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閉じた本の、その先に  作者: 日木西 暁


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第七話 声の距離(続)

 

「……なんか変ですね」

 夜凪が小さく笑う。

「何がですか?」

「今まで文字で話してた人と、声で話してるのが」

 その言葉に、思わず笑みがこぼれた。

「確かに」

 短いやり取り。

 それだけだった。

 でも、どちらも通話を切ろうとはしなかった。


 沈黙が流れる。

 文字だけなら、間が生まれてもそこまで気にはしない。

 既読無視、未読無視なんて言葉もあるそうだが、返事が遅ければ、忙しいのかなと思うだけだ。

 けれど、声は違う。

 少しだけ気まずい。

 何を話せばいいのか分からない。

 それでも、切りたくはない。

 そんな沈黙だった。


「……余白さんって」

 夜凪が、ぽつりと名前を呼ぶ。

「あ、はい」

「声で呼ぶと、不思議ですね」

 その一言に、少しだけ照れくさくなる。


 余白


 現実では、誰も知らない名前だった。

 会社でも。

 家族だった人も。

 過去の知人も。

 誰一人、この名前で俺を呼ぶ人はいない。

 この名前を知っているのは、夜凪だけだった。

 昔、何となく付けたハンドルネーム。

 理由なんて、もうはっきりとは覚えていない。

 ただ、白紙には何でも書ける。

 人生にも、そんな余白くらいあった方がいい。

 当時は、そんなことを思っていた気がする。

 今では、その名前が少しだけ皮肉に思える。

 人生は、思っていたよりずっと簡単に埋まってしまうものだから。


「俺もです」

「え?」

「夜凪さんって、本当に夜凪さんなんだなって」

 そう言うと、電話の向こうで小さく笑う声が聞こえた。

「何ですか、それ」

「いや……」

 少し言葉を探す。

「文字だけだと、画面に表示されてる名前と話してる感覚だったというか」

「ああ……」

 夜凪が納得したように頷く気配がした。

「分かります」

 その声は少しだけ弾んでいた。

「画面の向こうに、人がいるんですよね」

「そうですね」

「当たり前なんですけど」

「当たり前なんですけどね」

 また笑う。

 さっきまでよりも少し自然だった。

 通話を始めて十分も経っていないはずなのに、少しずつ緊張がほどけていくのが分かる。


「余白さん」

「はい」

「今、お酒飲んでます?」

「え?」

 思わずテーブルの上を見る。

 開けたばかりの缶ビール。

 まだ半分も減っていない。

「まだ缶の半分だけです」

「やっぱり」

 夜凪が少し笑う。

「何で分かったんですか?」

「なんとなく、そんな気がしただけです」

 いくら酒に弱いとはいえ、さすがにこの量で態度に出るとも思えないんだが、鋭い人なのだろうか。


「お酒、強いんですか?」

「いや」

 苦笑する。

「かなり弱いです」

「そうなんですか?」

「ええ」

 少し迷う。

 こんな話をしてもいいものか。

 でも、夜凪なら笑ってくれる気がした。


「酔うと、自動販売機に話しかけるくらいには」

 一瞬、静かになる。

 しまった。

 変なことを言った。

 そう思った次の瞬間だった。

「ふふっ」

 小さな笑い声が受話口から聞こえた。

 夜凪が文字でなく、声に出して笑っている。

 さっきまでのような、戸惑いや緊張をほぐすための笑い方じゃないのがわかる。


「何て話しかけるんですか?」

「えっと、まあ、『どうしてそんなに明るいんだい?』って」

 今度は笑いを堪えきれなかったらしい。

「それは……弱いですね」

「もっと飲むと、電柱相手に人生相談まで始めます」

「やめてください」

 笑いながら返ってくる。

「電柱も困ります」

 その言葉に、俺も笑ってしまった。

 笑い声が重なる。

 ほんの数秒。

 それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 こんなふうに、誰かと笑ったのはいつ以来だろう。

 思い出そうとして、やめた。

 きっと、その答えは思い出さない方がいい。


「あぁ、そうだ、自販機には、『いつも明るく照らしてくれてありがとな!』とも言ってたらしいです」

「覚えてないんですか!?」

「恥ずかしながら、なんとなくしか。あ、でも、いつもそこまで酔うわけじゃないですよ?」

「本当ですか?」

「ええ。まぁなんなら、次の日起きたら友達のシャツ着てた、なんて事もありましたけど」

「ちょっとぉ!ちょっとぉ!何が起きたの!?」


 夜凪がずっと笑って聞いてくれるものだから、ついついエピソードを披露してしまう。

 夜凪の態度もだいぶ砕けてきたように思う。

 これは、もしかしたら。


「夜凪さん」

「はい」

「ひょっとして、お酒飲んでます?」

「意趣返しですか?」

「いや、そんなんじゃ、というかさっきのはイタズラだったんですか?」 

「別にイタズラじゃなかったんですけど」


「お話、楽しくて、ご相伴にあずからないの、勿体ないなって」

 少し間を置いた夜凪の言葉に、俺はまた笑っていた。


 笑いが落ち着く。

 静かな時間が戻る。 

 でも、もう最初の沈黙とは違っていた。

 言葉がなくても、少しだけ安心できる沈黙。

 そんな時間が、スマホの向こうとこちらを静かに繋いでいる、その時。

 夜凪が言葉を探すように話し出す。

「でも……」


 何を言われるのだろう、心地よかった沈黙に、わずかな緊張が混ざる。


 ほんの数秒。


 何か失礼な事を言っただろうか、実際、『アナタの声を聞きたい』と、そうとしか取れないようなメッセージを送ったのだ。本当は嫌だったのではないか。

 たった数秒で、心臓は鼓動のペースを変え始めた。


「でも?」

 焦りから出た相槌は、続きを促すに十分だったようで。

「でも、良かったです」

「良かった?」


 また少しだけ、間があった。


「余白さん、ちゃんと笑えているから」

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