Episode 1 : 月夜の残歌
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__薄暗い闇夜の中で誰かが泣いている。
遠くから聞こえてくる悲鳴。冷たい風が吹き抜け、黒く滲む影が大地を覆っていく。空には赤く染まった月だけが静かに浮かんでいた。
幼いヴェインは、
その場に膝をついたまま動くことができない。
………苦しい…
息が…できない。
胸の奥底で何かが暴れ出す。
黒い泥のようなものが足元から這い上がり、指先、 腕、 喉へ、、ゆっくりと身体を飲み込んでいく。
怖い……!
身体が自分のものではなくなっていく感覚と頭の奥に流れ込んでくる声。
泣き声
怒号
悲鳴
それは、助けを求める誰かの声。そして次の瞬間、それらは掻き消され、"静かな歌声"へと代わっていった。
♪ ゆら ゆら よるのした
誰が歌っているのか分からないが、それは、まるで子守唄のようにとても穏やかな声で聞こえた。
それなのに、どうしようもなく寒く…悲しい…
♪ しろい こえが ないている
ヴェインの視界が揺れる。ぼやけた景色の向こうに、こちらへ駆け寄って来る誰かの影が見えた。
でも顔は分からない、声も届かない。ただ、歌だけが静かに耳の奥に染み込んでくる…
♪ ひとり ひとり きこえない
胸の奥が軋んだ。
苦しい…
痛い…
怖い…
なのに――
その歌はどこか優しく感じた。
まるで「もう苦しまなくていい」と囁くかのように。
♪ おいで おいで おちておいで
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「――っ!」
ヴェインは勢いよく目を覚ました。
荒い呼吸が響く静かな部屋。薄暗い天井に、窓から差し込む淡い朝の光。しばらくの間、自分がどこにいるのか分からなかった。
夢……また、あの夢。はぁ、はぁ……!
ぐっと胸元を押さえる。呼吸を整えようとしても、 耳の奥にはまだ歌声が残っていた。
ヴェインはゆっくりと身体を起こし、額に滲んだ汗を拭った。
窓の外へ目を向ける。朝焼けに溶けかけた白い月が、まだ空に残っていた。
そう、昔から。月が強く輝く夜には決まってあの歌が流れる。それは誰も知らない歌。いつから聞こえていたのだろうか…その記憶の扉は閉ざされたままだった。
気づいた時には既に頭の奥へ。
時折、無意識に口ずさんでしまうほどに…
_不意に、階下から音が聞こえた。
鍋の蓋が鳴る音。
何かを焼く音。
香ばしい匂いが部屋まで漂ってくる。
「おい、起きてんなら降りて来い」
低く不機嫌そうな声が響いた。
「飯、冷めるぞ」
ヴェインは一瞬だけ目を細め、小さく息を吐く。
聞き慣れたその声に、ほんの少し心が安らぐ。
「……今行く」
掠れた声で返し、ベッドから起き上がる。部屋を出て階段を下りると、小さな宿の食堂に差し込む朝の光で目が眩んだ。
窓際の席。適当に置かれた荷物。壁に立てかけられた剣。そして、 朝食を並べているゼファーの姿。ゼファーはヴェインを一瞥すると、皿を机へ置いた。
「遅ぇ」
「…昼ではない」
「そうかよ」
相変わらず中身のない会話だったが、ヴェインは小さく笑みをこぼして席へと座る。湯気の立つスープを見つめながらぼんやりと息を吐いた。
ゼファーが腕を組んだまま口を開く。
「また寝不足か」
ヴェインの動きが少し止まる。
「…いつもの」
「………」
ゼファーはそれ以上聞かなかった。
「そうか」
それだけ言って、自分の席へ座る。
いつものことだった。ヴェインが時々悪夢を見ることも、夜中に突然目を覚ますことも、何もない場所を見つめていることも……ゼファーは昔から知っている。
だからこそ、無理には聞かない。
ヴェインもまた、それに助けられていた。
食事を終えた頃には、外はすっかり昼になっていた。
二人は荷物を持ち、宿を出る。
昼の町は賑わっていた。
露店の店主達の声
焼きたてのパンの香り
走り回る子供達
行商人の馬車
平和な朝の景色_
けれど、 どこか空気が重い。
町の人々は皆、夜を警戒していた。
"最近、この辺りでは夜禍の出現が増えている"
"夜道で人が消えた"
"森から変な声が聞こえる"
そんな噂が絶えなかった。
二人は町の中央にある冒険者ギルドへ向かう。古びた木造の建物。扉を開くと、酒を飲んでいる冒険者達の笑い声が響いた。
受付の女性が二人を見るなり、小さく肩を竦める。
「また夜禍討伐?」
ゼファーが無言で依頼掲示板を見る。
ヴェインは苦笑した。
「そんな顔しなくても」
「最近多すぎるんですよ」
受付嬢は疲れた顔でため息を吐いた。
「東の森。また出たって」
