第1話 針谷時計店の朝
目覚まし時計は持っていない。
持っていなくても、毎朝六時半には目が覚める。階下から音が上がってくるからだ。
針谷時計店の壁には、十七個の時計がかかっている。振り子の揺れる音、歯車の噛み合う音、細い秒針の刻む音。どれも少しずつ違う速さで、少しずつ違う時刻を指したまま、同じ階段を上ってくる。
祖父は、揃えるのが嫌いな人だ。時計は一つ一つ顔が違うのだから、一つ一つ違う時刻でいい。
それが祖父の口癖だ。正確なのは、入口の脇に掛けた電波時計だけで、それも、客が時間を聞いたときに困らないようにと、祖父が渋々掛けたものだ。
布団から出て、顔を洗って、制服に着替える。十月の朝は、もう窓の外が白い。
台所で、トーストと卵を二人分作る。一人分はテーブルに置いて、ラップをかける。二階で、妹はまだ寝ている。自分の分を食べながら、ラジオの時報を聞く。ピッ、ピッ、ピッ、ポーン。七時ちょうど。
電波時計は合っている。壁の時計は、一つも合っていない。
食器を洗ってから、店に降りる。
シャッターを上げると、朝の光が床の上に細く伸びて、ガラスケースの中の腕時計が、一斉にこちらを向いたように光った。
埃が舞う。舞った埃が、光の中をゆっくり落ちていく。
店に出たら、まず掃除をする。ハタキ、箒、それから雑巾。ガラスケースを拭いて、置時計の文字盤を拭いて、床を掃く。
誰に頼まれたわけでもないが、やめたことはない。やめる理由がなかった。
壁の時計にも、順番にハタキをかける。
鳩時計は、扉が半開きのまま三年になる。振り子時計は、毎日きっかり二分遅れる。柱時計は、鳴る前に、咳払いのような音を立てる。
祖父はそれぞれに名前をつけていたが、僕は一つも覚えていない。
そのうちのいくつかは、もう動いていない。僕はそれを数えないようにしている。
最後に、店の奥にある作業机を拭く。
作業机の上には、布がかかっている。灰色の、厚手の布だ。その下に何があるかは知っている。ルーペ、ピンセット、ネジ回し、小さな万力。祖父が置いたとおりの並びで、一つも動いていない。
僕は、布の上と、机の縁と、椅子の背だけを拭く。布はめくらない。
触れない、というのとは少し違う。触れようと思えば触れる。ただ、触れたときに自分が何を感じるのか、分からない。分からないものに、手を伸ばす理由もない。
昔は、この机の前に座る時間が、俺は一日で一番好きだった。
そのことを思い出すのは、決まって、布を拭いているときだ。思い出すだけで、それ以上のことは起きない。僕は雑巾を絞って、流しの縁にかける。
七時四十分。そろそろ、来る頃だ。
「ごめんください。蒼くん、おはよう」
入口の鈴が鳴って、散歩帰りの永井さんが顔を出した。近所に住む、七十過ぎのおばあさんだ。小さな紙袋を、両手で抱えている。
「おはようございます」
「朝からごめんなさいね。これ、昨日の夜に止まっちゃって」
紙袋から出てきたのは、細い金属ベルトの腕時計だった。文字盤が少し黄ばんでいる。若いころから使っている、と前に聞いたことがある。
「電池じゃないかしらと思うんだけど」
僕は時計を受け取らずに、カウンターの引き出しから、小さな紙を出した。
「すみません。今、修理を受けていません。駅前の時計屋さんなら、電池交換をしています。地図を書きます」
「あら」
永井さんは、紙に書く僕の手元を、じっと見ていた。
「まだ修理は受けてないの?」
「はい」
「おじいちゃん、まだ具合は悪いの」
ペンが一瞬止まった。止めたつもりはなかったが、止まった。
「……はい」
「そう。無理しないでね。あんたも、まだ高校生なんだから」
「大丈夫です」
大丈夫です、は便利な言葉だ。何がどう大丈夫なのか、誰も確かめない。
だからこそまるで拒絶しているようにも感じてしまう。
まるでそこにいて欲しくないような、そんな酷い言葉。
紙を渡すと、永井さんは両手で受け取って、何度か頷いた。それから、時計を紙袋にしまいながら、「遅れないようにね」と言って店を出ていった。扉の鈴が鳴る。
断るのは、上手くなった。以前は断るたびに喉の奥が重くなった。だが今はならない。ならなくなったことが、良いことなのかどうかは考えないことにしている。
八時前に、二階に向かって「行ってきます」と声をかける。もちろん妹からの返事はない。俺はそのまま店を出た。
妹とは久しく面と向かって話していない。単に彼女が俺を嫌っているだけなら構わないのだが、そういうわけにも行かないのだ。ほんと恋という奴は難しいし、俺にはまだ理解できない。
シャッターを半分だけ下ろして、鍵をかけ、準備中の札を下げる。札の裏は営業中だが、最後にひっくり返したのがいつだったか思い出せない。
通学路の坂道は、朝の光で白く乾いていた。道の脇のフェンスに、金木犀の香りが引っかかっている。
秋の空気は心地よい。香りもそうだが何よりこの少し肌を指す冷たさ。このどことなく感傷に浸れるくらいの要素が散りばめられているのがとても好きだ。
街のどこかの家から、トーストの匂いがする。みんな、同じ朝を、同じ時刻に過ごしている。壁の十七個の時計よりも、ずっときちんと揃って。
坂を上がりきると、校舎の白い壁が見えてきた。窓ガラスが朝日を跳ね返して思わず目を顰めてしまう。
この景色も随分と見たが、いつだって見入ってしまう。
校舎に入って最初に通る廊下が僕は少し苦手だ。理由は言わない。なぜなら言う相手もいないからだ。
別に友達が欲しい訳ではない。せめて日常会話ができるくらいの知人は欲しいが。
昇降口に入ると、靴箱の向こうから、元気な声が飛んできた。
「おはよう! 昨日のノート、ありがとうね! 助かった!」
「どういたしまして。時任さん、朝から元気だね」
「元気じゃないと何にも始まんないしね」
笑い声が、昇降口の天井に跳ねた。同じクラスの時任澄が、誰かと話している。いつもの朝の光景だ。
僕は、その横を、音を立てないように通り抜けて、靴を履き替えた。上履きの底が、床で小さく鳴った。
誰も、こちらを見なかった。それでいい。




