男の叫び声と、中断された快楽。
男らしさとは一体何なのだろうか? 強がること? 力強いこと? それとも見た目のこと? もしかしたら、一部の人はただ大げさに言っているだけなのかもしれない。
第9章
ツヤが再び目を開けると、そこは果てしなく広がる純白の精神世界だった。
彼はただ無機質な床に横たわり、意識を漂わせている。ゆっくりと歪む景色の向こうに、鏡に映された自分自身の像が浮かんでは消え――そこには静寂と己の鏡像だけが存在していた。
一方、現世。フィリップはツヤの肉体をじわじわと、かつ容赦なく侵食し、完全にその主導権を乗っ取っていった。
かつて目にした人間の容姿を象りながらも、その両手首と首筋には禍々しい不吉な紋章がのたうち回り、頭上には蠢く黒泥で形成された不気味な『王冠』が浮遊する。それはまさに、圧倒的な死の化身――『極』への変貌だった。
フィリップは周囲に声が漏れることなど一切意に介さず、深く、深く息を吐き出した。天を仰ぎ、恍惚とした表情で生への快楽を肺いっぱいに満たす。そして、新しく手に入れた己の肢体を視線で舐めるように見つめた。
肌の所々が濃淡の異なる漆黒に染まり、その肉体の一部始終は、さながら凄惨な殺戮兵器へと造り変えられていた。
フィリップは狂気に満ちた笑い声を響かせた。
(クク……アハハハハッ! そうだ、これだ……ッ! ついに、ついに再び『己』を感じられる……! 待ち望んだこの時が、ついに来たァ!)
その不気味でけたたましい大声に、フランクとハックが即座に反応した。不快感を露わにし、唾を吐き捨てるように怒鳴りつける。
「おい! そこで何をごちゃごちゃ騒いでやがる、ガキが!? 後でお仕置きされたかねぇんならこっちへ来い。お前の席はここだ!」
ハックが手元のカードを配り直しながら、フィリップの方を苛立たしげに睨みつけた。
フィリップは口元を歪に釣り上げ、至上の悦びに身を震わせた。
「おっと、そうだ……俺は独房に放り込まれるんだったな……クク、その通りだ……」
フィリップは重い足取りで、しかし一歩一歩の感触を貪るように歩みを進めた。そして、カードテーブルの目と鼻の先でピタリと足を止める。
「おい……何なんだお前、さっきのクソガキと同じように髪が青く変色してやがるぞ……。いいからさっさと中に入りやがれ!」
フランクが苛立ち任せにフィリップの肩を掴み、強引に突き飛ばそうとした。しかし、まるで太古の巨岩を相手にしているかのように、フィリップの身体は微動だにしない。
フィリップは狂気に染まった二色の瞳で、二人をじっと見つめ返した。
「な、なんだよ一体……っ!?」
ハックがその尋常ではない異様な威圧感に息を呑む。
フィリップがゆっくりと、その右足の先をハックの座っている方へと向けた――まさにその瞬間。
『ズサッッ!』
床から突如として無数の鋭利な漆黒の触手が突き出し、ハックの肉体を容赦なく貫き穿った。肉を削ぎ、骨を粉砕した漆黒の棘は、一瞬ののち、再び影へと溶け込むように床へと吸い込まれて消え去った。
目の前で起きたあまりにも非現実的な惨劇に、フランクは全身の血が凍りついたようにその場に硬直した。フィリップはただ、静かに彼の瞳の奥を覗き込み続けている。
「なあ……『大人の男』さんよぉ。俺は男に見えるか? それとも女に見えるか? ……お前ごときの矮小な存在が、どうやって俺を裁くつもりだったんだ、あぁ?」
「な、に――」
直後、目視すら不可能なほど冷酷な『断線』が走り――フランクの足首から下が、滑るように床へズレ落ちた。
両足が一瞬にして切断されたのだ。
「があぁぁぁぁぁっ!?」
フィリップは絶叫する彼に向かって悠然と歩み寄ると、その無惨な身体を蹴り飛ばし、独房の中へと叩き込んだ。男は喉を引き裂くような悲鳴をあげながら、絶望のどん底で血の海に伏し、フィリップを見上げた。
