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閉じた本の、その先に  作者: 日木西 暁


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第五話 少しずつ

 

 出勤二日目の朝も、目覚ましが鳴る少し前での起床だった。


 昨日よりわずかに早い目覚め。

 腕も肩も重く、足の裏にはじんわりとした痛みが残っている。たった一日で、身体は正直に疲労を訴えていた。


 カーテンを開ける。

 昨日と変わらない街並み。

 それでも今日は、「知らない街」という感覚がわずかに薄れていた。


 簡単に朝食を済ませ、部屋を出る。

 会社へ向かう道も、昨日より少し落ち着いて歩けている。


 更衣室で作業着に着替え、安全靴に履き替える。

 ロッカーが閉まる音。現場へ向かう人々の足音。

 少しずつ、この会社の朝のリズムが身体に馴染み始めていた。


「おはようさん」


 昨日声をかけてくれた先輩が背後から挨拶をくれた。


「おはようございます」

「今日は昨日より顔色ええな」

「そうですか?」

「昨日は顔が固まっとったからな、緊張丸わかりやったで」


 緊張していた自覚はあったが、そんなに顔に出ていたのか……。

 思わず苦笑すると先輩も笑った。


 現場では、昨日教わった作業から始まる。

 頭では理解しているつもりだったが、手は思うように動かなかった。


「あ、違う違う」

 先輩がすぐに声をかけてくれる。

「すみません」

「謝らんでええ、まだ二日目や」

 もう一度、手本を見せてもらう。

 今度は何とか形になった。


「そう、それでええ」


 その一言が、想像以上に嬉しかった。


 昼休み。

 昨日と同じ端の席に座る。

 おにぎりの袋を開けていると、向かいに昨日と同じ男性が座った。


「どうや、少しは慣れたか?」

「まだ全然です」

 そう答えると、男性は穏やかに笑った。


「全然で当たり前や、焦らんでええ」

 その言葉に、自然と肩の力が抜けていく。


 午後も失敗は続いた。

 部品を間違えたり、工具を探して手が止まったり。

 それでも、昨日ほど焦りはなかった。

 分からなければ聞けばいい。

「もう一度お願いします」

 そう言えた。言えた自分に少しホッとした。


 定時。

 更衣室に戻り、作業着を脱ぐ。

 安全靴から普段の靴に履き替えると、それだけで足が軽くなる。


「お疲れさん」

「お疲れさまでした」


 昨日より少し自然に、その言葉を返せた。

 周りでは会話が飛び交っている。

 その輪の中に入れる気はまだしなかった。

 でも、昨日ほど遠い場所には感じない。


 更衣室を出ようとした時、先輩が声をかけてくれる。

「そう言えば湊さん、こっちには越して来たばっかりか?」

 何を聞かれるのか、少し身構えてしまう。


「あ……。はい、そうですね」

「ほな、まだ必要なもんもあるやろ?明日から2日間休みやさかい、なるべく揃えときや」

 どうやら新生活を心配してくれたらしい。

 どうしても、前の生活の事に触れられるかもしれない、と過敏に反応してしまう。


「あ、はい、ありがとうございます」

「店の場所とか調べてあるんか?」

「そうですね。スマホで大体の所は」

 咄嗟に嘘をついた。


 先輩はひょっとしたら店の場所を教えてくれようとしてるのかもしれない。

 単に世間話の一環として聞いてくれただけかもしれない。

 わからないが……。

 迷惑をかける訳には、とか、時間をとらせるのが申し訳ないとか、そんな殊勝な考えじゃなく

 俺はまだ、自分の事に触れられるのが怖かった。


「そうか。ほんなら大丈夫やな」

「あ、はい。ありがとうございます」

「困ったら聞きや。地元の人間の方が早いこともあるやろし。買い物にかまけて、覚えた事忘れんといてや」

 そう笑いながら、「ほな、また休み明けな」と先輩は帰っていった。


 会社を出る。

 夕闇の風は、昨日よりわずかに心地よかった。


 帰り道、昨日と同じコンビニへ寄る。

 何を買うか考える前に、昨日買った弁当が目に入った。

 これでいいや、と手に取った。

 別に特別に好きなわけじゃない。

 ここ数ヶ月、「美味しい」なんて感じた事がない。

 なら、何を食べよう?なんて悩むのも億劫だ。


 部屋に戻る。


「ただいま」


 返事はない。

 それでも昨日ほど、部屋の冷たさは気にならなかった。

 帰りに買った弁当を机に置き、缶ビールを一本取り出す。

 プルタブを開ける音が、小さく部屋に響いた。

 鞄の中には仕事のメモが入っている。見直さなければならない。

 そう思いながらも、まずは一息つく。

 焦らなくてもいい。ここはもうあの街じゃない。

 そう思うだけで、少しだけ息がしやすくなった。


 スマートフォンを手に取る。

 画面は静かなままだ。

 別に待っているわけではない。

 そう思いながら、画面を見る回数が増えている事に気づく。


 そのとき、画面が震えた。


『今日はどうだった?』


 短い一文。

 それだけで十分だった。


 ビールを飲みつつ、少し考えてから文字を打つ。


『昨日より、少しだけ』

 送信ボタンを押す。

 たったそれだけの言葉なのに、不思議と今日は、それで十分に伝わる気がした。


『そう、良かった』


 ちゃんと伝わったようだ。妙に心地良い。

 それに安心しすぎたのか、生来の酒の弱さのせいか、


『明日から休みでさ、足りない日用品を買いに行きたいんだが、この辺だとどこに行けばいい?』


 ……しまった。

 店の場所なんて、スマホで調べればすぐ出てくる。

 何をわざわざ聞いているんだ、俺は。


 缶ビールを見つめる。

「お前のせいにしとくか」


 もちろん、缶ビールは何も答えない。

第六話も明日の21時10分投稿予定です!

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