秘境の温泉宿
灯里を女湯の前まで案内をした少女から聞いた話によると、此処は〈翠の宿〉と呼ばれる小規模の温泉宿らしい。
温泉宿の建物は、広い旅館のような豪華さも無く、屋敷のような重厚さも無い。親戚一同も住んでいるような、広々としたシンプルな民家に近いのかもしれない。
また、木造の平屋建てであるようだ。
長い廊下から窓を覗くと、一軒の急な傾斜の茅葺き屋根の住宅らしきものも建っている。こちらは三階以上の高さがあるらしい。
全身が冷え切っていた灯里は、ひたすらおとのあとについていき、無心で廊下を歩き続けているようだ。
大人数で泊まることができる客室が無い、とても小さな旅館であるからか、おとと灯里はあっという間に風呂に辿り着いた。
「ぬれたふくとかは、だついじょの出入り口のへんにあるカゴの中に入れといてね! 使ったてぬぐいも、いっしょにおいていーよ。あとで、おとたちがせんたくしとから〜」
「あり……がとう」
脱衣所に移動した灯里は、出入り口にある大きな籠を見つけると、手に持っていたガウンと靴下をすぐに入れた。彼女は着ていたパジャマと下着を脱ぐと、それらを軽く畳み、全ての洗濯物を籠の中に入れ終えたようだ。
そうすると、灯里は急いで風呂のある方に向かったのだった。
引き戸を開けると、まずは片手桶が置いてあるところに行き、灯里はパパっとかけ湯をした。
その後、彼女は駆け足で内風呂の中に入ったようだ。
少しとろみのある温泉が入っていたのは、檜をふんだんに使って造られた湯船だった。とはいえ、湯船十人以上の人が入れないくらいの大きさだ。
洗い場も十カ所だけらしい。内風呂は一つのみなので、大浴場ではないようだ。
洗い場の近くには、露天風呂の出入り口らしき引き戸があった。
露天風呂の側で目覚めた時の寒さを思い出したり、雪がまた強まったかもしれないと思ったりしたので、灯里は流石に露天風呂に行こうとはしなかった。
(さっき起きた時は、一瞬『夢かなぁ?』と思ったけど、温泉の温かさや雪の冷たさをしっかりと感じたから、たぶん夢じゃない、よね……??)
温泉のとろみで、つるつるになっていた片腕を触りながら、灯里は自問自答していた。
しばらく温泉に浸かった後、灯里は洗い場で全身を洗ったようだ。
洗い場に置いてある湯桶だけでなく、かけ湯のための片手桶も木製らしい。
「あ〜、ホント気持ちいいなぁ〜。頭から爪先までポカポカしてる〜」
全身を洗った後に、再び灯里は温泉の中に入った。美容液のような良い湯だったので、灯里は思わず顔にも、両手で湯をかけていたようだ。
(う〜ん……。私、平安時代辺りに、タイムスリップしちゃったのかなぁ? でもっ、外で雪まみれで横になっていたのを助けてくれた人は、確か……紺色の眼と髪だったような……。タイムスリップではなくて、まさか異世界なのっ??)
灯里は別世界に来てしまった時の記憶は全く無いのだが、日本の文化に似ているところがあり、昔の生活をしているような国へ飛ばされた状況を冷静に分析していたのだった。
だが、ふと考えている途中で、彼女はハッとした様子になり、慌てて湯船から出たようだ。
(そんなことをじっくりと考えている場合じゃないよね! 親切にしてくださった温泉宿の人たちに、早くお礼を言わないとっ)
一方で、炊事場では、千夜が鍋の中に入っている水を沸騰させようとしていたようだ。
その時、外から引き戸を勢い良く開けて、二人の男性が炊事場に入ってきたようだ。
「おばあっ! 今、追加の薪を持ってきたぞ」
「オレも持ってきた〜」
千夜に声をかけたのは、白い三角巾を被った中年の男性と幼い少年らしい。
中年の男性は背は高くはないが、体格が良さそうだ。幼い少年は小学三年生か四年生くらいの年齢だろうか。
「太郎も二郎も、ありがとさん。
……あと、太郎や。ほうれん草の浸しを作りたいんだが、茹でるのを頼めるかい? 料理はあんたの方が得意だし、あたしゃ歯が悪いのもあって、味見しても茹で加減が分かんないだろーから、よろしくよ!」
「ほーいっ! 分かったぜ」
その頃、おとが炊事場に戻ってきた。「おばあちゃん、行ってきたよ〜」と言うと、再び棚から食器を出して、近くにあった台の上に並べ始めたようだ。
「あ〜。そーいや、早朝に見慣れない娘が外で行き倒れそうになってたから、さっき風呂に入らせておいたよ。朝食は一人分、追加しておいてくれ」
唐突に予期していなかったことを千夜から聞き、千夜の息子である太郎と長男の二郎は非常に驚いたらしい。
「こんな辺鄙な山奥にか?? 珍しいな……」
「オレらぐらいの年の、女の子なん?」
「風呂を出た後なら分かるさ。と……、そん前に、二郎は太郎を手伝ってくれるかい? 食器を出し終わったら、おとはあたしと一緒に洗濯物を取り込んでおくれ」




