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第4話 遅れたら泣く

朝いちばんに机の上のピンクの付箋が目に入った。

丸い字で「放課後 生徒会室 十六時ちょうど 遅れたら泣く」と書いてあって貼った本人は教室の真ん中で友達と何かの動画を見て声を出して笑っている。

僕は付箋を剥がすのに三秒かけて剥がしてから貼り直したくなって貼り直さなかった。

遅れたら泣くってなんだ。泣かれるのと呼び出されるのとどっちが重いのか考えても分からなかったので教科書の間に挟んだ。

今朝の味噌汁は豆腐とわかめで揚げは切らしていた。関係ない。靴下は左右揃っている。これも関係ない。

授業は全部耳を素通りして問三も問四も解けたのにどうやって解いたのか覚えていない。

昼は屋上前の出っ張りで弁当を食べて卵焼きは普通の味のままで妹の分も同じで空の箱が流しにあるかどうかは帰ってからの楽しみにしておく。生徒会室は三階の端で行ったことがない。行ったことのない場所に行く日は朝から胃の位置が少し高い。

三階への階段は十四段で二階までより二段多い。どうでもいい。

十五時五十一分に着いてしまった。早すぎる。早すぎても遅すぎても人間としての評価が落ちる気がして廊下を端から端まで歩いて戻ってきて、ノックした。

ノックの音が思ったより大きくて自分で驚いたのは今はどうでも良い。

「どうぞ」

低い声が聞こえる。

教室の声とも体育館の声とも違っていて声が三種類あるのか。

生徒会室は思ったより狭くて長机がコの字に並んでいて奥の窓際に時任が座っている。壁の時計は秒針がぴったり動いていて見るだけで姿勢が正される時計だった。ホワイトボードには赤で四角く囲んだ「大時計撤去まで あと四十五日」の文字があって昨日は四十六日だったのでちゃんと一日減っている。

「針谷蒼さん、十五時五十九分。一分前許容範囲です。おかけください」

椅子に座ると机の向こうから圧を感じる。

体育館のときは点で刺さってきたのに向かい合って座ると面で来る。

逃げ場がない。

昨日ココアで悲しくなると叫んでいた人と同じ人だと思うと頭の処理が追いつかなくて僕は膝の上でペンを持っていないけど、持つ真似をした。

「本日お呼びしたのは大時計の件です。撤去の準備のため備品台帳と保守記録を確認しました。該当ページは三枚です」

ずいぶん素っ気ない。

時任は透明なファイルから紙を三枚出して長机の上に並べた。コピーの端が少し黒くなっていて古い台帳の写しだとすぐ分かる。

一枚目は設置の記録で製作者の欄には「針谷」と名字だけが書いてあって下の名前はかすれて読めない。二枚目と三枚目は保守の記録で毎年同じ筆跡の点検の日付が並んでいて最後の一行だけ何年も前で止まっている。