ゼファーが依頼書を剥がす。
そこには簡潔な文字が並んでいた。
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東の森 夜禍討伐依頼
・夜間に複数目撃
・行方不明者二名
・奇妙な歌声の報告有り
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最後の一文を見た瞬間、ヴェインの視線が止まる。
歌声__
胸の奥が僅かにざわついた。
ゼファーがそれに気づき横目で見る。
「……どうした」
「いや」
ヴェインはすぐ視線を逸らした。
「なんでもない」
ゼファーは数秒だけヴェインを見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
依頼を受けた後、二人はすぐには森へ向かわなかった。
情報収集と食料調達。それがいつもの流れ。市場を歩きながら、ヴェインは露店の商品をぼんやり眺める。
色鮮やかな果物
古びた装飾品
小さなオルゴール
「観光しに来たわけじゃねぇぞ」
ゼファーが呆れたように言う。
「見てるだけ」
「ガキか」
「失礼だな」
そんなやり取りをしながら歩いていると、屋台の串焼きの匂いが漂ってきた。ヴェインの視線がそちらへ向く。ゼファーは小さくため息を吐き、無言で店主へ硬貨を放った。
「え」
串焼きを渡され、ヴェインが目を瞬く。
「……自分で払えるけど」
「うるせぇ」
ぶっきらぼうに返されてヴェインは少しだけ笑った。その時だった。近くで遊んでいた子供達の会話が耳に入る。
「夜の森でさ、歌が聞こえたんだって!」
「えぇ、怖……」
「聞いた人、消えちゃったらしいよ!」
ヴェインの足が止まる。
耳の奥で、 微かに歌声が揺れた気がした。
♪ ゆら ゆら
「……ヴェイン」
ゼファーの声で我に返る。
「行くぞ」
ヴェインは小さく頷き、再び歩き出した。
空にはまだ、白い月が薄く残っていた。
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市場を抜ける頃には、空の色が少しずつ変わり始めていた。昼間の穏やかな青に、 どこか鈍い灰色が混じっている。ヴェインは空を見上げ、小さく目を細めた。
「……天気、崩れるかな」
「夜まで持てば十分だ」
ゼファーはそう言いながら、地図を広げる。東の森までは歩いて一時間ほど。夜禍が出るのは、決まって日が沈んでからだ。
「行方不明者が出た場所、この辺りか」
ゼファーが地図の一点を指で叩く。
「森の奥だね」
「………。嫌な場所だ」
ヴェインは苦笑する。
「夜禍の出る場所って、大体嫌な場所じゃない?」
「違ぇ」
ゼファーは低く呟いた。
「ここは妙に静かすぎる」
その言葉に、 ヴェインは少しだけ周囲を見回した。
町は賑わっている、人も多い。なのにどこか息苦しい。まるで皆、無意識に夜を待っているみたいだった。
不意に、 路地裏から黒猫が飛び出してくる。ヴェインの足元を横切り、 そのままどこかへ消えていった。
「うわ」
「鈍いな」
「今のは不意打ち」
ゼファーは呆れたように鼻を鳴らす。そんな何気ないやり取りをしながら、二人は町外れへ向かった。
途中、小さな井戸の前で一人の老人が空を見上げ、ぼそりと呟いた。
「……月が近い」
ヴェインの足が僅かに止まる。
老人は二人を見ることなく続けた。
「最近の夜は良くない、夜禍だけじゃない。夜そのものが、何かおかしい」
風が吹き、空気が冷たくなる。ゼファーは老人を一瞥したが、何も言わず歩き出した。ヴェインもその後を追う。
町を出る頃には、 空はすっかり夕色へ染まり始めていた。遠くに見える東の森は、まるで黒い影のように地平へ広がっている。
ヴェインは無意識に胸元へ触れた。嫌な感じがする…理由は分からない。ただ、胸の奥がざわつく。
その時だった。
耳の奥で微かに歌声が揺れた。
♪ ゆら ゆら
ヴェインの表情が固まる。
「……どうした」
ゼファーが振り返る。ヴェインは数秒黙り込み、小さく首を横へ振った。
「なんでもない」
嘘。でも、そう答えるほか、上手く説明できなかった。
昔から時々聞こえる歌
誰も知らない歌
自分だけに聞こえる歌
ゼファーはじっとヴェインを見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「無理そうなら下がれ」
「大丈夫」
「お前の“大丈夫”は信用ならねぇ」
「ひどいな……」
そう言いながらも、ヴェインは少しだけ笑った。ゼファーもそれ以上は何も言わなかった。
やがて、夕闇がゆっくりと世界を覆い始める。




