日常生活は元には戻らないだろう…。
もう二度と、ただの学校生活などなくなるだろう。
ツヤは漆黒だったはずのピラミッドを固く握りしめていた。だが、その内部は今や完全に空洞と化している。
恐る恐る背後を振り返ると、そこには怪訝な顔つきで自身を見つめる友人たちの姿があった。五体満足で、誰も血を流していない――。
限界だった。ツヤは弾かれたようにピラミッドを芝生へ投げ捨てた。直後、堰を切ったように腹の底から嗚咽が込み上げ、彼は無様に地面へ這いつくばりながら両手で頭を抱え込んだ。
「……この、化け物めっ!……嫌だ……もう、嫌だぁっ!!」
必死に呼吸を整えようとするが、肺が酸素を拒絶する。極限の過呼吸の果てに胃袋が痙攣し、ツヤはその場に酸っぱい胃液をぶちまけながら、ヒューヒューと濁った息を繰り返した。
さっきのは一体何だったんだ? 全員が互いを惨殺し合う、あの狂気の地獄絵図は何だったのか? 何が起きたというのだ?
ツヤは地面を激しく叩きつけながら、怒りと恐怖をぶつけるように叫んだ。
「今のは一体何なんだよ!……なんで……なんでだよ……っ!?」
その尋常ではない異変に気づいたナツキが、すぐさまツヤの元へと駆け寄り、震える背中にそっと手を添えた。
身体を硬く縮こまらせているツヤを、彼女は宥めるように優しく撫でる。
「ツヤ君……? 一体どうしたのですか、突然?」
シンソもキメントの腕から離れ、慌ててツヤの隣へと駆け寄ってきた。
「ツヤ君……大丈夫?……ボク、すっごく心配だよぉ……」
ツヤは震える指の隙間から、二人の顔を見つめた。
先ほど脳裏に焼き付いた、ナツキが自らの眼球を突き刺し、ドロドロに抉り出す光景……地面を埋め尽くしたあの鮮血。
そして、シンソの頸椎がへし折られ、不自然に右側に傾いたまま崩れ落ちたあの瞬間――。
ツヤは一度きつく目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(……落ち着け。冷静になれ)
彼らは何も分かっていないのだ。もし自分がこのまま狂ったように怯え続ければ、確実にみんなを無用な恐怖に陥れることになる。
彼はもう一度深く呼吸をし、ゆっくりと上体を起こして芝生に座り直した。
先ほどの凄惨な幻覚の中で、キメケノが全員を惨殺するために使ったあの斧が、すぐ目の前の巨木に深く突き刺さっている。ニッツェの頭部が真っ二つに割られたあの光景がフラッシュバックするが、ツヤは激しく首を振ってそれを記憶の底へ無理やり押し込んだ。
そして、生唾を飲み込み、顔を上げる。
額に冷や汗をにじませながら、精一杯の作り笑いを浮かべてみせた。
「……あぁ、大丈夫だ。ちょっとあのピラミッドに触れた瞬間、急に立ち眩みがしただけさ……へへっ」
照れ隠しのように手を後頭部に回し、わざとらしく不自然に笑ってみせるツヤ。
ナツキは不審そうに柳眉をひそめた。
「本当に大丈夫ですか? 救急車を、呼んだ方がいいのでは……」
すると、シンソが我慢できなくなったようにツヤの身体に飛びつき、心配そうにギュッと抱きしめた。
「もうっ! ボクをすっごく怖がらせたんだからね、このおバカぁ!」
シンソの勢いに押され、ツヤが再び地面にひっくり返ると、それまで張り詰めていた一同の顔に、ふっと和やかな笑みが浮かんだ。シンソがその場を引っ掻き回してくれたおかげで、一気に空気が緩んだのだ。もっとも、キメントだけは相変わらず冷徹な表情のまま微動だにしなかったが。
ツヤはシンソの頭のてっぺんに手を置き、鬱陶しそうに軽く押し退けた。
「おい、やめろって! 離れろ!」
しかし、シンソは顔をツヤの胸元に擦り付けながら、嬉しそうにクスクスと笑っている。
「絶対に嫌だもんねー!」
そんな微笑ましい光景が続く中、エラの視線がふと、地面に転がるピラミッドへと向いた。
「ねえ、みんな……。このピラミッド、さっきまで真っ黒じゃなかったかしら?」
その言葉に、ニッツェが目を細める。
「言われてみれば……今は中身が透けきって、完全に空っぽに見えるわね」
ウイタも無言で頷き、その奇妙なピラミッドを注意深く観察し始めた。
ツヤはついに力任せにシンソを突き放し、勢いよく立ち上がった。
「やっと離れたか、この粘着野郎!」
シンソは芝生の上に転がり、上体を起こしながら不満そうに唇を尖らせる。
「……でも、本当に妙だな」ツヤは話を逸らすように言った。「触った瞬間、中の『何か』が一気に抜けたような……。それとも、色が変わっただけなのか?」
ツヤの脳内は、先ほどの地獄の幻覚とこのピラミッドの因果関係を必死に結びつけようとフル回転していた。あの悍ましい化け物は、自分がこのピラミッドに触れた瞬間に現れた。ということは、この物体の中にあの化け物が封印されていたということか? あるいは、あれとこの世界を繋ぐ一種の『門』のようなものか……? いや、それとも……ただ自分自身の精神が引き起こした異常現象なのか……?
