卵パニック
死にたくない…すべてうまくいくはずだったのに。私…私…死にたくない…私を置いていかないで。
一行は足元に注意を払いながら、緩やかな川の流れへと足を踏み入れた。
「水幅は広いですけれど、足首が浸かる程度の浅瀬ですわね」
ナツキが涼やかな声で報告すると、先頭を行くルーサーが振り返って短く頷いた。
「全員無事なら、このまま進むわよ。目的地はそれほど西へ外れていないわ」
川を渡り切った一行の視界に広がったのは、以前サラマと共に歩んだ地を彷彿とさせる、青々とした草原とゆるやかな丘陵地帯であった。しばらく足を進めると、鬱蒼とした低木が群生する、程よい規模の森の入り口へと辿り着く。
「いいこと、立方卵は主にこの藪の奥深くに隠されているわ。ただし……さっきの私の警告を忘れないことね」
ルーサーが低く静かな声で指示を出し、身を低くして森へ侵入すると、他の者たちも互いに距離を取りながら草むらを探り始めた。
その時、緊張に肩を小さくすくめたシンソが、ツヤの袖を控えめに引いた。
「ねえ、ツヤ……僕、少し胸騒ぎがするんだ。……一緒に探してもいいかな?」
「ああ、もちろんだ。まずは、この藪から調べてみよう」
ツヤは慎重な足取りで低木へと近づき、腰の柄にそっと手を添えた。息を殺して距離を詰めるが、静寂のなかに怪しい羽音や振動は感じられない。
「よし、気配はないな。中を確かめてくれ」
「よかった……!」
胸を撫で下ろしたシンソは、華奢な身をかがめ、密生する枝葉の隙間へそっと細い手を滑り込ませた。やがて、指先に硬質で冷ややかな手触りを感知する。
「あ……あったよ!」
「上出来だ。慎重に引き出せ」
「うん、……あ……?」
手応えを得て引き抜こうとした瞬間、シンソの指先に小さな引っかかりが生じた。
「どうした、シンソ?」
「ううん、何でもないよ。何か別の硬いものに触れたような気がして……」
首を傾げるシンソの手元から、突如として『それ』が姿を現した。
重厚な角型の殻に覆われた胴部。その背面からは、ルーサーの描写通り、二節に分かれた不自然な長方形の尾が伸びている。先端側の尾は極めて細く、異様に長い。全体はくすんだ褐色に包まれ、表面には不気味な灰色の斑点が浮かび上がっていた。脚部は肉眼では判別できぬほど小さく、首の境目すら存在しない異形の生命体。
それが――一瞬の微動だにせず、目と鼻の先にいるシンソをじっと見つめていた。
「――――ッ」
ツヤとシンソは息を呑み、その場に凍りついた。死の気配を纏った魔物が、至近距離で佇んでいるのだ。
ツヤは咄嗟に正気を取り戻すと、シンソの華奢な手首を掴み、音を立てぬようじりじりと後方へ引き戻そうとした。
だが、魔物は逃がさなかった。
信じがたい俊敏さで、角張った尾を左方向へとしならせる。
ツヤとシンソの視界を掠めたのは、タンポポの綿毛を思わせる丸い塊が、超絶的な速度でシンソの顔面へと肉薄する光景のみであった。攻撃を終えた魔物は、何事もなかったかのように静かに藪の奥へと消えていく。
見開かれたツヤの瞳に安堵の色が混じり、隣の少年に視線を向けた。
「無事か……シンソ……!?」
「え? うん、僕は平気だよ……? ……どうしたの、ツヤ? そんな顔をして……」
ツヤは咽喉の奥で息を詰まらせた。
シンソの左顔面は、まるで粗い砥石で削り取られ、炎で焼き尽くされたかのように惨烈な爛れを起こしていたのだ。
「ツヤ……っ?」
次の瞬間、シンソは平衡感覚を失い、ツヤの胸元へと崩れ落ちた。慌ててその体を抱き留め、青ざめた顔を覗き込む。
「し、シンソ……ッ!」
「息が……苦しいよ……すごく、気分が悪くて……っ!」
シンソの細い身体が激しく痙攣を起こし、絶望的な吐気とうめき声に見舞われていく。
「落ち着け! 息を吸うんだ……頼むから……ッ!」
あまりの恐怖に、シンソの瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「嫌だ……死にたくない……僕、死にたくないよ……っ!」
その切痛な叫びは、ツヤの精神を容赦なく引き裂いた。
身震いは激しさを増し、シンソの身体はガクガクと大きく揺れた。苦悶と絶望に満ちた掠れ声が喉から漏れ出す。
ツヤは至近距離で悟ってしまった。あの『立方卵』が放った綿毛のような塊――それこそが、微細な毒針を集約させた致死の針弾であったのだ。散開した無数の針が、シンソの皮膚を貫いていた。
