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第3話 画鋲は四つ

朝の階段は十二段で今日も十二段だったから平和なはずなのに踊り場の壁にいつもと違うものが貼ってあって足が一回止まった。

走らないの貼り紙の隣に白い紙が一枚あって大きな字で「大時計撤去のお知らせ」と書いてある。

見ないで通り過ぎるつもりだったのに文字というのは目に入ったら勝手に読んでしまう生き物で僕の目は今日も勝手に仕事をした。

老朽化のため十二月二十日に撤去しますと書いてあって理由は予算の執行と安全面でその下に生徒会の判子が押してある。画鋲は四つで左下だけ少し斜めに刺さっていて気になる。気になるけど直さない。直したら読んだことになる。もう読んだけど。

大時計は今朝も止まったまま僕の方を向いていた。見られている気がするのは時計に目がないからで目がないものに見られるわけがないから気のせいで気のせいにしておけば誰も困らない。ちなみに今朝は靴下がちゃんと左右揃っていた。確認したので間違いない。

教室に入ると音がいっぺんに顔に当たって今日も少し酔う。窓際の一番後ろの席に着いて校庭を見るとネットを畳む運動部がいて今日は絡まらずにきれいに畳めていてあいつ成長したなと思った直後に誰だよあいつはと思った。

教室の真ん中では時任澄が自販機の缶を両手で持って絶望した人の顔をしていた。

「聞いてよ! ココアのあったかいの押したはずなのにつめたいの出てきたの!」

「ボタン押し間違えたんでしょ」

「間違えてない! 指が勝手に」

「それ間違えたんだよ」

「違うもん! あったかい気持ちで押したもん!」

「気持ち関係ある?」

「ある! だってつめたいココアって飲んだらなんか悲しくならない?」

「ならない」

「なるの! 甘いのに冷たいって反則だよ」

意味が分からないのに分かる気がしてくるのが怖い。僕はつめたいココアは嫌いじゃないけど言ったら会話に入ることになるので言わない。心の中でつめたいココアも悪くないぞと弁護しておく。時任はまだ缶を両手で包んであっためようとしている。つめたいのは手の中でもつめたいままなのに。

「あっ針谷くんおはよ!」

急に名前が飛んできて椅子の上で背筋が伸びた。

「……おはよう」

言えた。おはようが言えた。今日は朝からいい日かもしれない。

「ココア飲む? つめたいやつ」

「いやいい」

「そっか! 残念! じゃあ私が悲しいまま飲む!」

悲しいなら飲まなければいいのにと思ったけど時任は缶を開けて一口飲んで目をぎゅっとつぶって「あまい」と小さく言った。悲しくなさそうだった。

一限の三枝先生はいつもの順番で黒板の上の時計を見て左手首の腕時計を見てもう一度黒板の上の時計を見て溜め息をついた。

「うちの時計は今日も二分遅れとるな」

「先生の時計が進んでるんじゃないですか」

誰かが言って笑いが起きる。

「それも一理あるが先生の腕時計は四十年間一秒も狂ったことがない」

真顔で言って出席を取り始めた。毎朝ずれているのは黒板の上の時計の方で先生の腕時計はずれない前提でこのやりとりは成り立っていてなのに誰も飽きない。ちなみに黒板の上の時計は秒針の音が四拍目だけ弱い。内側のどこかが緩んでいる音でたぶん締めれば直るけど直す人はいないし僕も締めない。

授業が始まると数学は今日も裏切らなくて僕は問三を二分で解いて余った時間でノートの端に十二段の階段を描いて消した。何をやっているんだ。

昼は屋上前の出っ張りで弁当を食べた。妹の弁当箱は朝のうちにテーブルに置いてきたし今日の卵焼きは普通の味付けに戻したのは昨日の反省で甘くしたのはたまたまだから戻したのもたまたまだ。買い物メモは醤油と洗剤と牛乳と米にしたけど米は何合残っているのか結局思い出せなくて帰りに炊飯器を覗くしかない。

さて放課後だ。

帰ろうと廊下に出たところで職員室の前に時任がいた。手帳を開いてペンを持ってスマホを片手に職員室の前の壁掛け時計を見上げている。見上げたままスマホを見て手帳に何か書いてまた見上げる。見上げる角度がちょうど階段の大時計を見ていたときと同じで首の傾き方まで同じだと思った。いや何を見ているんだ僕は。

