第10話
その夜だ。
ううう・・・
人が寝静まった頃だ。久子は前に聞いたあの声を聴いた気がした。
(最初村に来た時、百鬼夜行の声と同じ声が・・・?)
気のせいか、でも、本当に聞こえたなら、大事になると思い、まさかと思いながらじっと耳を澄ませたら、ごごごぶおおお・・・という妙な音もする。気のせいかとったが、何かごごご・・・と近づいて来ているようである。
(だ、大丈夫よ、たぶん)
家令も大丈夫と言った。大勢、ここで生きているのも、何事もない証拠。焦らない焦らない。そう思って、そっと蔀戸を開けて、外を見て見た。
すると・・・
星空の瞬く濃紺の夜空。今日は晴天だ。雲ひとつなく良く澄んでいる。だから、周りがすっきり良く見える。三日月の月明かりも綺麗に、月影を落したりして。だから、よく見えたのだ。さまざまな怪物が集まって、移動して来る百鬼夜行が。
(あの時、農村で見たものが・・・!)
久子が農村を襲う怪物の行列を見た時。
久子は思わず、外に飛び出し、空を見上げた。月明かりを浴びて、青白い光を放ち、それが降りて来る・
(晴明の言っている通り、来た。というか、奴が入れた)
道真公でも、バケモノ軟膏でも、胴の職人でも来るのだ。魑魅魍魎が新たに来ないわけがない。
あれが来たら死ぬだろう。食われて、噛みしだかれて、体を引きちぎられて。
どうして想像していなかっただろう。農村に出没する百鬼夜行が、屋敷に来ることを。
久子は思わず逃げて、部屋の中に入り込み、そこでかがみこんだ。
(怖い)
自分は死なない体としても、万一、死ぬ惧れはある。もし助けに来るあの方が遅れたら、鬼はいったいどのように人を襲うか。都の噂話では、怖ろしい物語が売り物の話として大いに語られている。それを知っていると怖い。
(く、来る・・・)
だ、だだだ、大丈夫。大丈夫よ。今まで鬼が本当に襲った話なんて聞かない。噂よ。夢よ。これは夢。悪い夢を見ているの。
「久子。そこにいるのか」
その時、戸が開いて誰かが来た。でも久子は膝に顔を埋め込み、見れなかった。とても見る勇気がない。
「お前は大丈夫と言ったのに、怯えているのか」
ふわり、と温かい何かがかかる。温かな厚みのある上着だ。
「久子、今日は何があっても、外に出るでない。今から何があっても。分かったな」
落ち着きのある若様の声で、久子はとたんに緊張が解けて安堵した。
(大丈夫、若様が言うなら大丈夫)
「ぶるぶる震えて、可愛い小鳥ちゃん、食ってしまおうか」
だが、その声がだんだんと低くなり、地面を震わせるような冷たさを帯びた。頭をなでなでされて気持ち良かったが、若様のその異様な声が聞こえて、目を開けると、若様が微笑んでいたが、以前の若様ではなかった。だんだんと頭から角が生えて来て、指先には黒い爪が伸び、目がランランと赤く染まり、体も強大化していく。
「そんなに怯えて、可愛いのなら、食ってやろう」
「わかさ・・」
久子は抱き締められて、よしよしと頭を撫でられる。安心して、久子の体の震えが止まった。
若様の足音が遠のいて、戸を閉める気配がした。
外で何か叫び声や悲鳴が聞こえた。唸る音。叫ぶ音。大勢が逃げ回り、戦っているようだった。久子はもう見ることも動くことも出来なかった。
大丈夫、大丈夫と心の中で唱えた。
最初来た時、農村へ降りた百鬼夜行を若様が追い払ってくれた。
奴隷商人に襲われた時も、救ってくれた。
優しい若様とは別人だったけど、あれは若様。
商売で何でも出来る。確かに、豪語した。でも、久子だって、鬼が怖い。妖が怖い。穢れや怨霊など、耐えるなど無理だ。
多少、バケモノが出る一帯で図太くなったのは、あれは強がりの一部でもある。商売は、生きる上で必要だから。本当は心底怖い。