――その時、酷薄な感覚がツヤの手のひらを襲った。
シンソの瞳から光が失われ、その体温が急速に奪われていく。
口から泡を吹き、過酷な苦痛の果てに、少年は命の灯火を散らした。
何が起きたのか理解できず、呆然としたまま、ツヤは光を失ったシンソの双眸を見つめ続けることしかできない。
「嘘だ……嘘だろ……頼む、目を開けてくれ……ッ!」
返答はない。
「誰か……! 誰か助けてくれッ!!」
ツヤは喉を潰さんばかりに悲鳴を上げた。亡骸となったシンソを強く抱きしめ、荒れた髪を何度も撫でつける。胸元に顔をうずめ、痛切な慟哭を静寂の森に響かせた。
「おふたりとも、無事ですか――」
ウイタの足音が途絶えた。目に入ったのは、死体にすがりついて慟哭するツヤの凄惨な姿。
「ツヤ……様……?」
「俺のせいだ……! 危険だと知りながら、あいつが怯えていたのに、俺が藪を調べさせたからだ……! 俺のせいで、シンソは苦しんで死んだんだッ!」
荒い呼吸を繰り返しながら、ツヤは虚空へ言の葉を吐き捨てた。
「すまない……すまない……っ!」
ウイタは顔を蒼白にし、他の仲間を呼ぶべく即座に走り去った。
――突如、ツヤの意識が跳ね起きた。
ハッと周囲を見渡す。仲間たちの気配はすでに離れ、自分はひとりで立っていた。
しかしその直後、耳を疑うような――あまりにも愛おしい声が届く。
「ねえ、ツヤ……僕、少し胸騒ぎがするんだ。……一緒に探してもいいかな?」
ツヤは目を見開き、弾かれたように振り返った。
「え……? ツヤ……? どうしたの、そんなに目を見開いて――」
ツヤは言葉を遮り、シンソの華奢な体を強く、強く抱きしめた。その頸筋に顔をうずめる。
「よかった……本当に、よかった……っ!」
「きゃっ……!? 一体どうしたっていうの、ツヤ……?」
しばらく固く抱きしめた後、ツヤは息を整えてシンソを見つめた。
「いや……ただ、お前を抱きしめたくなっただけだ……ふふ」
シンソは可憐にクスリと微笑んだ。
「もう、呆れたな。そんなことなら、最初からそう言ってくれればいいのに。意地悪ね」
「ああ……そうだな。ありがとう」
「さあ、気を取り直して、目的の卵を探そう!」
再び先ほどの低木へと向かうが、今度はツヤが前に立ち、刀の鞘で慎重に枝葉をかき分けた。怪しい手応えがないことを確認すると、中に転がっていた『立方卵』をひとつ引き出し、シンソの足元へ転がした。
「よし。ここにはひとつだけのようだな」
「まあ……! これ、思った以上に重いね……!」
「たったの二貫(約二キロ)だぞ?」
「卵ひとつ分の重量としては、という意味だよ」
「ふ……そうだな。十分だ、みんなのところへ戻ろう」
合流地点へと歩を進めると、集まっていた仲間たちの賑やかな声が聞こえてきた。
「あ! いたぞ!」
「ちょっと、あんたバカなの!? 体ばかり大きくて、中身はただの脂身じゃないのッ!」
ニッツェが怒鳴り散らしている。
「誰が脂身だッ! 頼まれても手伝ってやらんからな! 大体、その暴言は何だッ!」
キメケノが吠える。
「お二人とも落ち着いてください……。エラ様は大丈夫ですか?」
ウイタが宥める。
「ええ、二個くらいなら余裕で持ち運べますわ」
エラが余裕の笑みを浮かべる。
「ナツキちゃんは?」
「私はひとつで十分です」
ナツキが答えると、ルーサーが言った。
「上出来よ、おチビちゃん。そのまま運びなさい」
「何が師匠役よ……教え方が雑すぎるわ」
「黙りなさいッ!」
不毛な口論を繰り広げる一行の元へ、ふたりは辿り着いた。
「あら、ふたりとも。幾つ回収できたかしら?」
「ひとつだ!」
全員が持ち寄った『立方卵』を地面へ並べる。
「よし、合計八個ね。これだけあれば朝食の分としては十二分だわ。怪我人や、怪しい魔物に襲われた者はいないかしら?」
「ああ、俺たちは何も遭遇しなかった」
ツヤが答えると、ルーサーはフンと胸を張った。
「そうでしょうね。森の中央に、熟成した苔の塊を投げ込んでおいたから。奴らは今頃、そっちに群がっているはずよ」
「おえっ……気味が悪いわね……」
「なるほど……それで『立方体』の姿を見かけなかったのですね」
「そういうことよ」
ルーサーは満足げに胸を張り、整然と並んだ四角い卵を見下ろした。
こんにちは!作者です。新しい章を楽しんで読んでいただけたら嬉しいです!また近いうちにお会いしましょう!