「なんだその無様な悲鳴は、ええ!? 『男の中の男』は泣き叫んだりしないんじゃなかったのかよォ!!」
這いつくばって必死に後退しようとする男の胸の上に、フィリップは容赦なく馬乗りになった。その眼窩には、獲物を貪り食う狂人の瞳が不気味にギラついている。
「答えろよ、この出来損ないが。……俺は男に見えるか? ……どんな男だ、あぁ!? 青い髪をしてるもんなぁ! どんな男が青い髪なんかしてるんだよなぁ、おい!!」
フィリップの狂乱の咆哮と同時に、男が顔を庇おうと必死に突き出した右手が、宙を走った理不尽な衝撃によって生々しく切断され、床へと転がり落ちた。
男は唾液と鼻水に塗れ、血と涙を垂れ流しながら泣き叫んだ。もはや、慈悲を乞う正常な言葉すら紡ぐことができない。
「なんだその面は! ……答えろよ! どんな『男』だからって、返事一つできねえんだ、あぁ!? 俺はお前を、立派な『男』だと思ってたんだがなぁ!」
フランクは何とか息を詰まらせながらしゃくりあげ、途切れ途切れの声で必死に命乞いをした。
「頼む……た、頼む……俺には家族がいるんだ……幼い息子が、いるんだ……っ!」
「チッ……そんなもん、俺の知ったことかよ」
フィリップは男の顔面に自らの顔を極限まで近づけ、その瞳孔の奥の暗闇を見つめた。恍惚とした不快な吐息を漏らしながら、耳元で冷たく囁く。
「――どうせ、お前はその息子にも同じように接してるんだろ? その獣じみた残虐さで、妻のことも痛めつけて苦しめてるに決まってる……。だったら死んだ方がマシだな、お前。……ハハッ、素晴らしい名案だろ?」
男は、目の前に顕現した『死そのもの』の恐怖に全身をガタガタと震わせた。
「さあ、男らしく絶叫しろよ、いいな? ……今までお前が散々痛めつけてきた『男になれなかった者たち』に、お前がどれほどの男なのか、見せてやれよ。なぁ!?」
フランクが答える猶予すら与えず、フィリップは右手を宙へと掲げ、人差し指と中指を鋭く突き出した。その指先の空間に、巨大で禍々しい漆黒の刃が揺らめきながら具現化する。
狂気に満ちた歪んだ笑みとともに、彼はその刃を振り下ろし、男の顔面を縦真っ二つに切り裂いた――。
辺り一面に飛び散った血と肉片の真ん中に立ち尽くしながら、怪物はただ愉悦に浸って笑い続けた。
「クク……ハハハッ……! ついに……ほんの少しだが……楽しめたぞ……」
彼は血溜まりからゆっくりと足を引き抜いた。そのまま出口へと向かおうとしたが――宿主であるツヤの肉体があまりにも小さく脆弱であったため、急激な反動により歩行すら困難な状態に陥っていた。
頭上に浮遊していた黒泥の王冠が霧散し、フィリップの意識は急速に後退。ツヤの肉体はその場に膝から崩れ落ちた。
直後――ツヤの意識が、現実へと引き戻された。
「ガハッ……! 呼吸が……っ」
数回、激しく瞬きを繰り返し、何が起きたのかを必死に理解しようとした。しかし、激痛と疲労で頭が追いつかない。それでも、震える両腕で何とか上体を起こした。
フィリップが表に出て『力を振るう』ということ――その本当の意味が、今まさに明かされようとしていた。
ツヤが恐る恐る背後を振り返った、その瞬間。
彼の目に、絶句するような凄惨な惨劇の光景が飛び込んできた。
「あ……あ…………」
奥歯が噛み砕かれそうなほど強く噛み締められ、ツヤの瞳孔が限界まで見開かれる。人間の仕業とは思えない血の海と肉片。あまりの恐怖と吐き気に、彼の身体は本能的に出口の扉の方へと引きずられるように後退り、呼吸はひきつけを起こしたように激しく乱れた。
「な、何が……ここで、一体何が起きたんだ……っ!?」




