第2話
おんさだば、さだばさだばん・・・おんさだば・・・
その日も後宮では、読経の声が鳴り響いていた。
ひ、ひいいいい・・・・はああああ・・・・っふうううううう・・・
低い読経の声に混じって、護摩木が燃え、めらめらと燃える火が真っ赤にゆらゆらと上へ立ち昇り、ばちばちと弾け切った。
ああああ・・・・ひいいいいい・・・・・
護摩壇の火が天井まで明々と照らし、一心不乱に祈る中年の女の必死の形相だけが際立つ。夜闇に深い室内で光が陽炎を作り、女に刻まれたしわの濃い影を浮かび上がらせる。
「母上ー母上ー」
封鎖された後宮に来た帝が、皇太后を呼ぶ声が聞こえた。
「母上はいったい何をやっているのだ?」
「お上、穢がありまして、入ってはいけませぬ」
皇太后は敷物に座り、読経を唱え始めた。再び一心不乱に、数珠を持ち、手を合わせ、燃え上がる火を凝視する。
「穢れ?また穢れとは、何なのだ?母上、母上ー。何をしているのです?」
汗がぼたぼたこぼれ、熱さと披露に体はがたがた、ぶるぶる震えながらも、皇太后は一心に念仏を唱える。
封鎖された後宮で、皇太后は長年任された内裏の全責任の重さをただ一人負う運命に翻弄された。
兄の死、父の死、息子の死、孫の死。きょうだいの死。数々の死でも乗り越え、た。
そして、永久の時間ほど、長く兄忠平と共に、内裏の頂点に君臨。
我が世の栄華と言われる時代へと続く全盛期の基盤を築いた。
ただひたすら子を産み、帝に仕え、外戚の藤原氏に貢献し、徹底的に帝に勤めた。ある種、献身的で、賢明な女性でもある。
そうさせたのは、兄時平が政変をやり、無実の罪を着せて追い出し、我が先にと、入内した時からだ。
全権を祓い清め、全権を全て手にした皇太后は、敵を追い出した後の平和を唯一知る女太后だ。
そのため、怨霊にも手厳しい仕業をせねば終わらなかった。
完全に徹底的に。そう、まるで皇太后は、炎と同じ。
「神よ、何としても、我が帝、朱雀天皇に御子を授けたまえ。何とか、何とぞ、お世継ぎを・・」
「なんだと?またこのような法具を買い込み、祈祷をする、というのか?」
「だって、兄上。もっと祈祷をせねば、災厄は外せないのです。また災いが降りかかります」
「周囲の讒言を、どうして信ずる。お前の聞いているのは、女たちの噂に過ぎない。賀茂の親子の言う通りに祈祷したらいい」
「霊媒師や、他の陰陽師が言うことが信じられると?その研鑽を積んだ陰陽師とやらは、我が父や先の天皇がまだ成仏せず、苦しんでいるのを救えないじゃないの。犬の死体まで、投げ入れられて、内裏にどれほど災厄が投げ込まれているか。兄様は止められないじゃないの。なら、我が息子は?どうして死んだのです?皆、地獄の鬼共に捕らえられています」
「それは嘘だ。卑しい女の讒言を信ずるな。太后というお前の地位とうなる財産を狙って、つけこむ連中がいるのが分からないのか。それは多少、災難もある。内裏、日ノ本の中枢なんだ。多少、怨霊もとびかかって来る。だが、基本はお前は後宮を運営していたらいいんだ。
桓武天皇の前に、女性天皇で、どれほど混乱をきたしたか。素性の怪しいちまたの陰陽師を信じ、選抜され、大学寮で研鑽を詰んだ陰陽師を信じぬというのか?な、賀茂殿」
「はい、太后様にはこのまま内裏で、御祈祷を頂くだけでいいでしょう。十分それで、邪を祓えまする。内裏や京を守る仕事はこちらで致します。高野山も比叡山も連携しており、内裏も日ノ本も安全であるようにしております」
「兄上こそ、嘘をついておられる。ぜんぶ、嘘じゃ。兄上も、陰陽師も。ほら、陰陽師らは役に立たぬ。兄上。我が父基経がどうして、追放処分を受けそうになったか。我が兄時平がどうして、早死にしたのか。そして、我が兄が追放したあの右大臣がなぜ、怨霊となって現れたのか?なぜ、藤原菅根殿は雷に打たれて死なねばならなかったか?なぜ、仲平兄が去年死んだのか?我が息子とその孫も、なぜ死んだのです?なぜ、分かってない。兄上らは分かってないじゃないですか。