全員が思考を巡らせていた、その時だった。
突如、足元から空間が歪むような地鳴りが響き、耳慣れない奇妙な音が周囲を満たした。それはまるで、荒れ狂う『波の音』のようだった。しかし、こんな学校の中庭に海などあるはずがない。到底不可能な現象だった。
直後、通路の脇から、彼らに向かって三人の人影が音もなく歩み寄ってきた。
彼らの衣服は、現代のものとは明らかにかけ離れた異様な意匠を凝らしており、その顔面は不気味な仮面で完全に覆われていた。全員が尋常ならざる巨躯で、見上げるほどに背が高い。
中央に立つ、体つきからしておそらく女性と思われる人物が一同の目の前でぴたりと足を止めると、左右を固める二人の男と思しき巨漢たちが、流れるような動作で左右に展開した。
そして彼らの腰の両側には、鈍い光を放つ『剣の柄』がはっきりと見えていた。
(……この時代に、剣だと?)
ツヤの脳裏に警鐘が鳴り響く。
瞬時に包囲されたことを察し、友人グループは自然と互いの距離を詰め、身を寄せ合った。
キメケノは即座に拳を固く握り締め、キメントは相変わらず氷のように冷たい視線を崩さない。ニッツェは相手の戦力を計算するように冷徹な目を向け、エラは警戒を孕んだ瞳で彼らを観察している。シンソは怯えたようにツヤの背後に身を隠し、ウイタは中央の女性らしき人物にじっと視線を釘付けにしていた。
ナツキが状況を打開しようと、まさに交渉のために口を開きかけた、その瞬間――。
中央の仮面の人物が、地を幾重にも這うような低い声で問いかけてきた。
「……ピラミッドに酷似した物体を、見かけなかったか?」
一同は驚きと困惑の表情で見合わせた。
「……あぁ、それならここにあるが」
ツヤは自身の後ろの地面から空のピラミッドを拾い上げ、彼らに提示した。
すると、仮面の人物の放つ空気が、一瞬にして明確な驚愕と、そして――『恐怖』へと変わった。
「な……なぜ、中身が『空』なのだ……!?」
「さあな、俺たちにも分からない。俺が手に取った瞬間、その黒い色が消えてこんな風になっちまったんだ」
ツヤが答えると、中央の女性は一歩、激しく足を踏み出した。
「貴様が触れたことで……『起動』したというのか!?」
ツヤは片方の眉を不機嫌そうに釣り上げる。
「起動だと……? 一体どういう意味――」
言い終わる前に、強烈な蹴りの衝撃がツヤの腹部を貫いた。
ツヤは絶叫と共に地面へと激しく叩きつけられ、手からピラミッドが転がり落ちる。息が詰まるツヤの首元に、容赦なく硬いブーツの底が踏み降ろされた。
「ぐはっ……あぁっ……!」
「――他のガキどももすべて拘束しろ。緊急事態だ」
中央の人物が冷酷に命じると、左右に控えていた二人の巨漢が、電光石火の速さで友人たちへと襲いかかった。
シンソが悲鳴混じりの怯えた声を漏らす。
「ひぃっ……な、何するの……やめて、お願いだからぁっ!」
「てめぇら、ふざけんじゃねェぞコラァッ!!」
キメケノが怒り狂って殴りかかろうとしたが、巨漢たちの動きは次元が違った。中央の人物がツヤを軽々と担ぎ上げて歩き出すのと同時に、二人の巨漢による凄まじい一撃がキメケノたちの意識を容赦なく刈り取り、一瞬にしてその場に気絶させた。
ツヤは担がれた男の肩の上から、かすれる声で必死に言葉を絞り出した。巨漢は何の苦もない様子で、ツヤを乗せたままどこかへ向かって歩みを進めている。
「どこへ……連れて行くつもりだ……俺たちを……っ」
すると、ツヤを担ぐ人物が冷たく言い放った。
「大人しく黙っていられるうちに、口を閉じておけ、ガキ」
ツヤの身体からは急速に力が抜けていった。最後に彼の視界に映ったのは、他の友人たちも同様に巨漢たちの肩へと無残に担ぎ上げられていく光景だった。
それを限界の意識で見届けた瞬間、ツヤの意識は深い闇の底へと完全に沈んでいった。




