Episode 3 : 月の声
森を出た頃にはすっかり夜が深くなっていた。空には白い月。冷たい月明かりが、静かに夜道を照らしている。
ヴェインは歩きながら、何度も浅い呼吸を繰り返していた。胸の奥が落ち着かない。夜禍との戦闘が終わったはずなのに、身体の芯に黒い冷たさが残っている。
耳の奥ではまだ微かに歌が揺れていた。
♪ ゆら ゆら
頭の奥へ静かに染み込んでくる声。振り払おうとしても消えない。
隣を歩く ゼファーが、 ちらりとヴェインを見る。
「……まだ気分悪ぃのか」
ヴェインは少し遅れて顔を上げた。
「え?」
「反応鈍い」
「そんなことないよ」
「ある」
即答だった。
ゼファーは前を向いたまま続ける。
「森で止まった時もそうだ」
「………」
ヴェインは言葉に詰まる。
あのとき、夜禍が目の前まで迫っていたのに、身体が動かなかった。歌に意識を引きずられていた。そんなこと、説明できるはずがない。
ヴェインは曖昧に笑う。
「ちょっと疲れただけ」
ゼファーが小さく舌打ちする。
「お前の“ちょっと”は信用ならねぇ」
風が吹く。
木々が揺れる。
その瞬間、
♪ よるのした
ヴェインの足が止まった。耳の奥で、はっきり歌声が響く。まるで、すぐ隣で囁かれたみたいに。
「……ヴェイン?」
ゼファーが振り返る。
ヴェインは周囲を見回した。
暗い道
揺れる木々
冷たい夜風
誰もいない。 …なのに確かに聞こえる。
♪ しろい こえが ないている
胸の奥が大きく脈打ち、世界の色が暗く沈んだ気がした。月明かり、影、夜、全部が妙に近い。まるで夜そのものが自分へ触れてくるかのようだった。
「……歌が」
掠れた声が漏れたとき、ゼファーの目が細くなった。
「また聞こえてんのか」
ヴェインは驚いたように顔を上げた。
ゼファーは視線を逸らしたまま低く息を吐く。
「言ってただろ“歌が聞こえる”って」
ゼファーが歌の話を聞いたのは森がはじめてではない。幼い頃、夜中に突然起きて、怯えた顔で歌の話をしていたことがある。ヴェインはほとんど覚えていないみたいだが、ゼファーは全て覚えていた。
器になった日から、ヴェインが少しずつ変わっていったことを。夜を怖がるようになったことを。時々、誰もいない場所を見つめていたことを。ゼファーは昔から、ずっと見ていた。
ヴェインは小さく目を伏せる。
「……気のせいかも」
「ならいい」
そう言いながらも、ゼファーの声は硬かった。
町へ戻った頃には夜もかなり更けていた。宿屋の灯りだけが静かな通りを照らしている。二人は簡単に食事を済ませ部屋に戻った。
ヴェインは椅子へ腰掛けたまま、窓の外を見つめる。
白い月
静かな夜
その光を見ているだけで、何かを思い出しそうな胸のざわつきを感じていた。
その横顔を無言で見ていたゼファーが口を開く。
「……本当に何もねぇのか」
ヴェインの肩が僅かに揺れる。
「え?」
「最近のお前、変だ」
静かな声。けれど、その奥には明確な緊張があった。
ヴェインは困ったように笑う。
「大丈夫だよ」
スーっとゼファーの表情が僅かに険しくなる。
「それ、やめろ」
部屋の空気が止まり、ヴェインが目を瞬かせる。
ゼファーは視線を逸らしたまま続けた。
「“大丈夫”って言ってる時のお前は大抵大丈夫じゃねぇ」
低い声。怒っているわけではない。まるで何かを恐れている様子だ。ヴェインはそれに気づいてしまった。ゼファーは昔からそう。普段は何も言わないくせに、ヴェインが崩れそうな時だけ妙に鋭くなる。
それは、自他ともに認める監視者の姿だ。もし本当に月喰いへ堕ちたなら、最後に止める役目を持っている。その事実をお互い理解している。だからこそ、時々どうしようもなく苦しくなる。
ヴェインは小さく笑った。
「心配しすぎ」
「してねぇ」
「してるよ」
「………………」
ゼファーは答えない。
代わりにゆっくりと窓の外を見た。月が嫌に明るく、静かすぎる夜だった。
___深夜。
ヴェインは眠りにつくことができない。胸の奥が落ち着かず、頭の奥が冷たい。ヴェインはそっと起き上がり、窓際へ向かう。夜風が冷たい。月が綺麗でとても静か。なのに見ているだけで胸が痛くなる。
その時、また歌が聞こえた。
♪ ゆら ゆら よるのした
ゆっくり目を閉じたヴェイン。気づけば自然と口が動いていた。
♪ しろい こえが ないている
まるで、昔から知っていたかのよう。その歌声は静かで、どこか泣いているようだった。ヴェインの胸の奥で何かが軋む。
孤独
寒さ
暗い夜
知らない感情がゆっくり流れ込んでくる。
♪ おいで おいで
その瞬間、部屋の奥で小さく布が擦れる音がした。
ヴェインが振り返る。
暗い室内
誰もいない
……気のせい?
けれど扉の向こうでは、ゼファーが静かに立ち止まっていた。
今の歌、聞いたことがない。なのに、 酷く嫌な感じがした。まるで、 闇夜に引き込まれるかのような…。
ゼファーは扉へ触れかけ、 その手を止める。入るべきか迷った。ヴェインに何と声をかければいいのか、 分からなかった。もし、あれが月喰いに関係しているなら。もし、ヴェインの中で何かが進み始めているなら。自分は何をすればいい…。
ゼファーは小さく舌打ちし、そのまま廊下を歩いていく。胸の奥が嫌にざわついていた。
___翌朝
冒険者ギルドは妙に騒がしかった。
「また行方不明!?」
「東だけじゃねぇぞ!」
「西の街道にも夜禍が出た!」
怒号とざわめき、不安と焦り
空気そのものが張り詰めている。
受付嬢も疲れ切った顔をしていた。
「最近おかしいのよ……」
「夜禍の数が増えすぎてる」
2人は辺りを見回した。
増え続ける依頼
傷ついた冒険者
怯えた人々
その時、近くで誰かが小声で言った。
「……聞いたか?」
「夜に歌が聞こえるって話」
ヴェインの指先が止まる。
耳の奥で微かにあの歌が響く。
♪ おいで おいで
胸の奥が大きく脈打つ。
ヴェインはゆっくり顔を上げる。
昼の空、そこにはうっすらと白い月が浮かんでいた。
まるでこちらを見ているように。
「…………」
ゼファーは何も言わない。そっと眉間にシワを寄せているその姿は、周りからは不機嫌そうに見えた。




