第21章「斧を掲げろ」
辺りには煙の匂いが立ち込めていた。
肺の奥までまとわりつくような濃い臭気だった。
黒装束の男はゆっくりと手袋を整え始める。
「さあて……本当はこんなことになる必要はなかったんだがな」
男の視線が焔羅の首に掛かった首飾りへ向けられた。
「まさか……それか? 本当にそれなのか?」
パチン、と指を鳴らす。
「一つ提案してやろう。その首飾りを渡せ。そうすれば命だけは助けてやる」
焔羅は拳を強く握り締めた。
「断る!」
男は重いため息を吐く。
「なら、お前の死体から剥ぎ取るしかないな……」
焔羅は斧を構え、黒装束の頭領は剣の柄を握り締めた。
互いの視線がぶつかり合う。
次の瞬間、焔羅は地を蹴った。
鋭い踏み込みとともに斧を振り下ろし、真正面から叩き斬ろうとする。
しかし男は身を捻り、その一撃を回避した。
斧は空を切る。
男は剣を抜き放ち、そのまま焔羅の背中を狙った。
だが焔羅は寸前で斧を持ち上げる。
金属同士が激しくぶつかり合った。
両者はすぐに距離を取る。
焔羅は斧を振るった。
刃先へ風が集まっていく。
「風斬!」
風の刃が凄まじい速度で放たれた。
草を抉り取りながら一直線に地面を駆け抜ける。
「迅歩……」
その瞬間、黒装束の頭領の周囲に風が巻き付いた。
風刃が目前まで迫る。
だが男の姿は掻き消えるように横へ跳んだ。
常識外れの速度だった。
「遅いなぁ……ヘヘヘ!」
焔羅は歯を食いしばり、眉をひそめる。
すぐさま斧を構え直し、再び突撃した。
横薙ぎに斧を振るい、男の胴体を狙う。
しかし男は再び回避した。
そのまま剣で反撃を繰り出す。
焔羅は斧を引き戻し、間一髪で受け止めた。
男は懐へ手を入れる。
次の瞬間、一振りの短刀が現れた。
狙いは焔羅の首。
焔羅は反射的に身を引いた。
刃は頬をかすめ、小さな裂傷を刻む。
焔羅はさらに一歩後退し、頬へ手を当てた。
指先に血の感触が伝わる。
「くそっ!」
黒装束の頭領は手袋を直した。
「最悪だな。もっと素早く動け。死にたくないならな」
焔羅は数秒間、その場から動かなかった。
余計な動きは見せず、ただ相手を見据える。
男は駆け出した。
剣を回転させながら焔羅の脚を狙う。
焔羅は斧を振り下ろし、正確にその攻撃を受け止めた。
そして数歩後ろへ下がる。
男は剣先を向けた。
その目が輝いた。
「そうだ……それだ!」
パチン、と指を鳴らす。
「ここからが本番だ!」
右の懐へ手を入れ、続いて左の懐へも手を伸ばした。
次の瞬間。
二本の短刀が放たれる。
速い。
男自身も同時に突撃してきた。
焔羅の目が見開かれる。
息を止める。
一振りを回避し、もう一振りを斧で弾く。
だが男はすでに目前まで迫っていた。
剣先が焔羅の身体を貫こうとしている。
ほんの一瞬。
焔羅は身体を沈めて刃を避けた。
拳を握る。
そして男の腹へ全力の一撃を叩き込んだ。
続けざまに蹴りを放つ。
男の身体が後方へ吹き飛ばされた。
黒装束の頭領は拳を握り、地面を殴る。
焔羅は笑みを浮かべた。
「どうした!? その威勢はどこへ行ったんだ! ハハハ!」
男はゆっくりと立ち上がる。
「最悪だな……ただの偶然だ」
そう言って左の懐から新たな短刀を取り出した。
風が刃へ集まり始める。
やがて短刀全体を覆い尽くした。
「風刃!」
短刀が放たれる。
凄まじい速度だった。
周囲の空気抵抗が消え失せたかのように加速する。
音すら聞こえない。
焔羅は咄嗟に斧を構えた。
だが完全には防ぎ切れない。
軌道を逸らすのが精一杯だった。
刃は脇へ流れながら焔羅のふくらはぎを深く切り裂く。
鮮血が傷口から流れ落ちた。
「ぐっ……! くそ……!」
焔羅が傷へ視線を落とした瞬間だった。
黒装束の頭領が接近している。
剣先はすでに首元へ迫っていた。
焔羅の目が大きく見開かれる。
即座に斧を持ち上げた。
激しい衝突音が響く。
二つの刃が真正面からぶつかり合った。
男はさらに力を込める。
斧が少しずつ押し返されていく。
焔羅は歯を食いしばった。
腕の筋肉が大きく膨れ上がる。
そして――
少しずつ、少しずつ。
今度は斧が剣を押し返し始めた。
男は飛び退こうとする。
焔羅は逃がさなかった。
そのまま踏み込み、突き出すように斧を振るう。
男は辛うじて回避した。
しかし完全には避け切れない。
斧の刃が腕をかすめる。
鮮血が飛び散った。
焔羅の口元に再び笑みが浮かぶ。
「今のは間抜けだったな! ハハハ!」
黒装束の頭領は傷口へ手を当てた。
「ヘヘヘ……やっぱりお前は強いな」
焔羅は深く息を吸い込む。
そして斧を高く掲げた。
「終わらせるぞ!」
ゆっくりと目を閉じる。
その瞬間――
斧の刃先へ膨大な風が集まり始めた。
風は唸りを上げながら渦を巻く。
力は際限なく膨れ上がっていく。
黒装束の頭領は両手を懐へ入れた。
次々と短刀を取り出し、地面へばら撒いていく。
「なんだ……あれは!?」
男は一振りずつ短刀へ触れた。
風を纏わせていく。
やがて短刀は宙へ浮かび上がった。
無数の刃が空中へ集結していく。
一方で。
焔羅の斧先に集まる力もなお増大し続けていた。
風の塊は周囲の草を引き寄せる。
近くの木々の葉も少し揺れ始めた。
焔羅は依然として目を閉じている。
呼吸だけを静かに整えていた。
その時だった。
記憶の断片が脳裏に浮かび上がる。
ぼやけていた光景が少しずつ輪郭を持ち始めた。
混ざり合っていた色彩が整理されていく。
遠く曖昧だった音も、次第にはっきりと聞こえ始めた。
意識はその瞬間へ深く沈んでいく。
焔羅の身体から力が抜けた。
長く息を吐く。
「――ああ……そういうことか……」
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