通り過ぎようとしたら目が合った。

「あっ協力者!」

「違います」

「昨日の三分は有効だって言ったよ」

「今朝の画鋲は」

「画鋲はまだ何もしてないでしょ」

画鋲はまだ何もしてない。そうだった。言い返せないまま時任は手帳とペンを僕の手に載せた。

「記録係お願い! 私が時間読むから書いて!」

「何の記録ですか」

「校内の時計がどれだけずれてるかの調査! 撤去の話が出たついでに先生に頼まれたの! あと単純にやりたい! 制限時間は二十分! スマホのタイマーかけたからね!」

後半が本音だと思った。手帳を開くと左のページには「職員室前」「図書室」「体育館」「二年廊下」と手書きの丸い字で並んでいて右のページはまだ白い。丸い字が思ったより読みやすくて少し驚いた。

「じゃあまず職員室前! スマホは電波時計と同じだからこれが正解ね 十六時十二分三十秒 壁の時計は……ちょうど十六時十二分三十秒!」

「ずれてないですね」

「優秀! はい書いて! 誤差ゼロ!」

書いた。誤差ゼロ。字は僕のも悪くないと思った。

次は二年廊下で次は階段横で次は図書室で時任は一つ見つけるたびに「あっ」と言って「これ二分遅れてる!」と喜んでずれていると嬉しい人みたいだった。ずれているものを見つけて嬉しいのはなんだか変だけどたぶんずれているものが好きなわけじゃなくて見つけるのが好きなんだと思う。僕が雲を数えるのと同じかもしれない。いや同じにするな。

「ここ図書室だけ五分も進んでる!」

「五分」

「カウンターの時計だけ! 壊れてるのかな」

「進んでいる分には困らないって先生が言ってたわよ」

司書の先生がカウンターの奥から顔だけ出して言った。

「五分進めておくとみんなちゃんと帰るの」

「ずるい!」

「ずるくないの知恵なの」

時任が「知恵……」と呟いて手帳に「図書室 +5 知恵」と書かせた。僕が書いた。書いたのは僕だ。

「電池が弱ってる時計は遅れることが多いです」

口が勝手に動いた。

「あっ体育館のは進みじゃなくて遅れてるからたぶんそれです」

言ってから黙った。何を言ってるんだ僕は。

「詳しいね」

「……一般常識です」

「私知らなかった」

「あんまり一般じゃないかもしれません」

「どっちなの!」

笑われて顔が熱くなってまた手帳に目を落とした。ペンを持つ手が変な力の入り方をしていて字が少し濃くなった。

体育館に向かう渡り廊下の途中から声が聞こえた。

「だから三分あるって言ってるだろ!」

「もう時間なんだよ! 時計見ろよ!」

体育館の入り口でバレー部の部長とバスケ部の部長が向かい合っていて間に挟まれた一年生が泣きそうな顔をしていた。体育館の壁の時計は十六時三十分で二人は違う時計を見ているらしかった。

「どうしたの?」

時任が前に出た。声は低くないのに急に温度が下がる。さっきまで「ずるい!」と叫んでいた人と同じ口から出ている声なのが信じられない。

「こいつが時間守らないんだよ!」

「そっちが勝手に早く来るんだろ!」

「使用時間は十六時三十分までと決まっています バスケ部は今から入れます バレー部は片付けを始めてください」

「でも時計はまだ三分あるって」

「体育館の時計は三分遅れています 私が今測りました 正しい時刻は十六時三十三分です バレー部は三分超過しています」

部長は何か言いかけて閉じた。バスケ部の部長はにやりとしかけて時任に見られて引っ込めた。両方に平等に圧が行くのが逆にすごい。

「次から体育館の使用時間は私のスマホの時刻を基準にします 書面で出しておきます 異論があれば生徒会室に来てください」

誰も異論を言わず体育館は静かに動き始めた。泣きそうだった一年生は鼻をすすって時任に頭を下げて走っていった。

時任は振り返ってスマホの画面を見て一瞬だけ顔が固くなった。

「十六時三十四分……一分半オーバー」

「一分半くらい」

「一分半は一分半なの」

声が妙に小さくてさっきの仕事モードとも教室の元気とも違った。手帳に二重線を引く手が少し速かった。一分半で顔がこわばる人を初めて見たけど時間に厳しい人というのはそういうものなんだろうと思って深くは考えないことにした。

