豚
困窮することは、最も辛いことの一つだ。
転がる二つの死体を、ツヤは戦慄とともに見下ろした。
「フィリップ……!?」
返答はない。ただ、床に広がり続けるおびただしい血溜まりが部屋の空気をじっとりと暖め、むせ返るような鉄錆の熱気を生み出していた。首と胴体が泣き別れになったフランクの口元からは、いましがた煽っていたであろう安酒が、汚らしい白い泡となってとめどなく溢れ出ている。
ツヤは最後にもう一度だけ惨状を脳裏に焼き付けると、弾かれたようにその場を後にした。足早に、しかし周囲の衛兵に不審がられぬよう必死に息を殺し、衛兵所を脱出する。
仲間の元へと向かう足は自然と速くなり、ほとんど駆け足になっていた。肺の奥からせり上がる荒い呼吸の隙間で、ツヤは恐怖と混乱の呪詛を絶え間なく呟き続ける。先ほどの異常な惨劇が、この先どれほどの災厄をもたらすか想像すらつかない。とにかく、今すぐ身を隠せる安全な場所が必要だった。
ツヤは息を切らしながら仲間たちに追いつくと、ほとんど立ち止まることもなく、顎で先を促して歩みを続けた。
「ツヤ、待ってください! 少し歩くのが早すぎますわ!」
ナツキが悲鳴のような声を上げる。周囲の異様な光景に、全員が怪訝と恐怖の視線を巡らせていた。この街の『亜人』たちは、人間の輪に混ざることを拒絶されるように、彼ら自身で固まって薄汚れた路地を歩いている。逆に人間の傍らにいる少数の亜人たちは、奇妙で屈辱的な衣服を身に纏わされ、まるで下等な奴隷のように主人の後ろを這いつくばって歩かされていた。
重い荷車を引かされている獣人の姿もある。街並みは、一度改修を試みながらも途中で打ち捨てられたかのように退廃的で歪だった。粗悪な建材で乱雑に建てられた四、五階建ての建物が連なり、その一階には雑多な商店が店を構えている。薄暗い路地裏に目を向ければ、たむろする眼の据わった若い浮浪者か、さもなくば腐臭を放つ生ゴミの山しか見当たらない。
ニッツェは両手を頭の後ろで組み、まるで興味なさそうに気だるげに歩いていた。ナツキは何度も周囲を見回し、自分が見ているこの異常な光景が現実のものなのか、すがるように他のメンバーの表情を伺っている。キメントはただ冷徹に前方だけを見据えて黙々と進み、その横でシンソは怯えたように彼の腕にしがみつき、周囲の刺すような視線から逃れるように縮こまっていた。ウイタだけは、少し目を細めてツヤの震える背中をじっと観察している。そしてエラは、ある一点から目を離せずにいた。それは、路地裏で泥に塗れながら虚ろな目をしている亜人の子供たちの姿だった。
やがて、耐えかねたようにナツキが沈黙を破った。
「ねえ、私たち一体どこへ向かっているのですの?」
「宿か、さもなくば隠れ家が必要だ。だけど……ここの住人はどれも、僕たちよそ者を歓迎するようには見えないね」
エラが周囲の冷ややかな視線を察して呟く。
ツヤが答える。
「冒険者ギルドの酒場か、それに類する場所を探すしかない」
「へえ、大したもんだわ……。私たちがいつからそんな立派な冒険者パーティになったっていうの?」
ニッツェが鼻で笑うように皮肉を言った。
「異世界に行ったらそういう場所があるって、僕の頭にはそれしか浮かばないんだよ!」
「思った以上に馬鹿だな。今の俺たちに必要なのは、案内役となる『協力者』だろ」
キメントが冷たく言い放つ。
シンソが不安そうに首を傾げた。
「サブキャラクター……?」
「頭さえ回るなら、豚人間だろうが何だろうが構わねえよ」
キメントが吐き捨てるように言い、それ以上の会話を拒むように歩調を速めた。
「チッ……ここにはそんなマシな生き物さえいやしないわよ」
ニッツェが毒づく。
「一刻も早く、現実的な解決策を見つけなければなりませんね」
ウイタの静かな声が響く。
ツヤは何の確信もないまま足を動かし続けていた。心の中で、この絶望的な状況を打開してくれるはずのフィリップの声を求めていたが、脳裏は不気味なほど静まり返ったままだ。
しばらく進むと、ようやく酒場や商店がひしめき合う大通りへと辿り着いた。様々な人種と怒号が飛び交うこの混沌とした喧騒の中で、一体どう動くべきか。
「クソッ……。よし、僕はあっちの店を調べる。みんなは酒場を当たってくれ。どんな小さな情報でもいい、手がかりを掴むんだ」
ツヤの指示にウイタが短く頷き、他の面々もその背を追って散っていった。
ツヤは怪しげな薬瓶の記号が掲げられた店へと急ぎ、その重い木扉を押し開けた。内部は酷く埃っぽく、陽の光が届かない深い闇に包まれている。奥へと足を踏み入れたその時、不注意に床に置かれていた陶器の壺に足を引っ掛け、けたたましい音を立てて粉砕してしまった。
「誰だ! またあの変態ガキどもか、タダじゃおかねえぞ!」
