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閉じた本の、その先に  作者: 日木西 暁


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第十話 あの日

 

 二年前。

 俺は、すでに結婚していた。

 今とは違う部屋で、今とは違う生活をしていた。

 その日、妻は友人と旅行に出かけていた。

 何日か前から楽しみにしていた旅行だったらしく、朝から荷物をまとめ、昼過ぎには家を出ていった。


「ちゃんとご飯食べてね」

 玄関でそう言われたのを覚えている。

「そっちこそ、楽しんでこいよ」

 そんな、どこにでもあるような言葉を返した。


 妻が出て行った後、家の中は急に静かになった。

 普段なら気にも留めない静けさだった。

 けれど、その日は妙に広く感じた。

 テレビをつけるほどでもない。

 外へ出るほどでもない。

 せっかく一人なのだから、何か好きなことでもして過ごそう。

 そう思って、俺はいつもの場所に座った。


 机の上には、一つの湯飲み。

 新婚旅行で立ち寄った場所で見つけたものだった。

 特別高価なものではない。

 けれど、店先で見つけた時、なぜか気に入った。

 妻も、

「それ、悠希くん好きそうだね」

 と聞いてきた。

「うん、なんとなく」

 そう答えた気がする。

「色も落ち着いてて、毎日使っても飽きなさそうだね」

 その言葉にも後押しされたが、ほぼ一目惚れだ。

 俺は他の湯飲みに目移りする事なく財布を取り出していた。


 その湯飲みにお茶を注ぐ。

 湯気がゆっくりと立ち上っていく。

 一口飲む。

 いつものお茶だった。

 それでも、その湯飲みを使うだけで、旅行の時の景色が少しだけ蘇る。

 そんなことを思いながら、パソコンを立ち上げた。


 暇を潰すなら、あのゲームサイトでいい。

 登録している人数は、そこまで多くない。

 けれど、遊べるゲームの種類は妙に多かった。

 MMORPG、麻雀、カードゲーム、対戦型格闘ゲーム、パズルゲームまであった。

 暇潰しには困らない。


 その日は、対戦型格闘ゲームを選んだ。

 最初の数戦くらいは、まあ勝ったり負けたり、普通だった。


 ところが。

 負けた。

 また負けた。

 そして、負けた。

「……なんでだよ」

 画面を睨む。

 もう一戦。

 負ける。

 もう一戦。

 やっぱり負ける。

 さすがに嫌になって、コントローラーを置いた。


「今日は駄目だな」

 誰もいない部屋で呟く。

 なんだか別のゲームをやる気もなくなった。

 その時、ふと画面の端にある機能が目に入った。

 サイトの利用者たちが書き込める、テキスト型のSNS。

 普段はほとんど見ていなかった。

 けれど、その日は何となく気になった。

 ゲームをする気分でもない、かといって、他にやることもない。


「どんなこと書いてるんだろ」

 強い興味があったわけじゃない。

 一回くらい見ておくか。

 その程度だった。


 ニュース、トレンド、グルメ、スポーツ、アニメ、ビジネス、日常の出来事。

 思っていたよりも、いろいろな投稿が流れていた。

 同じサイトを使っている人間が、ゲームとは関係のないことまで好き勝手に呟いている。

 誰かが食べたラーメンの写真。

 誰かが見た映画の感想。

 仕事の愚痴。

 応援しているスポーツチームの話。

 ペットの話。

 本当に、何でもあった。

 その中に、さっきまで自分が遊んでいた対戦型格闘ゲームの投稿もいくつか見つかった。

 攻略法。

 キャラクターの性能についての批評。

 新しく追加された技についての考察。

 推しキャラについて熱く語る人。

 それぞれが好き勝手なことを書いている。

 その投稿を何となく眺めていた時だった。

 一つの投稿が目に留まった。


『このゲーム、私には難しすぎて全然勝てません』


 思わず笑った。

「分かる分かる」

 さっきまで自分も負けっぱなしだった。

 むしろ、自分の方が酷いかもしれない。

 その短い文章に、妙な親近感を覚えた。

 なんとなく、その投稿主のプロフィールを開く。

 名前は――夜凪。


 それが、最初に見た夜凪だった。

 プロフィールには、短い言葉が書かれていた。

『想いを綴る』

 その下には、何かのリンクが貼られている。

「なんだ、これ」

 なんのサイトだろうか、リンク先が気になった。

 けれど、その前に夜凪の投稿をもう少し見てみる。


 軽くスクロールしていく。

 さっきのゲームの話。

 日常の話。

 食べ物の話。

 そして、酒の話。

 どうやら、かなりの酒好きらしい。

 特に日本酒についての投稿が多かった。

 銘柄の名前。

 飲んだ感想。

 どこかの店で見つけた酒。

 写真付きで紹介しているものまである。

 俺は酒が嫌いなわけではない。

 飲めと言われれば飲むし、仕事終わりに一杯やることもある。

 けれど、日本酒に詳しいわけでもなかった。

 実際飲み比べても、辛さの違い程度しかわからない。


「へえ……」

 それでも、知らない人間の知らない趣味を眺めるのは、思ったより悪くなかった。

 妻が旅行に出ている。

 一人で家にいる。

 やることはない。

 そんな時間を埋めるには、ちょうどよかった。

 もう少しだけ見てみよう。

 そう思って画面をスクロールする。

 すると、さっきのプロフィール欄にあったリンクがもう一度出てきた。


「あ」

 忘れていた。

『想いを綴る』

 その言葉の下に貼られていたリンク。


 一体、何があるのだろう。

 日記なのか。

 それとも、何か別のサービスなのか。

 カーソルをリンクの上へ移動させる。

 クリックする直前になって、少しだけ手が止まった。

「……変なサイトじゃないだろうな」

 ネットには、知らない人間をどこへ誘導するか分からないものもある。

 変な広告が大量に出てきたら面倒だ。


 何かに登録させられるようなサイトだったら、すぐ閉じればいい。

 そう思いながら、もう一度リンクを見る。

 別に、そこまで警戒する必要もない。

 ただの暇潰しだ。

 妻もいない。

 今日は時間ならいくらでもある。

「まあ、いいか」

 クリックする。

 画面が切り替わる。



 その時の俺は、まだ何も知らなかった。

 画面の向こうにいる相手が、後になって自分にとってどんな存在になるのか。

 もちろん、そんなことを考えるはずもない。

 その時の俺にとって、夜凪は、ゲームで自分と同じように負けていた、名前も顔も知らないどこかの誰かだった。

 机の上には、お茶の入った新婚旅行で買った湯飲み。

 窓の外には、まだ明るい空。

 妻のいない休日を埋めるために、何となく開いた画面。

 それだけだった。

 少なくとも、その時の俺はそう思っていた。

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