第2話 HR
階段は一階から踊り場まで十二段で、踊り場から二階までがまた十二段ある。
数えようと思って数えているわけじゃない。気づいたら数えている。小学生のころ下校中に電柱を数える遊びをしていて、それがそのまま居座っているだけだと思う。ちなみに今日も十二段だった。たまに十三段に感じる日があって、そういう日は大抵ろくなことがない。
踊り場の壁際にある大きな箱型の時計は、今朝も見ないで通り過ぎた。見ないものについては考えない。それが僕のやり方だ。
二年三組の引き戸を開けると、音が顔に当たる。
朝の教室はどうしてこんなに音が多いのか。椅子を引く音、笑い声、誰かの昨日のテレビの話、誰かが教科書を机の奥へ押し込む音。全部いっぺんに耳に入ってくるので、毎朝ちょっとだけ酔う。
僕は窓際の一番後ろの席に鞄を掛けて、教科書を机に入れて、窓の外を見る。校庭の端で運動部の誰かがネットを畳んでいる。畳むのが下手なやつがいて、毎朝同じところで絡まっている。毎朝見ているのに、毎朝ちょっと応援している。
挨拶はしない。されもしない。いじめられているわけじゃないし、嫌われているわけでもないと思う。ただ話しかける理由が誰にもなくて、僕の側にもない。ないのはいいのだが、雑談の仕方というのは使わないと本当に忘れる。この前コンビニの店員に「温めますか」と聞かれて三秒固まった。三秒のあいだに店員の笑顔が少しずつ不安に変わっていくのが分かって、結局「はい」と言った。温める必要のないおにぎりだった。
教室の真ん中あたりでは、時任澄がもう三人に囲まれている。
髪を高い位置で一つに結んで、背筋がまっすぐで、笑うと目がなくなる。声がよく通るから、聞くつもりがなくても聞こえてしまう。聞こえてしまうものは仕方がない。
「ねえ、卵焼きって、甘いのとしょっぱいの、どっちが正義だと思う?」
「しょっぱい派。出汁のやつ」
「えー、甘いのだよ。お弁当の隅っこにいる黄色が甘くなかったら、悲しくない?」
「悲しいって何」
「悲しいでしょ! 黄色いのに、甘くないんだよ?」
「意味わかんない」
「私も、言いながらわかんなくなってきた」
笑い声が起きる。澄も一緒になって笑っている。自分で言い出して自分で崩れていくのは、なかなかすごい才能だと思う。
僕は窓の外に目をやったまま、卵焼きは甘い方だ、と心の中だけで答えておく。誰にも聞かれない場所でなら、僕も会話に参加している。
「あ、田中、前髪切った?」
「切った! え、気づいた?」
「昨日より三ミリ短い」
「測ったの!?」
「見えちゃったの」
「怖い」
三ミリは見えるものなのか。多分見えないだろう、いやきっと見えるわけがない。少なくとも僕は昨日の田中の前髪がどうだったか、まったく覚えていないからな。覚えてはいないが、田中が前髪を切ったことは今の会話で初めて知って、少しだけ得をした気分になった。
あれかな、青髭を少し沿って綺麗になったらか気付かれるみたいな。3ミリで清潔感が変わるんだろう。きっとな。
チャイムが鳴って、少し遅れて引き戸が開いた。すると数学の三枝先生が入ってくる。
今日の一限は数学Ⅰ、数学は大の得意分野のため心は少し軽やかだ。
三枝先生は定年まであと半年だと聞いている。
歳を食った先生の中でも珍しく、生徒たちから定評がある。まぁなんだ一言で言うと優しいのだ。何をしても、どんな質問をしても、タメ口で話しかけても笑って受け入れてくれる。
白髪を短く刈った小柄な先生で、背中が少し丸くて、教卓の前に立つといつも同じ順番で動く。出席簿を置いて、教室を見渡して、黒板の上の時計を見て、左手首の腕時計を見て、もう一度黒板の上の時計を見る。そして小さく溜め息をつく。
「うちの時計は、二分遅れとるな」
「先生の時計が進んでるんじゃないですか」
誰かが言って、笑いが起きる。
「それも一理ある。だが、先生の時計は四十年間、一秒も狂ったことがない」
先生は真顔で言って、出席を取り始める。毎朝このやりとりがあって、誰も飽きない。僕は飽きないどころか、実は少し好きだ。二つの時計を見比べるときの先生の目が、ほんの一瞬だけ優しくなるからだ。
このやりとりが生徒たちを授業の空気にする。
黒板の上の時計は、秒針の音が四拍目だけ弱い。内側のどこかが緩んでいる音だ。たぶん締めれば直る。直す人は、いない。僕は、締めない。