奥の部屋の汚れた帳が上がり、痩せこけた小柄な男が姿を現した。濁ったガラス玉のような目をギラつかせた、脂ぎった長い金髪の男だ。
「俺の名前はヴェインだ……。何の用だ、おい」
男のねっとりとした視線が、ツヤの華奢な身体、そして何よりもその『美しい青い髪』に舐め回すように注がれる。異様な執着を孕んだ凝視のあと、男は下卑た音を立てて生唾を飲み込んだ。
「あ、あの……ヴェインさん。僕たち、助けが必要なんです。どこか身を隠せる場所か、力を貸してくれる当てはありませんか?」
ヴェインは突如、ツヤの顔の真正面まで身体を折り曲げ、歓喜に震える声を上げ狂った。
「素晴らしい……! なんて素晴らしいんだ! こんな極上の『お嬢ちゃん』が、俺に助けを求めてくるなんて!」
「い、いや、僕は男――」
「ああ、もちろん助けてやるとも! さあ、俺についてきな!」
ツヤは一縷の望みにすがりつく思いで、男の背中を追った。男は年季の入った分厚い木製の扉を開けて奥の部屋へと入り、ツヤが足を踏み入れた途端、背後で勢いよく扉を閉ざした。そして、素早い手つきでドアノブに奇妙な呪符のついた不気味な首飾りを巻き付ける。
「ここで待ってろ。すぐに戻る」
ヴェインは部屋の奥にある、カウンターの裏口のような扉から足早に去っていった。
残された部屋には、埃と強烈な湿気、そして微かに胃を焼くような獣臭が立ち込めている。正面には、藁が敷き詰められた家畜小屋のようなスペースがあり、中型の頑丈な鉄格子のついた木扉で固く閉ざされていた。
突如、ガチリと不穏な金属音が響いた。
正面の重苦しい木扉が、自重で不気味に軋みながらゆっくりと開いていく。ツヤは困惑した。ここに入るべきなのか? それとも、ヴェインはどこへ行った?
心臓の鼓動が嫌なリズムで速くなるのを感じながら、警戒しつつ闇の奥へと近づく。しかし、鼓膜を震わせたドロりとした「グルルル……」という低い唸り声に、ツヤの身体は瞬時に凍りついた。一歩も動けないまま、恐怖で瞳孔が限界まで開く。
視界が闇に慣れるにつれ、その悍ましい輪郭が牙を剥いた。
目の前にいたのは、規格外の巨体を持つ、裂けたような大口を限界まで広げた『豚の怪物』だった。片目は濁った泥のような緑、もう片方は狂気に染まった黄色。通常の家畜が発するそれとは一線を画す、悍ましい怨嗟のような鳴き声を漏らしている。
その醜悪な顎からは粘着質な唾液が絶え間なく滴り落ち、床を汚していた。怪物は、飢餓と欲望の塊のような視線をツヤへと突き刺す。
ツヤは本能的な死の恐怖に突き動かされ、踵を返して今入ってきた扉へと脱兎のごとく駆け寄った。しかし、ドアノブに絡みついた呪符の首飾りはびくともせず、扉はまるで壁の一部のように微動だにしない。ヴェインが去った奥の扉へすがりつくが、こちらも冷酷に施錠されていた。
退路を完全に断たれ、背中を壁に打ち付けたまま立ち尽くす。
背後からは、巨大な鼻息と地響きのような足音が迫っていた。狂乱する思考の隙を突くように、凄まじい発情と凶暴性を剥き出しにした巨躯が突進してくる。
ツヤは肺を押し潰すような悲痛な悲鳴を上げながら、咄嗟に巨躯の突進を避けるように、豚が飛び出してきた暗黒の部屋へと転がり込んだ。
だが、そこは紛れもない地獄の底だった。
部屋の奥には、衣服を完全に剥ぎ取られた無惨な死体がいくつも転がり、その土気色の肌には生々しく擦り付けられた白い粘液の跡がねっとりとこびりついている。死体たちの髪色はどれも色鮮やかで、そのすべてが若い『女性』のものだった。
絶望的な光景に硬直したツヤの隙を、怪物は見逃さなかった。
背後から放たれた容赦のない体当たりが、ツヤの背骨を直撃する。凄まじい衝撃に身体を宙へ跳ね上げられ、床の汚泥と血だまりの上を無様に転がった。すぐに這い出そうとするが、それよりも早く、熱く狂った息吹を吐き散らす数百キロの巨体がツヤの身体の上にのしかかり、その圧倒的な質量で叩き潰すように座り込んだ。
「ギャァァァァァァッッ!!」
人間のものとは思えない悲痛な絶叫が密室に響き渡る。みしり、と肋骨が何本も同時にへし折れ、折れた骨が自らの肺肉を深く突き刺す極痛が全身を駆け巡った。ツヤは血反吐を吐き散らしながら必死に身悶えするが、怪物の質量を前にその抵抗はあまりにも無力だった。
やがて、豚の濡れそぼった顔が目の前まで迫り、その顎が限界を超えて大きく割れた。
顔面に降り注ぐ生温かく臭い唾液に顔を歪め、ツヤは恐怖と激痛のあまり子供のようにしゃくり上げる。
次の瞬間、怪物の顎が肉を断つ音を立てて閉じられた。
骨を砕き、肉をすり潰すひどく不快な音が暗闇に響く。怪物が、生きたままツヤの顔面を容赦なく咀嚼し始めたのだ。
間もなくして頭蓋を完全に粉砕されたツヤは、声にならぬ絶叫の残響を虚空に残したまま、あっけなく事切れた――。




