054
ある日のことである。
帰らず島の浜辺に、一艘の小さな舟が流れついた。
なんとあの帯走りを越え、一人の女が渡ってきたのである。
ヨビトはその女を見て凍りついた。
女の名はアサカ。
ヨビトの故郷の人間にして……かつて結婚を誓った仲である。
そう、つまりこのヨビト。結果としてだが二股かけていたのだ。
まあ、ヨビトにしてみれば他にどーしようもなかったのだろう。島を出ることができず、連絡を取る手段もなかったのだから。
んが、アサカにとってはたまったモンじゃない。
なにせこの女、数年間ただ一途にヨビトの生存を信じ続け、とうとうこうして自ら舟を出してまで愛しい男を追ってきたのだから。
当然、アサカは怒りに怒り狂う。
無理もない。生きるか死ぬかで帯走りを越え、ようやくのことでヨビトを見つけたと思ったら、そこにはすでに別の女がいて、あまつさえ八人もの子をもうけていたのだから。
ヨビトは地に伏して詫び、ヤオも隣で平にあやまり続けたが、二人のそんな態度はアサカの怒りという火に油を注ぐ――どころかガソリンをまき散らすようなモノだった。
とはいえ今さら故郷へ戻ることも叶わない。
ここは一度入ったら出られぬ帰らず島。
ゆえにアサカは島に留まって、ヨビトらと生活を共にせざるを得なかった。
そこからのアサカは荒れに荒れ、毎日ヨビトを詰り、ヤオと娘らを虐げ続ける。
――そんなある夜のことだった。
皆が寝静まった頃、アサカはヤオがひっそりと家を出たことに気づく。
後をつけると、ヤオは島の浜辺に行き、そこで一糸纏わぬ姿となって海に入った。
ソレを見て目を剥くアサカ。
なんと海水に触れた途端、ヤオの足が魚の尾へと変わったのである。
それもただの尾ではない。八つの尾を持つ〝八尾の人魚〟――それこそがヤオの正体だった。
ヤオは目にもとまらぬ速さで海を泳ぎ、次々と貝や海藻を手にする。
不思議なことに、夜はますます激しさを増す帯走りも、ヤオがひと睨みした途端、おだやかな凪へと変わるのだ。
アサカはソレを妖の力と理解する。
そして――その力さえあればこの島から出ていけるにちがいない、とも。
やがて、ヤオが浜へと戻って来ると、アサカはその前に立ちはだかり問い詰めた。
正体を知られ愕然となったヤオはぽつりぽつりと語りだす。自分は海深くにある人魚の城の出であること。しかし禁忌を破ったがためにこの島に幽閉され、その中でヨビトと出会ったこと――。
だが、アサカにとってそんなのはどうでもよかった。
目の前の汚らわしいバケモノも、そのバケモノに心奪われたかつての想い人すらも、もはやどうでもよかった。
一刻も早く、この呪われた島を去りたかったアサカはその旨をヤオに伝える。
するとヤオはずいぶんとためらった末に了承し、己で己の右眼をくり抜いた。
曰く、その眼にはヤオの力の半分が宿っている。ソレを海に還せば一時的にだが帯走りを止められる、とのことだった。
アサカはおぞましいモノを見る目で血がべっとりとついたヤオの眼球を受け取る。
そのまますぐにでも舟を出し、島を去るつもりだった。
だがそこでヤオがすがりつき懇願する。
――どうか自分たちをそっとしておいて欲しい。
――自分はただ、この島でヨビトや子どもたちと一緒に静かに暮らしていきたいだけなのだ、と。
結論から言えばコレは悪手だった。
〝最〟をつけてもいいほどに悪手だった。
ヤオの言葉で激しい嫉妬の炎に包まれるアサカ。
アサカにしてみればその幸せは、本来自分がヨビトと享受すべきモノだった。
にもかかわらずヨビトはこのバケモノに心奪われ、あろうことかバケモノと子をなした。
バケモノに、バケモノを産ませたのである。
……自分は。
産めなかったのに。
このバケモノに、すべてを奪われたから――!
気づけばアサカは落ちていた鋭い石を拾い、ヤオの胸に突き立てていた。
途端、勢いよく噴き出す血。アサカは真っ向からソレを浴びる。
ヤオはすぐに力尽きたが、それでもアサカの気は一向に晴れなかった。
だからアサカはその足でヨビトの家へと引き返す。
そこでまず、八人の娘の末っ子に同じく石を突き立てた。
すぐさまヨビトが気づき、止めに入る。
しかし、ヨビトもまた胸を刺され倒れた。
そうして他の娘も残らず始末すると、ようやくアサカは舟へと向かった。
ヤオとヨビトと、その娘たちの血で、全身を真っ赤に染めながら――。