ホームルームの終わりに、時任が前に出た。
「文化祭のクラス予算の希望アンケート、回収しまーす。まだの人は今日の放課後まで! 出してない人、心当たりあるよね? あるよね?」
あると思った人が数人、同時に目を逸らした。僕もその一人だ。逸らした先が窓だったので、いつもと変わらない感は醸し出している。
プリントが時任の手に集まっていく。席を一つずつ回って、一枚受け取るたびに「ありがと!」と言う。毎回ちゃんと相手の目を見て言うので、受け取る側が照れて、「いえ」とか「どうも」とか返している。お礼を言われて恐縮するという不思議な光景だ。
僕は窓際だから、順番がいつか来る。来るのは分かっている。心の準備は毎回できない。なんか緊張するんだよなぁ、こうやって面と向かって一人一人と話す感じが…
プリントはもう鞄に入れてある。出せばいいだけだ。出すだけなのに、折れていないかを確かめるのに三十秒かけた。よし折れていなかった。
「針谷くん、アンケートもらっていい?」
来た。
「……はい」
声が変なところから出た。喉の途中で一回つっかえた。紙の端をつまんで、指が触れない角度を選んで差し出したら差し出し方がお辞儀みたいになった。
時任は両手で受け取って、お辞儀を返してきた。
「ご丁寧にどうも」
「いや、今のは」
「ううん、いいと思う。うちのクラスで一番丁寧だった。八十点」
「何の点数ですか」
「提出の丁寧さ。ちなみに平均は六十二点」
「平均出してるんですか」
「さっきから出してた。一番低いのは佐々木の鞄から出す前にくしゃくしゃに丸めたやつ。三十点」
遠くで佐々木が「聞こえてるぞ!」と叫んだ。時任は「聞こえるように言ったの!」と叫び返した。怒っているのか楽しんでいるのか分からないが、たぶん後者だ。
澄は紙面に目を落として、それから僕の顔を見た。
「ねえ、針谷くんっていつも窓の外見てるよね。何見てるの?」
「見てない」
否定が早すぎた。言ってから気づいた。
「見てるよ。朝も休み時間も。何か数えてる顔」
「数えてない」
「数えてる顔だった。口がちょっと動いてたもん。いち、に、って」
動いていたのか。口が。知らなかった。恥ずかしさが、あとから追いついてきた。
「何を数えてるの?」
「……雲」
「雲! 何個?」
「今日は、七つ」
とんでもなく気味の悪いやつ。なんで俺言ったんだ?
適当に流せばよかったものを…
「えー、私は八つ数えたよ。さっき窓見て」
なんか話し合わせてきていい人だぁ。
「勝負じゃないです」
「勝負じゃないけど負けず嫌いなの、私」
意味が分からん。意味は分からないのに、時任はアンケートを胸に抱え直して、満足そうに頷いた。それから急に真顔になって、窓の方に身を乗り出した。
なんか忙しないな。
「ちなみに、端っこの薄いやつは入れた?」
「どれのこと言ってるんですか」
「入れようよ! あれ!あれは雲だよ。薄いだけで雲だよ」
「だから…ちょっ!」
近い近い!いきなりほっぺが触れ合う距離感に近づいてきた。
距離感バグってるんじゃないか?ここまで近いともう逆に近すぎて離れ欲しいまである。
心臓が高鳴るのがわかる。
「ほらあれだって。見える?」
すると時任は俺の視界からどの雲かわかるように指を刺してくれた。
そうですよね…ほんと忙しないぞコイツ。
「薄いと、雲かどうか分かりません」
「雲だって言ってるもん、本人が」
「本人って、人じゃないだろ」
「あ!タメ口なった!」
やりぃ!と喜んでいる。
たかがタメ口でそんなに喜ぶことか?常に時計屋で働いている俺にとってはじゃあ大喜びだ。
雲が何か言った覚えはないが、時任の中では言ったことになっているらしい。澄は一人で納得して、「じゃあ八つ! 引き分け!」と勝手に決着をつけて、次の席に行ってしまった。次の席の男子には「まだだよね? 知ってる、まだなのは知ってる。で?」と圧をかけている。圧のかけ方まで元気でめちゃ怖かった。
なんとか落ち着くと、久しぶりに人と話したためか、顔全体が少し熱を帯びているのを感じた。
外を見て、雲を数え直した。端の薄いのを入れて八つ。引き分けにされたので、勝ちでも負けでもない。けどこの心地よさを俺は考えない方がいい気がする。
