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第20章「愛に何の意味がある?」


 涼の傷口から血が流れ落ちていた。

 涙が頬を伝う。

 彼は歯を食いしばり、拳を強く握った。


 「この野郎……! クソったれが……!」


 涼は剣を振り上げ、男の首を狙って飛びかかった。


 だが男はただ一歩横へずれただけだった。


 容易くその一撃をかわす。


 そして次の瞬間――


 涼の腹部へ蹴りを叩き込んだ。


 「がっ……!」


 涼は血を吐きながら地面へ倒れ込む。


 「どうして……? どうして……?」


 身体を動かそうとする。


 だが骨が軋むような激痛が走った。


 史郎は顔を上げると、涼のもとへ駆け寄った。


 そして彼の前へ立つ。


 「ここから逃げよう! 行こう!」


 腕を引っ張ろうとする。


 しかし動かせなかった。


 涼は彼の目を見つめる。


 「逃げろ……頼む。お前の父さんがお前を必要としてる……行け……!」


 「嫌だ! お前を置いてなんか行かない!」


 黒衣の男は近づき、腕を組んだ。


 「青い服のガキには興味がない。俺の用があるのは、その短気な小僧だけだ」


 男は背伸びをするように身体を伸ばし、大きな欠伸をした。


 「そうだな。お前は村へ帰ればいい。誰か別の奴に殺されろ。お前の命なんてどうでもいい」


 史郎は眉をひそめ、一歩前へ出る。


 「この……性根の腐った野郎! 絶対に後悔させてやる!」


 涼は史郎のズボンの裾を掴んだ。


 「頼む……俺のためだ。ここから逃げてくれ……!」


 史郎は涙で濡れた涼の瞳を見つめた。


 涼の手は力なく震えていた。


 「涼……必ず戻る。だから……どうか生きていてくれ……」


 史郎は背を向ける。


 そして振り返ることなく村へ向かって走り出した。


 丘を駆け下りる。


 村の家々の大半はすでに炎に包まれていた。


 煙と血の臭いが空気に染みついている。


 道には無数の遺体が転がっていた。


 老人も、大人も、子供も。


 聞こえるのは炎の爆ぜる音と、遠くから響く悲鳴だけ。


 空気は熱く淀み、汗が顔や身体を伝って流れていく。


 「なんだよ……これ……信じられない……」


 身体が震える。


 煙が肺へ流れ込み、苦しい咳を引き起こした。


 「俺が愛した村が……」


 史郎はさらに速度を上げた。


 一軒の家へ向かう。


 開け放たれた扉が見えた瞬間――


 全身に悪寒が走った。


 肌が冷たくなる。


 史郎は急いで家の中へ飛び込んだ。


 涙が溢れる。


 膝から力が抜けた。


 彼は動かない身体の傍らへ崩れ落ちる。


 血に染まった袖を強く握り締めた。


 布地はくしゃりと潰れる。


 だが引っ張っても何の反応もない。


 そこには血塗れの身体が横たわっていた。


 無数の傷が刻まれている。


 周囲には赤い血溜まりが広がっていた。


 遺体はうつ伏せになっている。


 史郎は肩に手を置き、その身体をゆっくりと仰向けにした。


 「嫌だ……嫌だ……嫌だ……!」


 視界が滲む。


 心臓が激しく脈打つ。


 手が冷たく湿っていく。


 彼は身体を揺さぶった。


 「父さん! 父さん! 父さん! お願いだ!」


 返事はなかった。


 史郎の視線は辺りをせわしなくさまよっていた。


 胸の動き。


 まばたき。


 うめき声。


 何でもいい。


 生きている証を。


 だが――何もない。


 喉が焼けるように痛んだ。


 口の中に鉄の味が広がる。


 頬へ手を当てる。


 そこで初めて、自分が泣いていることに気付いた。


 涙は顎から落ち、床に広がる血の上へと零れていく。


 「嫌だ……嫌だ……」


 史郎の指は、身体の横に投げ出された手を見つけた。


 そして強く握り締める。


 「全部……何のためだったんだよ!?」


 彼は遺体を抱き締めた。


 「俺はまだ……伝えられてないのに……」


 唾が喉に絡みつく。


 言葉が出てこない。


 数秒間、荒い息を繰り返した


 「大好きなんだよ……! 苦しいくらい……大好きなんだ……!」


 嗚咽混じりに息が漏れる。


 続きを言おうとした。


 だが声は喉の奥で途切れた。


 その時――


 乾いた足音が近づいてくるのが聞こえた。


 「こっちだ! まだ生きてる奴がいるぞ!」


 誰かが叫ぶ。


 一人の男が家へ入ってきた。


 そして剣を一閃。


 その刃は史郎の身体を貫いた。


 男は剣を引き抜く。


 続けざまに、もう一度突き刺した。


 血が噴き出す。


 壁を赤く染め上げた。


 飛び散った血飛沫が男の顔へ降りかかる。


 史郎の視界は徐々に焦点を失っていった。


 すべてがぼやける。


 身体が床へ倒れ込んだ。


 最後に見えたのは――


 森田の手がわずかに自分へ伸びる光景だった。


 「父さん……?」


 ふたりの身体はすぐ傍に横たわる。


 血溜まりは重なり合い、混ざり合った。


 静寂がその場を支配する。


 もう何の音もしない。


 ただ――沈黙だけが残った。





 ——∞∞∞——





 風が静かに丘を吹き抜けていた。


 涼は残された力のすべてを手と足に込める。


 立ち上がろうとした。


 身体が揺らぐ。


 立てない。


 もう一度。


 今度はどうにか身体を起こした。


 剣を持ち上げる。


 「俺はまだ……お前を殺す……!」


 黒衣の男は剣を鞘へ収めた。


 そして歩み寄る。


 口元に笑みが浮かんだ。


 「お前は本当に楽しませてくれる。だから少しだけ長く苦しませてやろう」


 男は踏み込む。


 拳が涼の顔面へ叩き込まれた。


 涼は吹き飛ばされ、地面へ転がる。


 続けて腹へ蹴りが入る。


 口から血が溢れた。


 さらに男は涼の顔を踏みつける。


 「なんと無力なことだ」


 一度息を吸うたびに、胸の内側が削られるように痛んだ。


 空気は途切れ途切れにしか入ってこない。


 短く、足りない。


 筋肉は限界まで張り詰めた縄のように硬直していた。


 「どうして……?」


 男は答える代わりに蹴りを放った。


 衝撃で頬が裂ける。


 鼻骨が砕けた。


 涼の喉から呻き声が漏れた


 「最も愚かなのは、見ようとしない者だ」


 血が目へ流れ込む。


 視界が赤く染まっていった。


 涼は苦しそうに息を吸う。


 「父さんと母さんは……俺を誇りに思ってくれるかな……?」


 男は剣を振り上げた。


 「終わりだ」


 そして振り下ろす。


 刃は涼の胸を貫いた。


 胸部に大きな穴が穿たれる。


 涼は最後の息を吐いた。


 瞳から光が消える。


 その目は動かなくなった。


 男は剣を引き抜く。


 刃を振って血を払った。


 涼の身体から色が失われていく。


 そして――


 もう呼吸の音は聞こえなかった。


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