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閉じた本の、その先に  作者: 日木西 暁


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第八話 知らないこと

 

 目覚ましが鳴る前に目が覚める。

 休日の朝だというのに、少し損をした気分だ。

 いや、ここ数ヶ月ずっとこうなのだ、今更か。


 時計を見る、午前6時前。 

 ベッドの上で天井を眺めながら、今日買う物を脳内でリストアップする。

 洗剤、ハンガー、タオル、掃除用品。

 引っ越してきた時は、とりあえず三日間乗り切るだけの日用品を荷物から取り出した。

 生活を始めることを優先していたからだ。

 だから今も、段ボールの中に入ったままの物が少なくない。

 もう一度段ボールの中身を確認しておいたほうが良さそうだ。


 ベッドから起き、部屋を見回す。

 まだこの部屋は、自分の部屋というより仮住まいのようだった。

 昨日まで気にならなかったはずなのに、不思議と今日は片付けようという気持ちになっている。

「今日も寒くなりそうだな」

 誰に言うでもなく呟く。

 その声だけが部屋に残った。


 簡単に朝食を済ませる。

 食パンを焼き、インスタントコーヒーを淹れる。

 味は特別でも何でもない。

 それでも、こういう時間が少しずつ日常になっていくのだろう。

 俺はこの部屋に来て初めて、テレビの電源を入れた。

 見慣れないニュース番組にご当地タレント。

 番組名が気になってスマホで意味を調べてみる。この地方の方言だろうか?

 どうも海外の言葉が番組名の由来らしい。


 朝食を食べ終え、時間を確認するが、ホームセンターの開店時間まではまだかなり時間がある。

 段ボールの開封作業を進めてしまおうかと思うものの、どうにも億劫に感じてしまう。

 正直に言えば、朝は身体が重かった。

 動悸がする。頭が痛く、重い。立ち上がると目眩がする事もある。

 明らかにここ数ヶ月の睡眠不足が祟っているのだろう。

 眠りについてから一時間半もすれば目を覚ます。もう一度寝たとしても、また一時間半。

 これだけ辛いのだ。いわゆるショートスリーパー等ではないのだろう。

 こんな状態で荷物をまとめ、越して来たのだ。まとめたつもりで、抜けがあってもおかしくはない。

 最低限、確認だけはしておかねば。

 だが、比較的昨日までより動きやすいのはなぜだろう?


 段ボールの中身を確認し、朝食の片付けをし、シャワーを浴び終えた頃にはもう昼前だった。


 玄関の鍵を閉め、休日の街へ出る。

 平日とは人の流れが違う。

 親子連れ。買い物帰りらしい夫婦。自転車で走り抜ける学生。

 誰も急いでいない。

 そんな空気が街全体に流れていた。

 駅前まで歩く。

 昨日、夜凪が教えてくれたホームセンターは駅の反対側で、ここから徒歩三十分程のところだ。


「あそこなら大体揃うと思う」

 昨夜、電話越しに聞いた声を思い出す。

 文字じゃない。

 ちゃんと、人の声だった。

 少しだけ笑う。

 あの通話を思い返すだけで、肩の力が抜ける。

 ホームセンターの看板が見えてきた。

 思っていたより大きい。

 駐車場には車が並び、家族連れが次々と店へ入っていく。


 広い店内。

 天井まで積み上げられた商品棚。

 木材。

 工具。

 園芸用品。

 ペット用品。

 日用品。

 生活に必要な物なら、本当に何でもありそうだった。

「すごいな……」

 思わず声が漏れる。

 まず何から見ればいいのか分からない。

 案内板を見上げる。

 日用品は奥らしい。


 歩き始めようとした時だった。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 取り出して画面を見る。見慣れた、昨日初めて声を聞いた相手。

