第2話
奉公へ出されて、貴族の娘でもない、単なる奉公人となってしまったら、長谷川久子の名前を失う。奉公人になれば、その家の財物となり、奴隷としてしか、見られなくなる。次も、どこへ売られるか分からない。
今ならまだ、長谷川久子としての、娘の立場はある。
失う前に、父の残した土地に移って、足元を築き上げる。そのほうが安全だろう。
父の冤罪も晴らさばならない。親子から家も取り戻さねばならない。
裁判のやり直しなどとなると、官吏か誰かに頼むしかない。そのためにも、今後、銭を貯めることは、必要だ。
売られたら、今のように万事働いて銭を溜めることも出来なくなるだろう。
(農業、裁縫、金貸しまで習った。大丈夫、一人でも、生きられるわ)
見通しが甘かった。ふつふつと沸き上がる得体のしれない熱いものが胸を浸した。気に入る振る舞いをしたら、義母親子も変化すると思ったのは甘かった。
義母親子が久子と今の状態で、共に暮らしてくれる気など、さらさらなかったのだ。
それかそうか。女は、外に働きに出てもいけない。久子は別だが。最後には、夫の養う力が頼りになる。
そのために、都の女たちは、男たちの出世や仕事に金を出し、必死で婿を取る。
婿入りの邪魔になる久子はいわば、厄介者。それゆえに、とうとう実行に動いたか。なるほど、と思った。
でも、何が起きても、最後まで何とかする気だった。
(何ということだろう。こちらは怒らせたくなくて、地代や食費、それを上回る手当を出していたのに)
我慢しても結局、変わらなかったのだ。鼻につくのを何とか防ごうとしたのに何も変化を得られなかった。虐げる連中からは、同情も何も、得られないのだ。温かな心情も、同じ家の下で暮らす者の気づかいも思いやりも、同情すらもない。もちろん、利益配分も久子の分など、持ち合わせてない。
久子はしっかりと地券を胸の懐の中に収めた。
・・・・・
「まあ、その土地の地券。ようやく出して来たのね。あなたの隠していた土地、私が知らないとでも思ったの?」
だが、動いたのは、義母親子が速かった。朝、久子は両側から下男に取り押さえられ、懐から地券を取り上げられた。
「返して、それは私の」
「あらやあね、狂暴な本性をやっぱり出したわね」
義妹は違うものを、ひらひらと舞わして見せた。
「あなたには、この紙切れがお似合いよ」
屋敷の外へ放り出されて、下男に紙切れを投げつけられた。
ひらひらと降りて来たのは、身売り証文。
長谷川家の家人の奴婢を、売り渡す。という証文だ。
「なに?その目?もうあなたには、どこへも行ける場所がないの。あなたの行く先は奴隷市場。こそこそ働いて、あなたにはお似合いよ。もう、戻れるなんて、思わないことね」
義妹のその目が何かを語っていた。重く、想像を絶する暗さが語るのは、婆やの姿がないことと通じている気がした。
まさか。でも、世間の人は、銭のために、命まで奪うのか?婆やも、久子自身もモノのように扱われ、ようやく気づくなんて、久子は本当に己の世間知らずだと思った。と同時に、世間のあまりにも酷薄さに、怖れおののき驚く。ただ驚き、右往左往するだけなんて、万能屋がいかに見せかけだったか。久子は己の弱さを悔いた。
「ほら、さっさと行けよ。もう、話はつけてあるんだ」
都の外へ出る羅生門まで引っ張って行かれて、放り出され、久子は地面に倒れた。力自慢の下男二人だった。久子の家の奉公人だったのに、義母親子が来てからは、義母や義妹の言うなりだ。
「あ、逃亡したぞ」
逃げた久子は、京の外れにある別荘へ行った。
家にある財産はある一部だ。入りきらない書物や宝物は、別荘に移動させてある。
証文がなくても、屋敷を管理している爺やがいるから、大丈夫。婆やと共に、家に長年奉公してくれた爺やだ。助けてくれる。
だが、行く手が赤々と燃えていた。
「山の上の別荘で火事だと」
「え、あの山の別荘?」
「なんか、火の不始末か、放火からしい。中で管理人の爺さんがいたが、財産を持って逃げたとか、盗まれたとか。爺さんも見つかってないんだと。でも、買い取りは終わっていて、建て壊す予定だったらしい。後には牛の放牧をするんだって。隣の土地地主が吸収するらしいよ。ちょうど良かったって、地元の豪族が言っていた」
「そんな、両親の形見の家なのに。なんてこと。やったことを許さない。絶対許さない。あの人ら、絶対。わあああ」
無力だ。今は何も出来ない。久子は思いっきり泣いた。泣くことしか出来なかった。
義妹の微笑みの意味が分かった。あの目は、全部を見通していた目だ。財産も土地も、すでに義妹親子の手に渡っていたのだ。
だが、曲がりなりにも父の娘だ。ここまでするか、と思った。
地面に倒れた久子に、土埃が舞い上がり、容赦なく、久子に吹き付けた。