時任は顔を上げて僕を見て急に肩の力が抜けた。

「……怖かった?」

「少し」

「ごめん! 仕事モードになるとつい!」

「いえ」

「でも今の針谷くんが電池って言ってくれたから三分遅れって言えたの 助かった」

「……へえ」

「それは違う! そこは『どういたしまして』!」

「どういたしまして」

「よろしい!」

体育館の時計の誤差は三分遅れで電池切れの可能性ありと手帳に書いた。後で先生に報告するらしい。

調査が終わって時任と一緒に階段まで戻ってきたら踊り場に脚立が立てかけてあった。さっきの記録を見ると今日の最後の項目は大時計だ。でも大時計は止まっているから誤差の測りようがない。止まっているものの誤差は何というんだろう。

「あっそうだ画鋲!」

時任は急に思い出して脚立に登って貼り紙の左下の画鋲に手をかけた。

「これ 傾いて貼られちゃってて直したいの 画鋲が左下だけ斜めで気持ち悪くて」

「……僕も気になってました」

言ってから口を押さえた。どうして言った。

「でしょ!? 分かる! あそこだけ人生がちょっとだけ間違った感じするよね!」

「人生までは」

「するよ! 私するもん!」

時任は画鋲を引き抜こうとして指先でちょっと押して抜けなくてもう一回押して抜けなくてむうと唸った。唸り方が子犬みたいだと思ったけど絶対に言わない。

「硬い! 私の指が弱いのかな」

「画鋲が深く入りすぎてるんだと思います」

「じゃあどうすればいい?」

「……ペンの先とかで下から」

時任が手帳のペンを差し出して僕は脚立の下から手を伸ばした。ペンの先で画鋲の頭を引っかけるとぽろっと外れてそのまま下に落ちて転がった。拾ってまっすぐに刺し直す。四つとも同じ高さに揃った。

「おお」

時任が感動したような声を出した。

「針谷くん器用だねやっぱり」

「画鋲を直しただけです」

「直したって言った」

「……刺し直しただけです」

「でも直したって言ったもん」

言ったな確かに。言い間違いというのは後から残るのが一番たちが悪い。時任は満足そうに頷いて脚立を一段降りて貼り紙を見上げた。

「撤去さみしいよね」

唐突に言われて返事ができなかった。時任は貼り紙じゃなくて大時計の方を見ていて横顔が教室で見るものとも生徒会で見るものとも少し違った。

「私ねこの時計が鳴ってるの一回も聞いたことないの」

「止まってますから」

「うんでもなんか鳴りそうな顔してるでしょ」

顔。時計に顔があるのか。この人の世界では椅子も時計も顔を持っているらしくてそれはちょっとだけ羨ましい。

「撤去までに少し時間はあるから業者さんの見積もりは来週でそれまでにいろいろ調べとかないと」

「そうですか」

「そうですかは禁止!」

「何の禁止ですか」

「そうですかって言うと壁ができる感じがするの今みたいに」

壁。壁というのは僕のことかと思ったけど今のは確かに壁だったので何も言えなくなった。

「じゃあ代わりに何て言えば」

「うーん『へえ』とか『なるほど』とか」

「へえ」

「それそれ! いい! 花丸!」

「へえで花丸なんですか」

「へえは優しいの」

意味が分からんけどもらった花丸は不思議と嬉しかった。時任は鞄から飴を取り出して今日は先に自分の口に入れてから僕にもひとつ渡してきた。

「今日はコーラ! 選ばなくていいよ! 選ぶ日じゃないの!」

「選ぶ日があるんですか」

「毎日は疲れるからね」

それには一票入れたくなった。コーラ飴は舌の上で思ったより弾けて甘くてちょっと喉がくすぐったかった。

時任は手帳の新しいページを開いて「十二月二十日まであと四十六日」と書いた。ページの端に小さく丸をつけて閉じる手つきが妙に丁寧で見ないふりをしたのに目が追った。

四十六日。僕の癖が勝手に四十六を十二で割り始めて三回と十段で止まった。何をやっているんだ。

「じゃあね! また明日!」

今日はちゃんと階段を駆け下りる前に貼り紙の前で立ち止まって背筋を伸ばして歩き始めた。足音がだんだん遠ざかる。僕は踊り場に残って四つ揃った画鋲を見た。揃ったけど貼り紙の内容は変わらない。十二月二十日。

大時計は止まったままで見上げると今日はちょっとだけ長く目が合ってしまった気がして目がないんだから合うわけがないのにコーラ飴のせいだということにした。

何段あったのか確かめるのをやめて降りた。十二段だった。たぶん。

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