やかな香りと湧き水の甘みだけで淹れたんだ。喉の渇きや疲れを癒やすのにぴったりだよ」
「わぁ……湯気が、すっごくいい匂いピョ……」
ピピが吸い寄せられるように、石の小鉢の縁へと舞い降りた。
「完成だ。……みんな、火傷に気をつけて食べよう」
ティルは木の皮を削った深めの器に、熱々のとろりとした穀物粥をたっぷりと注ぎ分け、三人の前に並べた。
「いただきますッス!」
「いただきますピョ……!」
モグは木べらですくってフーフーと息を吹きかけ、一口食べた瞬間に目を輝かせた。
「あふっ……うまぁぁぁいッス! 穀物がプチプチもちもちしてて、噛むたびに甘い汁がじゅわっと広がるッス! 野草のシャキシャキした食感も最高ッスよ!」
モグは両頬をパンパンに膨らませ、夢中で器にかじりついた。
一方のピピは、まず石の小鉢に注がれたハーブティーの前へと進み出た。
立ち上る白い湯気を、小さな翼でふわりと手元に手繰り寄せる。
温かなハーブの香気を胸いっぱいに吸い込み、くちばしの先をそっと浸した。
「……チュルッ、ゴクン……」
温かい液体が、ピピの小さなくちばしから喉へと滑り落ちていく。
「…………っ!!」
ピピの全身の羽毛が、ピンと逆立った。
つぶらな瞳が限界まで見開かれ、息を呑んだまま動かなくなる。
「ピピ? 熱すぎたかい?」
ティルが心配そうに身を乗り出すと、ピピは首を激しく横に振った。
「違うピョ……! 熱くないピョ……! なに、これ……なにこれピョ……!?」
ピピの声が、微かに震えていた。
「喉が……焼けるように痛かった喉の奥が、ふわぁぁって温かくなって……痛みが全部消えていくピョ……! 冷たくて甘いハーブの香りが、肺の奥まで優しく染み渡るピョ……!」
ピピは夢中になってハーブティーを飲み干すと、今度は熱々の穀物粥へとくちばしを伸ばした。
白く弾けた炒り穀物と、とろみのあるスープを一口含む。
「サクッ……トロン……」
香ばしい粒が口の中で心地よく崩れ、濃厚な大地の甘みが舌の上いっぱいに広がった。
苦味もエグみも一切ない。
あるのは、丁寧に火を通された穀物の優しい温もりと、清らかな湧き水が運ぶ豊かなミネラルの味だけだった。
「美味しいピョ……! 美味しいピョぉぉぉ……!!」
ピピは叫ぶように言うと、あとはもう一心不乱にお粥をついばみ続けた。
一口食べるごとに、羽の先までぽかぽかと温かな血が巡っていくのが分かる。
そして――。
ピピの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
瑠璃色の羽を濡らし、木の器の縁にポタリと落ちていく。
「ピピ……どうしたんだい?」
「う……ぅぅ……! アタシ、思い出したピョ……!」
ピピは翼で目を覆いながら、しゃくりあげるように言った。
「王国の屋敷にいた頃……毎日毎日、喉が枯れるまで冷水を吐かされて……夜になると喉の奥がヒリヒリ焼けるように痛くて、声も出せなかったピョ……」
ティルとモグは、静かにピピの言葉に耳を傾けた。
「鳥かごの隅っこで、寒さに震えながら……誰かが喉を温めてくれたらいいのにって、ずっとずっと願ってたピョ……。でも、与えられるのは泥水と、カビの生えた冷たいエサの残りカスだけだったピョ……」
ピピは涙で濡れた顔を上げ、ティルをまっすぐに見つめた。
「それなのに……アンタは……! アタシが喉を酷使したのを見て、こんなに温かくて優しいお茶を淹れてくれて……アタシのために、こんなに香ばしいお粥を作ってくれたピョ……!」
「ピピ……」
「道具としてじゃなく……アタシの身体を心配して、ご飯を作ってくれたのなんて……生まれて初めてピョ……! 温かいご飯が……誰かに大事にされるのが、こんなに嬉しいなんて……知らなかったピョよぉぉぉ……!!」
ピピはティルの膝の上に飛び移ると、作業着のズボンに顔を埋めて、子どものように泣きじゃくった。
小さな背中が、感情の昂ぶりとともに激しく上下する。
ティルはそっと指先を伸ばし、涙で濡れたピピの頭を優しく撫でた。
