第三話 距離感
同日投稿三話目
朝礼も終わり、現場での仕事が始まった。
覚えることは山ほどある。
工具の名前。
製品の置き場所。
機械の止め方。
先輩の説明を聞き逃さないように必死だった。
何度も「はい」と返事をする。
本当に理解できているかどうかは、自分でも怪しかった。
前職で入社したばかりの頃、こんなものだっただろうか。
もっと自分から質問出来ていたはずだ。
情けない、そう思った瞬間、また先輩の話を聞きこぼした。
余計に焦る。その繰り返しだ。
こんな調子で、無事初日を乗り切れるだろうか。
幸いにも先輩はこちらの表情を読み、
「徐々に慣れてくれたらええから」
そう笑ってくれた。
午前中はあっという間に終わる。
気づけば昼のチャイムが鳴っていた。
「飯行こか」
先輩たちが休憩室へ向かう。
俺も後をついて行った。
休憩室には長机がいくつか並び、自販機と電子レンジが置かれている。
皆、それぞれ弁当を広げたり、カップ麺にお湯を注いだりしていた。
俺は朝、コンビニで買ってきたおにぎりを取り出す。
何となく端の席へ座った。
初日はそんなものだろう。
誰とも話さずに昼が終われば、それでも構わないと思っていた。
「湊さんやったっけ?」
向かいの席に座った男性が声を掛けてきた。
三十代くらいだろうか。
少し日に焼けた顔に、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「はい」
「どっから来たん?」
その一言に、一瞬だけ顔が強ばる。
どこから。
その答えは簡単なはずだった。
でも、簡単には言えなかった。
「……東の方です」
そう答えると、男性は笑った。
「東って広いなぁ」
その場にも笑いが起きる。
責められているわけじゃない。
ただの世間話だ。
分かっている。
それでも、地元の名前を口にする気にはなれなかった。
あの土地の名前を言えば、思い出まで一緒に連れてきてしまいそうだった。
「まぁ、そのうち教えてや」
男性はそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
昼休みが終わる。
午後の仕事は午前中より少しだけ体が動いた。
分からないことはまだ多い。
失敗もした。
それでも、「もう一回やってみ」と教えてくれる人がいた。
怒鳴る人はいなかった。
それだけで、十分だった。
定時を迎える頃には、体中が重かった。
安全靴を脱ぐ。
足が解放されるだけで、少し笑ってしまう。
更衣室で作業着を脱ぎながら、周りでは今日あった出来事やテレビの話で盛り上がっていた。
その輪にはまだ入れない。
でも、不思議と焦りはなかった。
今はそれでいい。
会社を出る。
青から黒へ変わる深いグラデーションの空
朝は違和感しかなかった油の匂いが、澄んだ空気の中ではまた違って感じられた。
部屋へ戻ると、昨日と同じ静けさが待っていた。
「ただいま」
誰もいない部屋へ向かって言ってみる。
もちろん返事はない。
分かっていた。
それでも、何も言わずに部屋へ入るよりは少しだけ気が楽だった。
「おかえり」が無い事に、安心も、寂しさも同居した。
帰りにコンビニで買った缶ビールを一本、ビニール袋から取り出す。
いつもなら少しだけ気持ちを緩めてくれるプルタブを開ける音も、今日は何も感じなかった。
家電備え付けのアパートだが、
テレビをつける気にもならない。
部屋には、さっき回した洗濯機の音だけが響いていた。
今日一日を思い返す。
失敗ばかりだった。
でも、ちゃんと終わった。
その事実だけで十分だった。
ようやく緊張が解けたのだろう。一気に疲れが押し寄せてきた。
仕事のメモは持ち帰った。
明日からの事を思えば、見直すべきなのだろう。
それも、本来ならビールを開ける前に。
こんな事で良いのか。
一緒に買ったコンビニ弁当をひろげるも、箸を持つ事すらしなかった。
──あぁ、まただ。
地元を出ようと必死だった頃にも、何度かそれは突然襲ってきていた。
考えなければいけないことは山ほどあるはずなのに、頭の中だけが妙に静かになる。
見えているものが遠くなり、視界は徐々に色を失っていく。
何を選べばいいのか。
何を捨てればいいのか。
その判断すら出来なくなる、あの感覚。
その時、スマートフォンが震える。
『初出勤、お疲れさま』
たったそれだけの一文。
それなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
画面を見ながら、小さく笑う。
この街には、まだ友達はいない。
でも、この街のどこか、画面の向こうで俺の一日を気に掛けてくれる人が一人だけいた。
それだけの事なのに、不思議と部屋の静けさが薄れた気がした。
あ、、、あともう一話、無事に投稿されますように




