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閉じた本の、その先に  作者: 日木西 暁


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第二話 初出勤

同日投稿二話目になります。

 

 目が覚めた。


 知らない天井。


 昨日も見たはずなのに、まだ自分の部屋という実感がなかった。

 白い壁紙。

 小さな照明。

 聞き慣れない外の音。


 しばらく天井を眺める。


 そして、少しずつ思い出す。


 そうだ。

 俺はもう、あの街にはいない。


 枕元のスマートフォンを見る。

 午前五時四十分。

 目覚ましが鳴る二十分前だった。

 もう一度眠ろうと目を閉じる。

 けれど、眠気は戻ってこなかった。

 新しい場所で迎える最初の朝。

 緊張しているのか。

 それとも、まだ心だけが昨日までの場所に残っているのか。

 自分でも分からなかった。


 諦めてベッドから降り、フローリングに足をつける。

 ひんやりとした感触が、眠っていた意識を現実へ引き戻した。

 部屋の隅には、昨日のまま積み上げられた段ボール。

 開けた箱より、開けていない箱の方が多い。

 この部屋に引っ越してきたのは昨日なのに、まだ俺の生活はここへ来ていなかった。


 洗面台へ向かう。

 顔を洗い、鏡を見る。

 そこに映っていた男は、少し疲れて見えた。

 引っ越しの疲れだけじゃない。

 しばらく、朝起きて鏡を見ても気が付きもしなかったが

 ここ数か月で、ずいぶん顔つきが変わった気がする。

 今日何をするか。

 何時に帰るか。

 そんな当たり前のことだけを考えていた。

 でも今は違う。

 昨日までの自分と、これからの自分。

 その境目に立っているような気がした。


 冷蔵庫を開ける。

 昨日、近くのコンビニで買っておいた野菜ジュースと菓子パン。

 朝から食欲はなかった。

 それでも、初出勤の日に何も食べずに行くわけにはいかなかった。

 味はほとんど覚えていない。

 ただ、胃に入れる。

 今日一日を乗り切るために、それだけは必要だった。

 毎朝欠かさず飲んでいた白湯も、湯呑みを出す気になれず諦めた。


 時刻は六時半。

 クローゼットからシャツを取り出す。

 私服で出勤するよう言われていた。

 作業着は会社で支給されるらしい。

 財布。

 スマートフォン。

 書類の入ったクリアファイル。

 何度も確認する。

 忘れ物があるわけじゃない。

 ただ、不安だった。

 以前なら気にもしなかった小さなことが、今は妙に気になった。


 玄関を出て鍵を閉める。

 その小さな音が、妙に大きく聞こえた。


 外はまだ朝の空気を残していた。

 駅へ向かう人。

 車で出勤する人。

 昨日まで知らなかった街の日常が動いている。

 その流れの中へ、自分も混ざっていく。

 誰も俺を知らない。

 それは望んでいたことだった。

 なのに、少しだけ心細かった。


 会社には始業三十分前に着いた。

 初日くらいは早く着いておこう。

 それだけだった。


 受付でインターホンを押し、緊張からか少し上擦った声で名乗った。

 緊張、などというものが自分に残っていた事に少し安堵する。不思議なものだ。

 ただ、変な奴、使えそうにない奴、そんな印象を持たれたかもしれない。


「湊さんですね。本日からの方ですね」


 事務員であろう女性が確認する。

 自分の名前を呼ばれただけで、少し背筋が伸びた。

 どう思われただろうか、女性の声音からは伺いしれない。


 しばらく待つと、一人の男性がやって来た。

 五十代くらいだろうか。

 日に焼けた顔。

 作業着の袖から見える太い腕。

 長い間、ここで働いてきた人なのだとすぐ分かった。

「おはよう。今日からよろしくな」

 その一言で、少し肩の力が抜けた。


 事務所へ案内される。

 雇用条件の確認。

 緊急連絡先。

 就業規則。

 何枚もの書類に名前を書く。


 何度も書いてきた自分の名前。

 それなのに今日は少し違って見えた。

 ここで、この名前で、もう一度生活を始める。

 そんな気がした。


「これが作業着ね」


 机の上に紺色の上下が置かれる。

 続いて安全靴。

 帽子。

 名札。

 社員証はまだ出来上がっていないらしく、代わりに仮の入館証を渡された。

 白いカードの表面に、俺の名前が書かれた付箋が貼られている。


 (ミナト) 悠希(ユウキ)


 ただ、それだけの文字。


 更衣室へ案内される。

 ロッカーにも、自分の名前を書いた紙が貼られていた。

 小さなロッカー。新しい鍵。

 それだけのこと。 

 なのに、不思議と少し安心した。

 この場所にも、『自分の』名前がある。

 何度も書いてきた自分の名前。

 なのに、少しだけ不思議な感覚があった。

 一度、遠ざかっていた名前だった。

 長い間、俺は別の名字を書いていた。

 最初は違和感があったはずのその名字も、いつの間にか自分の一部になっていた。

 書類を書く時、名前を呼ばれる時、誰かに自分を伝える時。

 それが当たり前になっていた。


 だから、元に戻っただけのはずなのに、すぐには馴染まなかった。

 昔の自分の名前なのに、少し遠い。

 まるで昔の自分の服を、もう一度着ているような感覚だった。

 でも、この場所ではこの名前で呼ばれる。

 湊悠希として、また生活していく。

 それだけの事なのに、少しだけ肩の力が抜けた。


 作業着へ着替える。

 新品の生地は少し硬い。

 安全靴も足に馴染まない。

 歩くたびに違和感がある。

  鏡を見る。

 さっきまで私服だった男が、どこにでもいる作業員になっていた。

 少しだけ笑う。

 悪くない。

 そう思った。


 朝礼が始まる。

 担当者に名前を呼ばれ、前へ出る。


「今日からお世話になります。湊悠希です。よろしくお願いします」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 足の震えはバレていないだろうか。

 今度は声は上擦っていなかったはずだ。

 ただ、赤面は隠しようがなかった。



「困ったことがあったら誰でもええから聞いてな」

 誰かがそう言ってくれた。

 その言葉が、この街へ来て初めて受け取った「歓迎」だった。


 朝礼が終わり、担当者の後ろについて工場へ入る。

 その瞬間、鼻についたのは鉄と油の混ざった独特な匂いだった。

 削られた金属の匂い。

 熱を持った機械から漂う、独特な匂い。

 長い時間、機械と人の手で使われ続けてきた場所の匂い。


 正直、良い匂いとは思わなかった。

 でも、不思議と嫌でもなかった。


 考えてみれば、ここにいる人たちにとっては、この匂いが日常なのだろう。

 朝起きて、家を出て、この匂いの中で一日を過ごす。

 ここにも、俺が知らないだけで誰かの日常がある。

 そのことが、少しだけ不思議だった。

 当たり前の事なのに、妙に心に残った。


 昨日まで何の関係もなかった場所。

 それでも今日から、俺はここで時間を過ごす。


 機械が動く低い音。

 フォークリフトの警告音。

 忙しく動く人たちの声。

 全部知らない音だった。

 でも、少しずつこの音にも慣れていくのだろうか。

 そんなことを考えた。


「じゃあ、まずは現場を案内するわ」


 担当者の後ろを歩く。

 まだ硬い安全靴の感触を確かめながら、俺は前を見る。


 新しい人生。

 そんな大げさな言葉は、まだ必要なかった。

 俺はまだ、逃げてきただけなのだから。


 今日一日を無事に終える。


 今は、それだけで十分だった。

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