追放後、どれほど嵐が内裏に吹き荒れたか。飢饉も富士山噴火も、将門や純友の乱も、高名な陰陽師がいたって、止められないじゃないの。
先の邪宗も来たわ。お前らは嘘つきだ。役に立たないことをして、仕事をしているフリしているのよ」
「そんなものは偶然だ。確かに多少はいるだろう。だが、賀茂の親子、また安倍晴明もお前らを守っておる。何も心配ない。いや、余計なことはしないほうがいい」
「兄上は何を悠長な。我が息子が早死にし、その後、意地で、朱雀天皇と成明親王を産んだのは、私です。私が年齢を超えて出産をする決意しなかったら、今の兄上の繁栄もないのです。今の権勢を作ったのは私です。あの時産まなかったら、私らはどうなっていましたか?兄上らは私が年だからと諦めた。でも私は取り組んだから、私だから、出来た。私がやれる、やろうと思っていたから。その私が正しかった。この私が間違っているだなんて、どこにあったのです?」
「しかし、太后のお前は帝を支え、後宮を支えるのが仕事。今のままでは帝も安んじられず、後宮も妃がおらず、お前だけ。これでは我が国の将来が危ぶまれる。お前は後宮を守っていたらいい。余計なことはするな、何のために、我らと大量の官吏や女官がいるのか。お前は後宮を守っておれば良い。何のために、私らがいるのだ。私らに任せて、お前は孫の誕生でも世話を焼くのだ」
「人任せにして、我が息子を失ったも同然、もういやです。いやです。そんなのは。
今回だって、兄上に言われても、私は変えません。私が太后なのです。私が後宮を、帝を守って来ました。もし、私が兄上に任せて、何らしなかったら?今の帝はどうなっていたか。そして、内裏も。私達、女たちは帝をお支えする最後の砦。私らが投げ出すなど有り得ないのです。私が守ります。怨霊などうち祓ってやります。負けません。私たちが必ず、帝をお守りするのです」
宇多天皇に入内を止められたのを時平が退けなかったら、今の穏子はなく、入内の時から、困難を地力で打破して来た穏子の言は、重みがあった。息子たちだってそうだ。30を越してから産むなど、貴族の娘が出来る技ではない。だが、穏子は意地でも産んだ。皇太子を亡くし、一から、また産んだのだ、それも二人も。
成人になる頃には、もう穏子も老域に差しかけており、髪は白いものが混じる。その姿と迫力ある言葉で訴えられたら、忠平も言葉を失うのが常だ。
太后は誰にも止められない。それが内裏の暗黙の了解だった。そして、太后も自分のすることは止める気は無かった。
「祈祷じゃ。祈祷を続けるのじゃ」
(いったい、何をする気だ)
女は感性でものごとを知る。皇后穏子は醜い争いの中へもただ一人分け入って、後宮の勤めにも励み、嫡子も産んだ。その後、朝廷に怨霊の祟りという騒乱が吹き荒れてからも、何度も皇子を産み落とした。その子も怨霊の祟りから守るため、御簾に隠して育てた。女の感だ。太后穏子の鋭い感性がなければ、今までは乗り越えられなかったかもしれないのも確か。もし、穏子がいなかったら、また違う結果だったかもしれないのも、確か。
(女の勘か)
朝廷を牛じるのは男だとしても、お世継ぎを産むのは女だ。
忌々しい怨霊の声のような。読経の声。
(あれが後宮を閉ざしている)
女の代わりはいない。だが、女が閑散とさせている。その矛盾に気づいているのか、いないのか。
「女だ。女・・・!女しか出来ぬものだ」
何もかも手中にした、というのに、御子だけが手に入らぬ。藤原氏として権勢を誇ったのに、一か所だけ庇護がある。男ではどうしようもないもの。御子。
後宮は藤原氏の直系の娘がなる。そういうことで、藤原氏は外戚の座を確保し、朝廷も内裏も占有するという手法でやって来た。
それは、道鏡以来、二度と変わらぬ、と決めた。
朱雀天皇は体が弱く、女御もたった二人しか入れられてない。そのため、皇太子の誕生が未だなく、次の後嗣に弟である第十四子の成明親王が皇太子に立てられた。