口が動いていたかどうかは、次の休み時間に窓ガラスで確かめることにしよう。
弁当は自分で作っている。妹の分と合わせて二つ。妹の弁当箱は、朝のうちにテーブルの上に置いて出てくるのが日課だ。夜に流しに空の箱があれば、食べたということだ。会話がないのが兄として辛いところではあるものの今のところ、空になっていない日はなかった。それだけが、俺と妹をつなぐ連絡手段みたいなもので、そのことを考えると、卵焼きの味がちょっとだけ遠くなる。
今日の卵焼きはいつもより甘い方味付けにした。朝の会話のせいではない、たぶん。
放課後、帰り支度をして廊下に出て、中央階段を降りる。十二段。踊り場に差しかかると踊り場に、時任澄がいた。
手帳を開いて、ペンを持って、大時計の前に立っている。足元に小さな巻き尺が転がっている。背伸びをして、時計の上の方に巻き尺の先を当てようとしているが、届かない。ちょっと跳ねた。跳ねた拍子に、手帳を落とした。拾って、また跳ねた。
危なっかしいな。
「あと、ちょっと」
小声で言っている。あとちょっとは、たぶん二十センチくらい足りない。跳ねるたびに言うので、あとちょっと、あとちょっと、と呪文みたいに聞こえてくる。
全然ちょっとの範囲を超えているような気がしない子ともないけど、妙に真剣で、なんというか、可愛かった。
いや、違う。可愛かった、は違う。いや、違わないが、今は違う。違うことにしよう。
通り過ぎよう。助ける理由もギリもないし、ましてや会話なんてできない。そう思って足を出したら、十二段目が鳴った。いつも少しだけ音が鳴りやすい段なのを忘れていた。
「あ」
時任が振り向いた。その拍子に巻き尺が手から離れて、シュルルと音を立てて戻って、澄が「わっ」と言ってのけぞった。
「針谷くんだ」
「……はい」
「見てた?」
「見てないです」
「見てた顔だ」
「顔の話、さっきもしました」
「したね。針谷くんの顔結構しゃべるよ」
顔までしゃべるのか。黙っているつもりだったのに、全然黙れていないらしい。
「これ、何してるんですか」
聞いてから後悔した。聞く必要はなかった。でも聞いてしまったものは仕方がない。
「生徒会の仕事。時計の大きさ先に測っておいてって先生に頼まれたの」
「そうですか」
「そうなの。でもね、てっぺんに届かないの。私、百五十八センチしかなくて」
「そうですか」
「針谷くん、何センチ?」
「百七十四」
「十六センチ違う! ずるい!」
「何がずるいんですか」
「十六センチ分人生でお得してる」
人生で得をした覚えはあまりない。でもそう言われると背が高くて悪いことはなかった気がしてくる。不思議だ。
「ね、お願い。巻き尺の端持っててくれない? 上まで」
断る理由を探した。見つからなかった。僕は巻き尺の端を受け取って、背伸びをして時計の上の縁に向けて伸ばした。時計には触らない。縁から五センチくらい離して持つ。
「触っていいんだよ? 壊れたりしないよ?」
「触らなくても、測れます」
「器用だね」
器用なのとは、ちょっと違う。でも説明はしない。
「えーと、二百八センチ。針谷くんより三十六センチ上」
時任は手帳に数字を書き込んで、ペンの先でページを二回叩いた。書いたら二回叩くのが癖らしい。
「助かった。ありがと! 協力者、針谷くん」
「協力はしてないです」
「したよ。三分くらい」
「三分は協力ですか」
「三分は協力です。私が決めた」
手帳の端が見えた。僕はそれを、見なかったことにした。見なかったことにしたのに、顔がしゃべっていないかが心配になった。
「じゃあね! また明日!」
時任は階段を駆け下りて、急に立ち止まった。背筋がすっと伸びて肩の力が抜けて、歩き方が生徒会の人の歩き方に変わった。踊り場の壁に走らないの貼り紙があるのを思い出したらしい。ゆっくり、ゆっくり、階段を降りていく。背中がまだ少し笑っている。
踊り場に僕と大時計が残った。
三時四十分で止まったままの針を、僕は今日初めて少しだけ見上げた。時任が測った二百八センチの上の方で短針と長針が同じ方向に重なっている。
見たことをすぐに後悔した。後悔して階段を降りた。
さっき降りた澄の足音を思い出して、一人で勝手に気まずくなって、数えるのを忘れた。
何段あったのか分からない。最初から数え直した。




