第1話
道真の怨霊、将門の怨霊、早良親王の怨霊、遡れば、怨霊が消えたためしはない。
皇太后穏子が入内するか否かで、朝廷では不穏な争いが勃発した。
当時の上皇から法皇になった、宇多天皇が藤原氏をけん制して二十年。
父基経が阿衡事件を起こした時以来、道真が優遇され、双璧と呼ばれる学者出の優秀な男で、宇多天皇に可愛がられる男と、藤原氏と均衡を測られてしまった。
それを寛平の治と呼ばれ、引き続き、醍醐天皇の時代は、延喜の知と呼ばれた。
醍醐天皇には一番先に宇多天皇の計らいの妻がいたが、早世。そのため、皇太子がおらず、次のお世継ぎが誰になるかで、朝廷内はぎすぎすした争いになった。
宇多元天皇(法皇)は、阿衡事件の基経の息子時平と、娘穏子を避けたい。
そうなると、醍醐天皇の弟たちを皇太弟にする勢力が、名乗り出る。
また一方で、あれは臣下でないかと言った、宇多天皇を心良く思わない陽成天皇と言う者もまだ生きており、皇位を奪おうと画策していた。
陽成元天皇は時平の父基経に譲位を迫られ、いったん降りたが、気が変わり、復位を迫っている上皇だった。己が駄目ならと、息子をつけようとしていた。
殺人事件を起こした責任を取って引退させた父の後釜を継いだ時平一派らは、懐柔しつつも本気にはさせないようにさせた。
陽成天皇に戻られては、それこそ、時平らの時代は終わる。また前代未聞の殺人事件を再び起こしたとあっては、それこそ、藤原氏の存続は不可能だった。
目の前で皇位が議論されると、他の天皇の系の子孫たちも己がふさわしいと出て来る。
朝廷内で、皇太子争いの問題で揺れては、いくら藤原氏一門の頂点に立つ時平でも押さえきれない。
そこで、時平らから、噂が流布された。
道真公が己の娘の婿である斉世親王を皇太子に立てようとしていると噂だ。
各人が後継者争いで血走っている中で、宇多天皇の側近であり、重鎮で、醍醐天皇の右大臣でもあり重鎮でもある道真公では、説得力もあった。
時平は道真を謀反の怖れありとして、左遷した。
前回、遣唐使へ出されようとして水際で止め、遣唐使廃止までした道真公だったが、多勢に無勢の勢いで容疑を晴らせず、これには逆らえなかった。後継者争いはそれほどまでに修羅場だった。
結果、時平の目の上のたんこぶだった道真公は消え、皇太子への道は確保し、争い相手を全てダンマリさせることに成功した。
そして時平は妹穏子を醍醐天皇の第一妃として結婚させた。喜んだのは、藤原氏一門だけでなく、道真公の対立派閥だった大蔵善行一派たちでもあった。
全てを手中にした安泰を手に入れ、朝廷に君臨した時平はこの世の春を迎えた。
その後、異変が続いた。時平は政変後、十年せず、三十九歳で病死。
皇太后穏子も二十歳まで育てた皇太子を失って、その子も夭折した後、孫を皇太子に立てるも夭逝。
このままでは藤原氏自体の存続も危ぶまれる中、皇太后穏子はまた38歳で皇太子を産んだ。3年間、几帳の中で育てた朱雀天皇である。その後、村上天皇も40歳以上で産んだ。
平安貴族の女たちが生きてそこそこ二十代で次々死んでいくのを思うと、かなりの健康体だった。それも常軌を逸した事態である。
その後も、不審な死や事件が相次いだ。
清涼殿落雷事件で、道真公を追放した藤原菅根が雷に打たれて死んだ。そのほかの家臣らも、不審な死や怨霊事件。
それを見て体調を崩した醍醐天皇も早世、つづいて宇多天皇も・・・
それからも、平将門の乱、藤原純友の乱の同時勃発。富士山噴火など、災厄が続いた。
人は、怨霊の祟り、道真公の呪いと噂した。
ある時、後宮の中に犬の死骸が投げ入れられる事件が続いた。
怨霊の祟りを怖れた皇后穏子は、霊験顕かな法師を呼び集め、清めの祓えと読経を繰り広げた。
ようやく悲願かなって朱雀天皇の御代になったが、朱雀天皇には子がおらず、後継者には穏子が高齢になって産んだ皇太弟成明親王(のちの村上天皇)がつけられた。
ただ、朱雀天皇は若く、お世継ぎが出来る可能性はある。しかし、虚弱な体質として、妃はほとんどいなかった。
忠平らの政治の場である内裏の中枢では、女御を入れるか、お世継ぎを誕生させるかで頭を悩ませる一方、再び、後継者争いの気配が生まれていた。つまり、ふたたび天皇らの直系、陽成天皇の子孫らなどが出て来る気配が。
狂ったと噂の実頼も、帥輔らとの対立をする。朝廷の密議では、大勢顔を突き合わせて、不穏な気配に揺れた。
御簾の中にいる天皇の母も、今天皇の座所である清涼殿の背後の後宮にいる。