男は無力だ。
(争い合ったって、無駄。実頼もそれが分かっておらぬ。女だ、藤原氏の行方を決めるのは)
簀子縁に立つ忠平の目は、後宮に注がれた。
時平の政変後、二度続けての政変は波乱過ぎるということで、朱雀天皇への女御はまず藤原氏の娘が産んでからということで、次に入れるのが遅くなり、対処が遅れた。生まれない今、御子もおらぬし、誰も入内してない。
さらに怨霊や穢れを排除する太后が、祈祷と祓えの読経で、後宮に来る天皇を阻止し、後宮入りを減少させている。
その噂を聞き、公卿王卿の親たちは皆、後宮を怖れて、娘を入内させようはしない。後宮は閑散とした、閑古鳥後宮だ。
(朝廷は呪われている)
それもそのはず。朝廷は呪われて当然だ。長年の血で血を争う闘争によって。散っていった善意の有志は数知れず。
忠平の兄時平も、かつての同僚を追放した。
忠平の父基経の養父良房も、一気に政権を占有した。
血の中で、栄華を独占するのが藤原氏。
今までどれほどの無垢な魂が散らされたか。
(この朝廷を牛耳るのは難しい)
忠平にとっては、皆が絶望の対象だ。
周りが危険地帯の朝廷だ。いわば凡庸であればあるほど良い。偏りも秀でた才能もない。朝廷はそうでなければ生き残れない。
なのに、実頼も怒りに染まっている。皇太后も。
論功行賞をねだる元方も忠文も。
染まってないのは、帥輔だ。
(だが・・・)
実頼は嫉妬に狂い、度を外した行いをするようになり、帥輔は皇室に手を出すようになった。
老いた忠平は、采配を振るっていた己がもういないのを実感した。肉体は言うことを聞かず、頭脳の思考力が落ち、判断能力もなくなっていた。長男実頼を後継者として育てたのは若い時。今帥輔を思うが、己の判断が正しいのか、もはや決め手も何だったか判断つかない。
(言うべきか、言わざるべきか、最後の決定を決めねばならぬ。が・・・)
言おうとすると、老いが胸の痛みを増すのだ。このところ。勤続40年以上、年は70を越し、さすがの忠平も老いには勝てず、意識が朦朧とした。
関白忠平は陣の定めの席には出席せず、後で報告したものを決める。内裏でも一人座す室を与えられていた。
(体調が悪い老齢には、ちょうど良い)
もうすでに、筆を持つ手は定まらぬ。
陣の定めがある建物で実頼が通りかかって、忠平は胸の痛みを感じながら、その姿にわなわなと震える老いた手を伸ばした。
(後継者を決める。今もう、言わねば・・・)
帥輔か、実頼か。
もう迷っている時間は、ない。
ひあああ・・・・ああああ・・・・
(あいつも、何も分かってない)
祈祷で怨霊に勝てるわけがないのに。
分かっているのは、帥輔だけだ。だが、己の判断は正しいのか、もはや忠平は分からない。
「忠平様」
報告に来た家臣によって、忠平の瞑想は止められた。
「何・・・宴と?」
「はい。皇太后様が、歌の会を開きたいと。各家の娘も招待したいと」
忠平の妹穏子の画策。いや・・・罠、か。褒めちぎったり、騙したり、良い話を持ちかけて、女を絡めとるのだ。それこそ、漁師が魚を網で絡め取るように。帝に女をあてがうために。
朱雀天皇の妃には、御子の気配もない。
(だが、女。女は気にいったものを取り合いになる。女は子供を産む。奪い合いだ。奪ってでも、良い女は奪っても、取らねばならぬ。帝のために)
皇太弟になってからも、跡継ぎが誕生したら、情勢がどう変わるか知れず、朝廷の家臣たちは、相争って次の座を狙う。
朱雀天皇か、皇太弟成明親王か。御子がどちらに生まれるかでも、時勢が変わる。それはいまだ、先が読めない。
朝廷の中も、微妙な雰囲気だ。
このままでは、新たな火種となる。それこそ、女の園でいっぱいにせねばならぬ。
「うちの娘を入れてもらいまっせ」
すでに藤原元方は次の帝を見込んで、成明親王に娘を娶せようと積極的に動いている。
「お世継ぎ、か」
今のところ、お世継ぎは生まれておらぬ。
実質、御妃選びだ。




