Episode2 : 夜の森
夕闇がゆっくりと世界を呑み込んでいった。
昼間の町の喧騒はもう遠い。風が吹くたび草木がざわめき、空に輝く白い月が静かに二人の背を照らしていた。
ヴェインは肩へ掛けていた外套を少し引き寄せ、小さく息を吐く。
「少し寒い」
「夜だからな」
「…………」
「……早く終わらせるぞ」
いつものやり取りにヴェインは苦笑する。それでも胸の奥には朝から消えない違和感が残っていた。依頼書に書かれていた“奇妙な歌声の報告有り”の一文。ただそれだけが妙に引っかかる。
昔からヴェインだけに聞こえるあの歌は、どこから聞こえてくるのか、誰が歌ったいるのかも分からない。分かっているのは、月夜の晩にどこからともなく流れてくるということだけ。
おそらく無意識。ヴェインは胸元に手を添えていた。その様子を横目で見ていたゼファーが口を開く。
「…まだ調子悪ぃのか」
「え?」
「顔色」
ヴェインは少しだけ目を瞬かせ、曖昧に笑う。
「平気」
「信用ならねぇ返事だな」
ゼファーは呆れたように鼻を鳴らした。
それ以上は聞かない。昔からそう。ヴェインが隠し事をする時は無理に問い詰めても意味がない。長い付き合いの中で、ゼファーはそれを理解している。
_やがて、 森の入口が見えてくる。それはまるで夜そのものが木々の隙間へ沈殿しているかのようだった。
ふと、ヴェインが足を止める。
森に向かって冷たい風が吹き抜けていった。
嫌な感じがする…
胸の奥がゆっくりとざわついていくかのような…
ゼファーが周囲を見回し、低く呟く。
「……静かすぎる」
確かに妙だ、虫の声がない、鳥の羽音もない。生き物の気配そのものが森から抜け落ちている。ヴェインは小さく頷き、腰の短剣へ手を添えた。
「行こう」
二人は慎重に森へと足を踏み入れていく。肌へまとわりつくような冷気と湿った土の匂いに空気が変わる。木々の隙間から差し込む月明かりだけが、細く地面を照らした。
足音がやけに響く。
影、気配、魔力…
森の奥に進むほど空気が重くなっていく。
ガサッ、、
不意に右奥の茂みが揺れ、静かにゼファーの手が剣へ伸びた。次の瞬間…!黒い影が木々の間から飛び出した。
低い咆哮、歪な四足に裂けた口。夜がそのまま獣の形を取ったような異形。__夜禍だ。
「来る…!」
ヴェインが即座に手をかざすと、足元の影が一気に広がった。そして、手首を返して握りしめる。
「――縛」
蛇のように伸びた影が夜禍の脚に絡みつき、夜禍の動きを止めた。その隙にゼファーが一気に踏み込む。地面を蹴る音と銀の軌跡。夜禍の身体が深く裂け、黒い霧のようなものが飛び散ると同時に耳障りな悲鳴が響き渡った。
"………………!!"
だが、夜禍は消えない。裂けた傷口がじわじわと蠢き始めた。肉とも影ともつかない黒が集まり傷を塞いでいく。
その光景にヴェインが眉を寄せた。
「再生してる……!」
「面倒だな」
ゼファーが舌打ちする。
夜禍は唸り声を上げながら無理やり影拘束を引きちぎり、そのまま一直線にヴェインへと飛びかかる。
鋭い爪。
ヴェインは後方へ飛び退き、空中で魔力を展開した。
漆黒の羽根が夜空へ散る。
「――穿て」
黒羽が一斉に夜禍へ突き刺さり、異形の身体が激しく揺れる。傷口からは黒い霧のようなものが吹き出した。しかし、まだ倒れない。むしろ怒り狂ったように咆哮し、再びヴェインに襲いかかった。
その瞬間、頭の中に歌声が響く。
♪ ゆら ゆら
「……!!!」
ヴェインの動きが止まり、視界が揺れた。
♪ よるのした
流れ込んでくるのは、
孤独
寒さ
泣き声
そして、知らないはずの冷たく暗い記憶。
どくん…
胸の奥で何かが脈打ち、黒い感情がゆっくり目を覚ましていく。夜禍が吠えながら迫ってくるのが見える。しかし…身体は動かない。
歌だけが何故か鮮明で、静かに耳へ染み込んでくる。
♪ しろい こえが ないている
「ヴェイン!!」
鋭い声と共に強い衝撃が肩にぶつかった。
ゼファーだ。
無理やりヴェインを突き飛ばし、激しい火花を散らしながら夜禍の爪を剣で受け止めていた。
ゼファーが歯を食いしばる。
「何してやがる!」
「!!」
我に返った目の前には夜禍の裂けた口。咄嗟に展開した障壁で夜禍の攻撃を受け止める。その腕に鈍い衝撃が走った。
「くっ……!」
ヴェインは数歩後退し、荒く息を吐く。気がつくと歌は消えていた。けれど、胸の奥のざわつきだけは残っていた。
ゼファーが夜禍を蹴り飛ばし、ヴェインの前に立つ。
「下がってろ」
「……大丈夫」
「お前の“大丈夫”は聞き飽きた」
その低い声に怒りが見える。けれど、その奥に焦りも滲んでいる。
ヴェインは息を整えながら夜禍を睨んだ。さっきのは何だったのか…ただの疲れじゃない。歌が聞こえた瞬間、身体の奥で何かが反応した。まるで、夜の闇そのものが、自分の中に入り込んでくるみたいに…。
夜禍が再び低く唸る。月明かりの下、その裂けた口から黒い霧が漏れていた。
「……終わらせるぞ」
ゼファーが剣を構え、ヴェインは静かに頷く。足元の影が広がり、黒羽が夜空へ舞う。二人は同時に駆け出した。
夜禍も地面を蹴り、黒い影が月明かりの下を滑るように駆けた。
速い。
先程までとは比べ物にならないほど、動きが鋭くなっている。
「左!」
ゼファーの声に、ヴェインは反射的に身体を捻った。
その直後、頬に感じた熱。夜禍の爪が頬を掠め、数本の黒髪が宙を舞っていた。
「……っ」
ヴェインは咄嗟に距離を取る。
しかし、夜禍は止まらない。まるで獲物を仕留める獣のように、執拗にヴェインだけを狙っていた。
ひゅん!