点検者の欄は全部同じで「針谷時計店」。

読み終わる前に顔が熱くなって逃げ場を探して視線が窓の外に行った。雲は今日は少なくて数えるまでもなく五つだった。また数えてしまっている。

「商店街の針谷時計店は 針谷くんのご実家ですか」

「はい」

その瞬間に時任の背中の線が変わった。丁寧語の鎧がぱかっと開いて中から教室の人が出てきた。

「えっ! やっぱり!? ほんとに!? なんで言ってくれなかったの!?」

机に両手をついて身を乗り出された。近い。僕は椅子ごと十センチ下がった。

「聞かれなかったので」

「あっ……そっか! 聞かなかった私が悪い! ごめんね!」

謝るのが早い。しかも本気で謝っているのが分かるから質が悪い。

それから時任は急に真顔になって座り直した。

「でも聞いたら教えてくれた?」

「まぁ…たぶん?」

嘘ではないけど本当でもない答えだった。たぶんの二文字にいろいろ詰めておくのは僕の特技として言っても良いくらいだ。

「そっか!じゃあ今度から聞く!あっお茶入れるね!今日はちゃんとあったかいの!」

忙しなく時任は壁際の電気ポットに走って行って粉の缶を取り出し湯呑みを二つ並べた。

粉をスプーンで量る手つきが妙に正確でスプーン山盛り二杯をきっちり擦り切っている。数字の人は粉まで数字だ。僕にとってはさぞかし生きづらい世界に見える。

「ココア!今日は間違えてない私が淹れたから間違えようがないけど」

「昨日のは」

「あれは指が勝手に」

湯呑みを受け取るとちゃんとあったかかい。両手で包むとじんわり指の先まで来て今日初めて肩の力が抜けた。缶のココアよりずっと甘くて少し粉っぽくてそれが悪くなかった。

「えっとね、本題なんだけどさぁ〜」

時任はココアを一口飲んで湯呑みを置いて背筋を伸ばした。声がまた一段下がる。切り替えが速い。

もはやふざけて見えるくらいにメリハリがある。

「大時計の撤去は決まっています。理由は予算の執行と安全面、見積もりは来週 業者の日程は十二月まで埋まっていて修理は無理です」

無理という言葉が静かな部屋の真ん中に置かれて僕はそれを見ていた。置かれた言葉は動かなくてしばらく机の上にあって湯気が一筋その横を通った。

「ただ私は直るなら直したいの……だから針谷くんに聞きたくて」

「はい」

「時計屋さんから見てあの大時計はまだ直る?」

胃の位置がもう一段上がった。ココアの湯気の向こうで時任が僕を見ている。目をそらさない人だ。そらせない人でもあるのかもしれない。

「そうで──」

そうですかと言いかけて口が止まった。昨日禁止されたばかりだ。壁ができる言葉だ。

「……へえ」

「へえ?」

「いえ そのへえです」

「それは今の質問の答えじゃないよ!」

「すみません」

「でも花丸」

「なんで」

「禁止を覚えててくれたから!」

また花丸をもらってしまった。

結局質問には答えていなくて時任もそれに気づいているはずなのに追ってこなかった。そのかわりに別のところを突いてきた。

「針谷くんってさ学校で誰かと喋ってるの見たことないよね」

息が止まった。

「友達とかいないの?」

失礼な。

「俺が?結構失礼なこと言うな」

言ってから口を押さえた。俺。今俺って言った。

「俺って言った!」

「言ってません」

「言った!今の聞いた!針谷くん俺って言うんだぁ」

「言ってません」

「それに意外と可愛いじゃん」

「可愛くないです」

「照れてたもん耳赤かった!」

「赤くないです時任さんこそ唸り方が子犬みたい」

「子犬!?」

「言ってません」

「お互い失礼だねこれでおあいこ」

「お互い様です」

時任は目を丸くしてから声を出して笑った。笑い方が教室と同じで生徒会室の空気が少し緩んだ。言い返してしまった。

心臓の位置がおかしい。子犬は絶対に言わないと決めていたのに。

「あっそうださっきの友達の話言い方悪かった」

時任は急に手帳を閉じて両手を膝の上で揃えた。丸い字を書く手が止まっている。

「友達がいないって決めつけたのは私の正直すぎるところ。今のは違うごめん」

いやそんなに真面目に謝られても…

多分彼女にとって冗談の一環みたいな感じなんだろう。

違うって何がと聞きたかったけど聞けなかった。聞いたら会話になる。

謝られたことより謝り方が真っ直ぐなことのほうが効いた。

僕は湯呑みを持ったまま「いえ」と言った。

「いえ」の後に続く言葉がなくて「いえ」だけが部屋に残った。

「じゃあ撤去のことは置いといて」

時任は壁の時計を見た。

「あと二十秒で十六時二十分です。面談時間は二十分、最後に一つだけ」

ほんとに時間を守る人だ。秒まで数えている。残りの二十秒で何を言われるのか考える間もなく言われた。

「今度の日曜十時ちょうどお店に行っていい?お客さんとしてさ」

「うちは今」

修理を受けていません。そう言いかけて止まった。

「日曜は定休日です」

「定休日かぁ。じゃあ友達としては?壁の時計とか見たいし」

壁の時計。祖父の店の壁にはいくつも時計があって揃わない時刻のまま並んでいるしいくつかは止まっている。人に見せるものじゃない。

「見て面白いものでは」

「面白いかは私が決める」

決められてしまった。

「十六時二十分ちょうど以上!お疲れさまでした!」

時任は立ち上がって敬礼みたいなことをした。僕は湯呑みを置いて頭を下げて廊下に出た。ドアを閉めて三歩歩いたところで向こうから声が聞こえた。

「やっちゃったあああ、友達いないの?なんか言っちゃった…」

ドスンと椅子に座り込む音。それから小さい声で「明日どんな顔して会えばいいの」と続いた。聞こえていないことにして僕は階段に向かった。聞こえていない。何も聞いていない。耳が勝手に拾っただけだ。

階段を降りながら日曜までにやることを数えた。店の床を掃く。ガラスを拭く。作業机の布はどうする。布はそのままでいいのか。妹に昼ごはんを置いておく。祖父の壁の時計のうち止まっているやつを数えない。数えない。数えないと決めた時点でもう数えている。

三階からの階段は帰りも十四段だった。数えたのは二回目だから確実だ。

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