第22章「壁の崩壊」
花畑はどこまでも広がり、まるで風に揺れる花々の海のようだった。
生き生きとした緑の草が高く伸び、その合間には黄色、薄紫、赤、白、青――色とりどりの花々が咲き誇っている。
その場所には多くの人々が集まっていた。
皆、色鮮やかな衣を身にまとっている。青や桃色を基調とした花模様の衣服が風に揺れ、中には何枚もの布を重ねた華やかな装いの者もいた。
一人の少年が座り込み、眉をひそめる。
「つまんねぇ……」
小さくため息をついた。
木々の葉はゆっくりと揺れ、ときおり枝から離れた葉が風に乗って舞い上がる。
太陽はすでに十分な高さまで昇り、大地を温めていたが、まだ真昼のような強い熱には至っていなかった。
黄金色の陽光が花びらを照らし、残った朝露を小さな宝石のように輝かせる。
その隣には、一人の老人が腕を組んで座っていた。
「そう言うな……。もっとこういうものを楽しめるようにならんとな、焔羅」
老人は優しく手を伸ばし、焔羅の髪を撫でる。
焔羅は空を見上げた。
空は広く澄み渡り、地平線近くは深い青、その上は淡く明るい青へと溶けていく。
そこに浮かぶのは、今にも消えてしまいそうな薄く白い雲だけだった。
やがて人々が集まり始める。
風の音だけを伴奏に、楽しそうに踊り始めた。
子供たちは花畑を駆け回り、行き先もなく追いかけ合いながら、絶えず笑い声を響かせている。
老人の視線が遠くの景色へ向けられた。
「聞け、焔羅。いつの日か……あの者たちの笑顔は、お前の手に託される」
焔羅は老人を見た。
「わかんねぇな……。多すぎるだろ」
老人は小さく息を吐く。
「数など関係ない。いつか皆、お前を頼ることになる」
そう言いながら袖を整えた。
「見えるか? あの丘が」
焔羅は指を差した。
「あれか?」
老人はうなずく。
「丘というものはな、強い風から草木を守り、均衡と安らぎを保つものだ」
一度言葉を切った。
「我らも民にとっての丘でなければならん。気づかれなくともいい。だが、あの者たちを支え続けねばならんのだ」
焔羅の目が輝いた。
「守るってことか……。それが長の役目なんだな?」
老人はしばらく黙っていた。
そして静かに口を開く。
「そうだ……。たとえ己の血を流そうとも、あの笑顔を守らねばならん」
焔羅は再び人々へ目を向けた。
そこにいる者たちの顔へ。
しばらくの沈黙が流れる。
誰も言葉を発しなかった。
「……綺麗だな」
蜜蜂が花から花へと飛び回り、せわしなく花粉を集めている。
色鮮やかな蝶は風に漂いながら、不意に進路を変えた。
遠くの木々からは鳥たちの澄んださえずりが聞こえてくる。
虫たちの羽音と風のささやきが重なり合い、穏やかな旋律を奏でていた。
太陽の光が次第に強くなっていく。
景色の色彩は濃くなり、視界はぼやけ始めた。
すべてが少しずつ崩れ、意味を持たない色の塊へと変わっていく。
音も遠ざかり、くぐもった響きへと変わる。
そして記憶は、ゆっくりと意識の中から消えていった。
――∞∞∞――
一筋の涙が焔羅の頬を伝った。
「ありがとう……。教えてくれてありがとう」
その口元に笑みが浮かぶ。
風の塊が膨れ上がった。
うねりを生みながら、斧の先端で巨大な渦へと姿を変える。
土埃が舞い上がる。
落ち葉や小さな石の破片までもが地面から引き剥がされ、渦へと吸い寄せられていった。
焔羅は腕に力を込める。
斧の柄を強く握り締め、そのまま振り下ろした。
「風の渦!」
風の奔流が前方へと放たれる。
すべてを飲み込みながら、黒装束の男へ向かって突き進んだ。
同時に男も腕を振り下ろした。
無数の短刀が空を裂き、凄まじい速度で飛来する。
両者の攻撃が激突した。
衝撃波が周囲へ広がる。
しかし風の渦は刃を押し退け、そのまま男へ迫った。
男の目が大きく見開かれる。
「何だと!?」
最後の瞬間、男は横へ跳んだ。
「迅歩」
寸前で回避に成功する。
だが完全には避けきれなかった。
風の渦が身体をかすめる。
一瞬で衣服の大半が引き裂かれた。
皮膚には無数の浅い裂傷が刻まれる。
両足が浮き上がりかけるほどの衝撃。
男は数メートル後方へ吹き飛ばされ、踵を地面に食い込ませながらようやく踏みとどまった。
焔羅の筋肉が悲鳴を上げる。
全身から汗が滴り落ち、皮膚は赤く染まっていた。
「ぐっ……はぁ……っ」
呼吸が苦しい。
肺へ空気がうまく入らない。
斧が手から滑り落ち、地面へ転がった。
その瞬間だった。
無数の短刀が空を駆ける。
焔羅は瞬きをした。
次の瞬間。
何本もの刃が腕や脚を貫いた。
鮮血が流れ落ちる。
草原は濃い赤に染まった。
黒装束の男はゆっくりと立ち上がる。
「素晴らしい……。実に素晴らしい!」
地面に落ちていた剣を拾い上げる。
足を引きずりながら焔羅へ近づいた。
「言葉もないな……。君は本当にあと一歩だった。」
焔羅は歯を食いしばる。
「嫌だ……。嫌だ……。嫌だ……!」
身体を動かそうとする。
しかし動かない。
骨が軋み、傷口からさらに血が流れ出た。
男はゆっくりと近づいてくる。
「お前には敬意を払おう……。もっとも、それが何の役に立つわけでもないがな。ククク……」
ついに二人の距離はゼロになった。
男は笑う。
「おめでとう。お前は最高の相手だった……。残念だが、これが最後の別れだ」
そして。
一振り。
剣が焔羅の腹部を貫いた。
血が口元から溢れる。
視界は滲み始めた。
景色は輪郭を失っていく。
耳鳴りだけが高く響き続ける。
腕も脚も力を失っていった。
全身が焼けるように痛む。
色彩は滲み、ぼやけていく。
その中に、いくつもの顔が浮かび上がった。
焔羅は残された力を振り絞る。
かすれた声で呟いた。
「陽菜莉……春香……親父……みんな……すまねぇ……」
顔は少しずつ遠ざかる。
やがて完全に消え去った。
焔羅の瞳は動きを止める。
黒装束の男は首から下がった首飾りを引きちぎった。
太陽の光へ掲げる。
「さて……本題だ」
数分間、男はそれを調べ続けた。
指先でゆっくり回し、角度を変えながら光に透かす。
何度も確かめる。
「クソ……違う!」
首飾りを地面へ叩きつけた。
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