「ピピ。君はもう、誰の道具でもないんだよ。辛い思いをして水を吐く必要もないし、喉の痛みに怯えることもない。ここは君の家なんだから、好きなだけ美味しい水を飲んで、温かいご飯を食べていいんだ」
「うわぁぁぁんッ! ティルぅぅぅ……!!」
「ピピ姉さん! 泣かないでほしいッス!」
モグも駆け寄り、ティルの膝の上でピピの身体を前足でぎゅっと抱きしめた。
泥まみれのモグラと、青い小鳥が、温もりを分け合うように寄り添う。
「俺もね、追放される前は誰にも必要とされてないと思ってたッス! でも旦那が俺の爪を『宝物』って言ってくれて、美味いスープを作ってくれたッス! ピピ姉さん、俺たち三人で、ここでずっと一緒に暮らしていくッスよ!」
「モグラ……! うぅ……アンタ、いいヤツピョね……!」
ピピは鼻をすすりながら、モグの丸い頭に翼をそっと重ねた。
焚き火の橙色の光が、三人の影を岩壁に大きく、温かく映し出していた。
ティルも自分のお粥を一口すくい、口へと運んだ。
舌の上に広がるのは、炒り穀物の滋味と、野草の爽やかさ、そして湧き水のまろやかな甘み。
(前世の俺は、深夜のオフィスで冷え切ったコンビニのおにぎりを五分で胃に流し込んでいた……。誰とも会話を交わさず、ただ次の締切に追われるだけの日々だったな)
だが、今は違う。
自分の手で土を耕し、仲間と力を合わせて垣根を編み、星空の下で温かいご飯を分かち合っている。
誰かの機嫌を伺う必要も、不条理なノルマに怯える必要もない。
ここにあるのは、確かな命の手触りと、心から信じ合える仲間たちの温もりだけだ。
(これ以上の幸せが、人生のどこにあるっていうんだ)
ティルの胸の奥に、じんわりとした確かな幸福感が満ちていく。
王都への復讐など、本当にどうでもいい。
あの冷たい特区に戻るくらいなら、この荒野でモグやピピと一緒に土にまみれている方が、遥かに豊かで価値のある人生だ。
泣き腫らしたピピは、やがて空になった器を見つめ、満足そうに長いため息を漏らした。
ぷっくりと膨らんだお腹をさすりながら、ティルの肩へと飛び乗る。
そして、いつものようにツンと胸を張ってみせた。
「……ふん! ちょっと涙脆いところを見せちゃったピョ! でも、勘違いしないでほしいピョ!」
「あはは、何をだい?」
「アタシ、決めたピョ! アタシの命が続く限り、この農園の畑も、アンタたちの身体も、アタシの羽と水で絶対に守り抜いてみせるピョ!」
ピピの瞳には、かつての怯えや絶望は微塵もなかった。
あるのは、家族と呼べる仲間を見出した者としての、確かな誇りと光だった。
「どんな日照りだって、アタシの霧で潤してやるピョ! ティルが美味しいご飯を作ってくれるなら、アタシ、荒野中の土をぜーんぶ瑞々しい大地に変えてみせるピョ!」
「頼もしいな、ピピ。でも、無理は絶対にダメだよ。明日からも、三人でのんびりやっていこう」
「へへっ、了解ッス、旦那!」
「ふん、アンタたちのお世話係はアタシピョからね!任せるピョ!」
満天の星の下、三人は笑い合った。
やがて、心地よい満腹感と疲労に包まれたモグが、焚き火の脇の寝床でくるんと丸まり、静かな寝息を立て始めた。
ピピもティルの肩の上で小さくあくびをすると、首を羽毛の中にうずめ、すぅすぅと穏やかに眠りに落ちていく。
手の中で、肩の上で、確かに脈打つ小さな二つの命。
防風垣を通り抜ける優しい春風が、荒野の夜を穏やかに撫でていく。
ふと――。
静まり返った夜の帳の中、昼間に種を蒔いたばかりの第二号畝のあたりから、かすかに。
――ぷるん……。
湿った黒土を微かに揺らすような、不思議な柔らかい気配が、荒野の闇の底で小さく蠢いた。
(……ん? 土の中で、何かが跳ねた……?)
ティルは穏やかに微笑みながら、肩の上のピピが落ちないようそっと指で支え、夜空の星を見上げた。
追放された無能テイマーと、ふたりの愛らしい眷属。
荒野に灯された温かな命の火は、明日への希望を抱きながら、静かに、優しく燃え続けていた。