ゼファーが横から剣を振り抜く。周囲に鈍い音が響き渡り、夜禍の身体が大きく吹き飛ばされた。だが、木へ叩きつけられてもなお、異形は立ち上がる。黒い霧が傷口を覆い、再生していく。
「っとに面倒だな……!」
ゼファーが低く吐き捨てた。
ヴェインは呼吸を整えながら夜禍を見据える。
その時、
違和感に気づいた。夜禍の身体、その胸元。黒い霧の奥で微かに何かが光っている。
ヴェインが目を細める。
「ゼファー!」
「そこだ」
ゼファーも既に気づいていた。再生型の夜禍。ならば、核を潰さない限り終わらない。
夜禍が咆哮を上げ、再び突進する。
ゼファーが正面から迎え撃った。
剣と爪が激突し、激しい火花が飛び交う。押し返されながらも、ゼファーは無理やり踏み込んだ。
「今だ!」
ヴェインが両手を構えると同時に足元の影が一気に広がり、森の地面を覆った。無数の影が夜禍の四肢へと絡みつく。
「――没」
夜禍の足元が沈み、動きが止まる。激しい咆哮を放ち暴れ狂う異形を相手に、ヴェインは魔力を流し続けた。
腕が軋む。
胸の奥が熱い。
・
・
耳の奥でまた歌が揺れた。
♪ ゆら ゆら
頭が痛む。
視界が滲む。
それでもヴェインは止まらない。
「……ゼファー!」
「任せろ」
ゼファーが一気に踏み込む。黒い外套が翻り、月明かりが剣の軌跡を白く照らした。
次の瞬間。
鋭い斬撃が夜禍の胸を深く裂く。黒い霧の奥、赤黒く脈打つ核が露出した。
"…………!!!"
夜禍の絶叫に、森全体が震えた。
ゼファーはそのまま、迷いなく剣を突き立てる。
鈍い感触。
核が砕けた。
"――ギィィィァァァアアア!!"
耳を裂くような断末魔の後に夜禍が崩れ落ちる。その身体は黒い霧となって、ゆっくり夜へ溶けていった。
静寂が戻り、風だけが森を揺らした。
ヴェインは魔法を解除し、その場に膝をついた。
息が荒い。
胸が苦しい。
頭の奥で、 まだ微かに歌が残っている。
ゼファーが近づき、 ヴェインを見下ろした。
「……おい」
ヴェインは顔を上げる。
ゼファーの表情は険しい。
「さっき、止まったな」
「…」
ヴェインは視線を逸らしながら返す。
「……別に、なんでもない」
「嘘つけ」
即答だった。
ゼファーはしゃがみ込み、ヴェインの顔を覗き込む。青黒い瞳が鋭く細められる。
「何があった」
ヴェインは数秒黙り込んだ後、小さく息を吐いた。
言うべきか迷う。でも、上手く説明できる気がしなかった。
「……歌」
ゼファーの眉が僅かに動く。
森の空気が、 一瞬だけ冷えた気がした。
「歌?」
ヴェインは頷く。
「…頭の中、歌が流れる」
「……………」
「月の出る夜にたまに…」
ゼファーは黙ったままヴェインを見ていた。その視線は、どこか昔を思い出しているみたいだった。
やがて小さく舌打ちする。
「……最悪だな」
「え」
「嫌な予感しかしねぇ」
ゼファーは立ち上がり、周囲へ視線を向ける。ヴェインもゆっくり息を整えながら、月を見上げた。
白い月。
静かな夜。
夜禍は消えたはずなのに、胸の奥のざわつきだけは消えない。
静かな森に、月明かりだけが冷たく降り注いだ。
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ちょこっとキャラクター紹介
【ヴェイン】
黒髪と青緑の瞳を持つ青年。幼い頃に月喰いの器となるも、人として生き続けようとしている。普段は穏やかで優しく、人を助けることを当たり前のように選ぶ性格。しかし、自分の苦しみや弱さはあまり見せない。戦闘では前衛にも後衛にもなれる万能型で、影や黒羽を操る闇属性魔法を得意とする。夜になると月喰いの力が強まり………。周囲から見れば静かな青年だが、その内側には常に「自分が災厄になるかもしれない」という恐怖を抱えている。




