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剣聖の弟


朝日が窓から差し込む。


「……いい匂い。」


ベッドの上で身体を起こしたカイルは、鼻をくすぐる香りに目を細めた。


焼きたてのパン。


シチュー。


そして、甘いハーブティー。


「起きたー?」


一階から聞こえる明るい声。


「今日は寝坊さんだね。」


「姉さん……。」


カイルは眠そうに頭を掻きながら階段を下りた。


テーブルには湯気の立つ朝食が並び、その向こうでエプロン姿のマリスが笑っている。


剣聖。


人類最強。


そんな肩書きを持つ彼女だが、家ではどこにでもいる姉だった。


「今日は休みだからいっぱい食べなさい。」


「でも姉さん、今日ギルドじゃ……」


「昼から行けばいいの!」


マリスはパンをカイルの皿へ山盛りに乗せる。


「運動するんだから、ちゃんと食べる!」


「……多いよ。」


「育ち盛り!」


「俺、十八だけど。」


「まだまだ育つ!」


「いや、身長はもう……」


「育つ!」


「……はい。」


カイルは苦笑した。


こういう時間が、一番好きだった。


誰にも見下されず。


誰にも笑われず。


ただ姉と二人で食卓を囲む。


それだけで十分だった。



食後。


家を出ると、近所の子どもたちが一斉に駆け寄ってくる。


「マリスお姉ちゃん!」


「剣振って!」


「魔法見せてー!」


「一人ずつねー。」


マリスは優しくしゃがみ込み、子どもたち一人ひとりの頭を撫でる。


誰に対しても分け隔てがない。


だからこそ、国中から愛されていた。


「……やっぱり姉さんはすごいな。」


「ん?」


「俺とは違う。」


その一言に、マリスは歩みを止めた。


「違わないよ。」


「違うよ。」


「俺は無能。」


「姉さんは剣聖。」


「世界一の英雄だ。」


マリスは少しだけ寂しそうに笑う。


「カイル。」


「私ね。」


「強いからあなたが好きなんじゃない。」


「優しいから好きなの。」


「え……?」


「スキルなんて関係ない。」


「あなたは世界一、自慢の弟。」


その言葉だけで。


カイルの胸が熱くなった。



昼。


冒険者ギルド。


王都最大の石造りの建物には、多くの冒険者が集まっていた。


「マリス様!」


「剣聖だ!」


「今日も綺麗だ……。」


歓声が響く。


だが、その後ろを歩くカイルを見ると空気が変わる。


「なんだ、無能も来たのか。」


「姉の七光り。」


「かわいそうだよな。」


「剣聖の弟なのにスキル無し。」


笑い声。


慣れている。


そう思っていた。


だが今日は違った。


「その辺にしろ。」


低い声がギルド中に響く。


全員が振り向く。


そこに立っていたのは、一人の青年だった。


短い黒髪。


鍛え抜かれた肉体。


背中には巨大な籠手。


胸元には銀色の英雄章。


『英雄序列 第八十三位』


ダレン・クロウ。


異名――


『烈拳』。


「弱い奴を笑って何になる。」


「暇なら俺と模擬戦でもするか?」


場の空気が凍る。


誰も何も言えない。


「……すみません。」


冒険者たちは足早に去っていった。


ダレンはカイルの前に立つ。


「気にするな。」


「強さなんて変わる。」


「俺も昔は弱かった。」


カイルは驚いた。


英雄が。


自分なんかに話しかけてくれるなんて。


「ありがとう……ございます。」


「礼はいらん。」


ダレンはニヤッと笑う。


「その代わり、身体だけは鍛えとけ。」


「スキルが無くても、身体は裏切らねぇ。」


その言葉は、カイルの胸に深く刻まれた。



その頃――。


王都から数百キロ離れた魔族領。


巨大な洞窟。


黒い玉座に、一体の魔人が座っていた。


紫色の肌。


鋭い牙。


血のように赤い瞳。


彼は一枚の紙を眺め、不気味に笑う。


「剣聖マリス・ウォーカー……。」


「人類最強候補。」


紙を燃やす。


「……面白い。」


その背後に膝をつく魔族が尋ねた。


「ブラッド様。」


「いつ攻め込みますか。」


魔人――ブラッドは立ち上がる。


「まだだ。」


「熟すのを待つ。」


「恐怖という果実は……熟してから刈り取る方が美味い。」


洞窟中に笑い声が響く。


その声は、人類に迫る破滅の足音そのものだった。



一方その頃。


ギルドの訓練場では、カイルが一人で木剣を振っていた。


百回。


二百回。


三百回。


手の皮が剥けても止めない。


「いい振りだ。」


振り返ると、ダレンが腕を組んで立っていた。


「明日、時間あるか?」


「え?」


「初心者用ダンジョンに行く。」


「お前を連れていく。」


「……俺を?」


「身体能力は悪くない。」


「スキルが無いなら、まずは戦いを知れ。」


カイルは木剣を握り締めた。


「……はい!」


その返事を聞いたダレンは、どこか満足そうに笑う。


だが、誰も知らない。


その初心者ダンジョンで、世界の常識を覆す運命が待ち受けていることを。


そして――


“無能”と呼ばれた青年が、初めて運命を掴む日が、すぐそこまで迫っていることを。


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