それでも、出ていけの若様の言葉をいなしたのは、若様を信じていたから。
若様は久子に仕入れ係をさせてくれた。若様ほど、久子を信じてくれた人はいない。久子の力を見抜き、仲間にして、頼りにしてくれた。若様ほど、久子に与えてくれた人はいない。温かい寝床を用意して、片隅でも置いてくれた。この屋敷しかない。この屋敷の外など、生きられる場所だろうか。
でも鬼は怖い。命を奪う存在。鬼と遭遇して、本当に恐怖せずにいられない。
がたがたと震える体を押さえながら、耳につんざく悲鳴を必死で我慢しながらも、たった一つだけ久子は真実を胸に抱いた。
(若様がいたら、助かる)
久子は若様だけは信じられる。
バケモノよりよっぽと人間のほうが怖いってことを、久子は知っている。人間を品のように並べて、助けを求めても誰も気にもかけず、誰も同等の人間と見なかった。売られて当然の人間。助けない者たち。泣いても喚いても、無視する。そんな者として扱われた。でも、若様だけは助けに来てくれた。
奴隷市場でどこか知らない土地へ売られたら、京の町へ戻れる日などいつになっただろう。
(あの人だけ、私を人間として扱った)
たとえ何があっても、若様だけは、信じられる。鬼の姿をしていても、優しさが狂暴さに奪われていても。本当の若様は、奴隷市で久子を助けに来てくれた人だ。怖い二重人格でも、鬼の仮面を被っていても、決して悪鬼には染まらない。きっと・・・必ず。
若様がきっと退治してくれる。だから、大丈夫。
恐怖で体が震えて、正気も消えていきそうになるが、たったそれだけ信じて、久子は恐怖を我慢した。
どたばたと、騒がしい夜だった。
庭の木々は破壊され、砂利は飛び、灯篭は倒れていた。嵐が過ぎ去ったかのようだった。部屋という部屋の中は花瓶が割れ、白磁の食器が割れて、飛び散っている。
(食器が割れまくっている・・・?)
市場で大量に器購入せねばならない理由が分かった。
部屋には家具が倒れ、女たちが着ていた着物が落ちていた。
その上、屋敷にはあれだけ大勢いた侍女、下女、下男たちが、誰もいない。
閑散とした屋敷にシーンとした静けさだけがある。
「あの・・・おばちゃん?姉貴?誰か、いませんか?」
小鳥の声だけが、ピチピチと鳴いている。さすがの久子もおかしいと思った。
「まったく、若様。また、やってくれましたな」
その時、母屋で爺やが若様相手に怒っていた。やった。人がいたと。久子は安堵して駆け寄った。
「また、屋敷の全員、消してしまわれた」
「え・・・全員?」
母屋の部屋の前に行って、久子は思いっきり聞いてしまった。被せられた袿をぼとっと落した。
「まあ、そうだな」
若様は陽気に笑う。大人しくも風雅さもない。まるで最初の印象とは違った人になった。まだ多少、鬼が残ってるみたいだ。
「だって、仕方ないだろ。妖怪変化が来たんだ。構っていられるか」
「そうは言っても、また、晴明に式神を頼まねばなりません」
「姉貴たちは、式神だったのですか?」
改めて、分かってはいたが、念のため聞いてみた。
「そうなのだ。もう分かったので言うが、若様のお屋敷の者たちは、長兵衛と私、老婆あを除いて、皆、使役として使う傀儡。つまり、偽人間だ」
「陰陽師が式神として使う、あれ?」
神妙に家令の爺やがうなづく。
「毎回、若様が暴れるので、誰も雇えなくなって、それでは源家にふさわしからぬと高明様が頼んで、晴明が人形を使って使役魔を召使によこしたのだ。だが、たびたび、若様は暴れて、家の者を食ってしまい」
「く・・・食って?」
若様は鬼がまだ残っていて、ガハハと笑っているが、ひとごとではない。
「あの百鬼夜行は?」
「若様が退治してしまわれた。食って」
(食った・・・?)
久子もあれは、食われそうになったのか?




