第九話 言葉のあと
「ありがとう」
俺が感謝を伝えたはずなのに、夜凪から返ってきたのも、感謝の言葉だった。
「え?」
思わず聞き返す。
返ってきた言葉も、短いものだった。
「話してくれて」
でも、その一言が胸に残った。
話した。確かに俺は話した。
今まで誰にも言えなかった事を。
辛かったと、苦しかったと、地元を離れる事でしか自分を守れなかったと、自分の事を情けないと——。
言葉にしてしまえば、どれも大した事の無いように思える。
世の中、俺より辛い思いをしている人なんていくらでもいる。そんな事はわかっている。
だからこそ、誰かに話そうとも思っていなかった。
話したところでなんになる。
そう思っていた。
何かが変わるわけじゃない。だから黙っていた。
なのに、俺は今日、夜凪にそれを話した。
言葉はつまり、声は震え、涙まで出た。
ずいぶんと聞き取りづらかったろうと思う。
そんな俺の話を、夜凪は最後まで遮らなかった。
ただ、聞いてくれていた。
「私も……」
夜凪が、何かを言いかける。
俺も何も言わずに待った。
俺の話を聞いてくれたのだから、夜凪が何かを話してくれるのなら、それを聞きたいと思った。
けれど。
夜凪は黙ったまま、続きを話すことはしなかった。
しばらくして、俺が少しずつ落ち着いてきた事に気づいたのだろう。
「そう言えば」
その言葉を繋ぎに、夜凪は日用品は何を買うのかを訊ねてきた。
俺も、その意思をなんとなく察した。
夜凪から話題を変えてきたのだ。
なら、俺からは言い淀んでいた事について触れない方が良い。そう思った。
「ハンガーとか洗剤とか、あ、あとはカラーボックスなんかも見たいですね」
「それならオススメしたホームセンターで大丈夫そうですね」
夜凪の声音におかしな様子は感じない。
俺ばかり話を聞いて貰って申し訳なさも感じるが、これ以上通話に付き合わせるのも違う気がした。
取り留めもない話を少しだけしたあと、時計を見る。
これ以上遅くなれば、それこそ迷惑になる。
そう思って、俺から声をかける。
「もう、こんな時間ですね」
「そう、ですね」
夜凪も時間を確認したのだろう。
「もう、こんな時間」
少しだけ笑ったような声だった。
「あの……。」
迷惑をかけたと謝ろうとした。
けれど、そこで言葉が止まった。
すみません。
今日はすみませんでした。
そんな言葉を口にするのは簡単だった。
でも、なんとなく違う気がした。
泣いてしまった事を謝るのも、話を聞かせてしまった事を謝るのも。
夜凪がしてくれた事に対して、ただ「すみません」で終わらせるのは不誠実な気がした。
だから、別の言葉を選んだ。
「今日は……ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
通話への感謝を伝えた後、互いにこの言葉で締めくくった。
「おやすみなさい、夜凪さん」
「おやすみなさい、余白さん」
通話が切れる。
スマホの画面に、通話終了の表示が残った。
俺はしばらくその画面を眺めていた。
泣いた。
情けないところを見せた。
別に夜凪に対してカッコつける必要はないが、見せる必要もなかった。
嫌われはしなかったと思う。
人の心など、わからないが……。
むしろ、話してくれてありがとうと言ってくれた。
そのことが……不思議だった……。
——そこまで思い出して俺はようやく、今ホームセンターの中に居ることを思い出した。
ずいぶん長い事立ち止まっていたみたいだ。
俺は小さく息を吐き、買い物の続きを始めた。
買い物を終え帰宅すると、部屋には朝と変わらない静けさが残っていた。
買ってきた物を袋から取り出し、必要な場所に片付けていく。
新しく買った物が増えただけで、部屋の景色がほんの少し変わったように見えた。
それでも、段ボールは残っている。生活は始まったばかりだ。
ふと、食器棚に目が向く。
その奥には、引越してきた初日に仕舞った湯飲みがある。
まだ使っていない。
新しい物を買おうかとも思った。
「湯飲み、新しくしても良かったかもな」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。
スマホには、今日までの夜凪とのやりとりが残っている。
最初は、文字だけだった。
顔も知らない。
声も知らない。
ただ、画面の向こうにいる誰かと、少しずつ会話を交わしていた。
それが昨日、初めて声を聞いた。
その声に向かって自分でも忘れようとしていた事まで話した。
辛いと、苦しいと、それを誰かに話す日が来るなんて思いもしなかった。
俺はこの街の事をほとんど知らない。
でも、夜凪がこの街にいる。
同じ街の中で、同じ夜を過ごしている。
そう思うだけで、少し不思議な気持ちになった。
けれど、知っているのはそれくらいだ。
どんな場所で暮らしているのか。
普段、どんな暮らしをしているのか。
なにを考えているのか。
あの時話しかけた「私も……」の続きも。
俺は何も知らない。
でも、今知る必要はない。
多分、少しずつでいい。
昨日、夜凪がくれた言葉のように。
踏み込み過ぎず、離れすぎず。
このくらいの距離でいい。
窓の外を見る。
知らない街の夜。
この中のどこかに、夜凪もいる。
それが、不思議と1人きりでなはないと思わせてくれた。
俺は再びスマホに目を落とす。
スマホの画面をもう一度スクロールする。
二人の最初のやりとりまで戻っていく。
まだ何も始まっていなかった頃の言葉を、俺はゆっくり読み返した。