『お買い物できた?』

 自然と口元が緩む。

 その名前を見るだけで、不思議と安心する。

『今来たとこ。』

 少し考えてから続ける。

『ゆっくり回ってみるよ。』

 送信する。

 数秒もしないうちに既読が付いた。

 返事はまだ来ない。

 それでも、不思議と画面を閉じることができなかった。

 昨夜。

 初めて聞いた夜凪の声。


 少し照れくさそうに、俺のハンドルネームを呼ぶ声。

 現実では誰も知らない名前。

 夜凪だけが知っている名前。

 それだけのことなのに、少しだけ特別に思えた。


 画面を閉じる。

 日用品売り場へ向かう。

 洗剤が並ぶ棚の前で立ち止まる。


 種類が多すぎる。

 詰め替え用。

 部屋干し用。

 抗菌。

 消臭。

 どれを選べばいいのか分からない。

 前なら、こんな時は元妻が決めていた。

 自分は隣でカートを押していただけだった。

 その記憶が、ふと頭をよぎる。

 すぐに首を振った。

 もう違う。

 これからは、自分で選ぶ。

 少し迷って、一番よく見かけるメーカーの商品を手に取る。

 理由なんて、それで十分だった。


 洗剤の隣には柔軟剤が並んでいた。

 青いボトル。

 白いボトル。

 花の絵が描かれたもの。

 聞いたことのない名前ばかりだ。

「……分からないな」

 思わず苦笑する。

 一人で暮らすようになって初めて気付くことは多い。

 今まで自分が知らなかっただけなのだ。

 誰かがやってくれていた。

 それだけのことだった。


 カゴの中を見る。

 洗剤、柔軟剤、スポンジ、ゴミ袋。

 まだまだカゴの容量には余裕がある。

 先へ進む。

 ハンガーを手に取る。

 プラスチック製。

 ステンレス製。

 滑り止め付き。

 一本百円程度のものなのに、種類だけはやけに多い。

 また、スマートフォンが震える。


『迷ってる?』


 一瞬、辺りを見回してしまう。

 お互いの姿を知らないのだ、居たとして、互いの確認など出来ないだろうに。

『何で分かった?』

 少しして返信。

『余白さん、迷いそうだから』

 短い文章。

 それだけだった。

 なのに、笑ってしまう。

『正解、洗剤だけでも種類が多すぎる』

 送信する。

 すぐ返ってくる。

『それは最初みんな通る道だよ』

 その一文を見て、少し肩の力が抜けた。


 みんな。

 その言葉が少し嬉しかった。

 自分だけじゃない。

 知らないことは、知らなくて当たり前。

 昨日、職場でも同じことを言われた気がする。

「最初はそんなもんや」

「焦らんでええ」

 違う人なのに。

 同じような言葉だった。


 ハンガーをカゴに入れ、歩きながら、昨日の通話を思い返す。



「良かった?」

 俺の戸惑いを含んだ問いかけに、夜凪はすぐには答えなかった。少しだけ間を置いて、言葉を選ぶように口を開く。


「余白さん、ちゃんと笑えてるから」

 その声音は真剣で、それでいて柔らかく、優しかった。

 夜凪の言う通り、俺はここ数ヶ月愛想笑いしか出来ていなかったはずだ。俺がなにも言えずにいると、夜凪は続きを話し始める。


「メッセージでの余白さん、ずっと苦しそうで……。もちろん、私の思い込みかもですけど」

 ドクン、と、心臓がひとつ悲鳴をあげる。

 辛いと、苦しいと、誰かに口にした事はない。

 ただ淡々と、離婚した事を告げ、唯一夜凪にだけ、離婚の理由まで零してしまった事はあったが、それでも、それだけだ。辛いだなんて——。


「でも、辛い事があったのは、教えてくれてましたし」


 夜凪の言葉が止まった時、俺の思いは溢れ出す。


「夜凪さん……」

 名前を呼ぶだけで声が震えた。

 溢れてくるものを、どう言葉にしたらいいかわからない。

 それでも、伝えなければ。


「ありがとう、ございます」

 息を整えようとする。けれど、上手くいかない。


「俺……辛いって……苦しいって……誰にも言えなくて」

 自分でも驚くほど、声が弱い。


「別にカッコつけてたとか、そんなんじゃなくて」

 喉が熱くなる。


「情けなくて、辛くて、悔しくて……苦、しくて」

 何度か息を吸いながら、それでも続ける。


「いい大人が情けないとも思うんですけど……」

 そこまで言って、また言葉を探す。


「地元を離れる事でしか、自分を、守る、こと、できなくて」

 上手く声にならない。ちゃんと伝わっているだろうか、伝えられているだろうか。


 夜凪は何も言わない。ただ黙って聞いてくれている。

 その沈黙が今はありがたい。

 俺は言葉を探し、もう一度話し始める。


「でも……見てくれてる人って……ちゃんと、いるんだなって」

 鼻の奥が痛い。目の前の物が滲んで見える。

 何度瞬きしても、戻らなかった。


 震える息を吐きながら続ける。

「だから……」


 もう一度、もう一度だけ、この言葉を伝えなければ。


「ありがとう、ございます」



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