バーの朝
「いつも続く日常ではないかもしれない。それでも、この朝だけはこうして過ぎてゆく。」
ツヤは酒場を見渡した。店内には相変わらず、朝の柔らかい光が差し込んでいる。彼は腰の剣の柄にそっと手を置き、そのまま手持ち無沙汰に休ませた。そして酒の給仕をするカウンターへと近づくと、予想通り、その奥からかすかな気配と音が聞こえてきた。
右手に回り込み、カウンターの裏側へと足を踏み入れる。レツカたちの厨房は、そこにある勝手口の扉をくぐった先にあった。
ツヤはゆっくりと扉を押し開け、中へと入った。厨房がそこにあること自体は知っていたが、彼にとってはその程度の認識でしかなかった。結局のところ、彼はレツカ一家に対してそれほど思い入れがあるわけでもなく、家の間取りや詳細に興味を持ったこともなかったのだ。
調理台の上には木製の調理器具や引き出し、木製のツールなど、多くの道具が整然と並んでいた。
その奥で、キリシマが深い木製の桶に向かい、どこか力任せに食器を洗っていた。ツヤの目から見れば、その尋常でない様子は間違いなく葬儀と関係しているように思えた。3人の子供のうち2人を一度に失った母親なら、誰であっても無理はないのだろう。
悲しみを内に押し殺し、孤独に苛まれながらも、その痛みを胸の奥深くに埋め込もうとする姿――それが、かえって彼女を痛々しい母親、あるいはそれ以上に悲痛な存在に見せていた。
ツヤは「関心がある」かのような足取りで足を踏み入れ、背後の扉を静かに閉めた。以前、この家について抱いていた冷ややかな思考をあえて覆い隠すように。
「キリシマさん?」
ツヤは努めて「柔らかく」、そして「理解を示そうとする」ような声 Princess / トーンで問いかけた。
キリシマの手がぴたりと止まった。手にしていた何かを水中に落とした小さな音が、静かな室内に響き渡る。彼女はゆっくりと首を横に向け、肩越しにツヤを振り返った。
「あら、起きたのね。まだ随分と早い時間だけれど……何か用かしら?」
ツヤはその声の調子に、内心で少し驚かされた。二人の子供を亡くした直後だというのに、あまりにも平然としたトーンだったからだ。途方もなく強靭な精神の持ち主なのか、それとも、もとより子供たちへの愛情が薄かったのか。
ツヤにはまだ、この世界における「家族」のあり方やその重要性が完全には理解できていなかった。だからこそ、『案外、この世界では大した問題ではないのかもしれない』と割り切ることもできたはずだ。しかしそれだと、昨日彼女が見せた死の報せに対するリアクションが嘘だったことになってしまうが、とても演技には見えなかった。
「少し前から起きてたんだ。他の連中も起きたかどうか、様子を見に来ただけで」
キリシマは視線を元に戻し、再び食器をこすり始めた。ただし、先ほどよりは少し穏やかな手つきだった。
「レツカはまだ寝ているわ。ツクモはそろそろ支度をしている頃でしょうね。普段なら市場へ出かける時間けれど、あなたたちが集めてきてくれた卵がまだ残っているから。……他の人たちのことは、よく分からないけれど」
彼女の観察を終えると、ツヤは静かに言葉を返した。
「分かりました」
しばしの沈黙が流れた後、ツヤは立ち去ろうとして扉の手手をかけた。
「待って、ちょっといいかしら……」
ツヤは足を止め、振り返ってキリシマを見た。これで、彼の不必要な推測にも決着がつくだろう。
「あなた、もしかしたら……誰かを失ったときには何日も喪に服すような、そんな場所から来たのかもしれないわね」
ツヤは完全に身体を彼女の方へ向け、キリシマを見つめた。
「私がレツカと結婚する前の、実家でのしきたりみたいなものなのよ。最初の日は悲しみを露わにしてもいいけれど、その後まで引きずって悪感情や陰鬱な気に取り憑かれるのは『大げさ』だとみなされるの。それに、私たちには天国の信仰があるでしょう? だから……これでいいのよ」
ツヤはその言葉をひとつひとつ受け取ったが、脳内で深く思案したり、噛み砕いたりしようとはしなかった。「天国」という単語を除けば。要するに、想定していたものとは多少違っていたものの、本質的には似たようなものか、とツヤは結論付けた。敬意を表すべきなのかもしれないが、そうする気にはなれなかった。
「なるほど。……説明してくれて、ありがとうございます」
キリシマは会話を打ち切り、ツヤもまた厨房を後にした。
自分勝手で不躾な分析ではあったが、彼自身の視点からすれば理にかなっており、大枠においては有用な情報と言えた。住まわせてもらっている家の人間について知れば知るほど、それは将来への投資となるからだ。
本当なら、ニッツェやウイタあたりがこういった裏の探りを入れる計画を立てるだろうと予想していた。特にウイタなどは「あらゆるものから可能な限り情報を得よ」という哲学を実践するタイプだ。少なくとも、ツヤはそう思っていた。
ツヤは階段に辿り着くと、上の階へと上がった。女子たちの部屋へは向かわなかった。彼女たちがまだ寝ている可能性があったし、サラマもそこにいるはずだったからだ。彼は男子たちの――正確にはルサーたちの部屋へと静かに足を踏み入れ、そっと室内を見渡した。
そこには、大の字になって盛大に寝相を崩しているキメケノと、同じく豪快なイビキをかいて眠りこけるルサーの姿があった。シンソは目を覚ましたばかりのようで、パチパチと何度もまばたきを繰り返している。そして、キメントの姿だけが部屋のどこにもなかった。
シンソはぼんやりとした意識の中でようやくツヤの存在に気づくと、ふっと微笑んだ。それは、目が覚めたばかりの無防備で、どこか愛くるしいシンソ特有の安らかな笑顔だった。
「おはよう、ツヤ……!」
「おはよう、シンソ。キメントはどこだ?」
シンソはもう一度部屋の中をぐるりと見回してから口を開いた。
「さあ……全然分からないや」
すぐ隣から、大きな呻き声が上がった。
「口を慎め……! あのバカのせいで、俺はもう一度起こされてんだよ!」
「は?」
不機嫌そうに顔を歪めたキメケノが毒づく。
「どっか行ったんだよ! 俺が知るかよ! だから頼むから静かにして寝かせろ!」
「悪いが、そうもいかないんだよな。そろそろ朝食の準備が始まるぞ」
さらに輪をかけて不機嫌そうな、怒りに満ちた声が上がった。
「おい……なんで黙れねぇんだよ……!」
ルサーがボサボサの頭で布団の上に座り込み、ギロリと殺気立った視線を向けていた。
「言った通りだ、お前にも同じことが言えるぞ――」
「うるせぇ! こっちは夕べの葬式回りのせいで寝るのが遅くなったんだよ! 朝からお前らの無駄話に付き合ってられるか!」
ルサーの視線が、ツヤの隣にいるシンソへと向けられた。
「……誰だ、そいつ?」
ツヤは呆れたように目を細めた。
「冗談だろ?」
「ああ……そうかよ。ちっ、無駄に肌がすべすべしてやがんな」
シンソは顔を赤らめ、身を縮めるようにして自分の体を腕で抱え込んだ。
それを見たキメケノがジト目で口を挟む。
「なになに? お前、もしかしてそっち系の変態なわけ?」
「どうでもいいだろ! いいか、飯ができる少し前に起こせ。分かったな?」
ルサーが再び潜り込もうとしたところで、ツヤは言い放った。
「それと、少し剣の素振りでもしようと思ってな。だから起こしたんだよ」




