第23章「臆病者の幻想」
「{}」という表記は、優が何かを思い出している際に行うコメントや考察を表しています。
足を速めるたびに呼吸は荒くなり、胸が上下する。
優は後ろを振り返ろうとしなかった。視線を前だけに向け、固く食いしばった顎のまま、春香の手首を強く握り続ける。
春香は石につまずいたが、陽菜莉の手を離さぬまま体勢を立て直した。二人の指は絡み合い、温かく、そして震えていた。
数人の村人たちも後を追いながら叫ぶ。
「急げ! もっと速く! 奴らが来るぞ!」
彼らは村から少し離れた場所まで駆け抜け、ようやく足を止めた。
肺が焼けるように熱い。
「ホウェキオン様のおかげだ……! 無事だったか!」
村人の一人がそう言い、春香を抱きしめた。
「焔羅さんはどこだ!?」
別の村人が尋ねる。
春香は視線を伏せた。
目には涙が滲んでいたが、こらえて落とそうとはしない。
「後ろに残りました……あの魔物たちを食い止めるために……」
優は地面を見つめていた。
全身が震えている。
胸を打つ心臓の音が、今にも聞こえてきそうだった。
一人の村人が目を見開き、顔に手を当てる。
「くそ……くそっ……」
そのまま膝をついた。
「終わりだ……終わりだ……! もう助からねえ! 俺たちは終わりなんだ!」
唾を飛ばしながら叫び始める。
「終わりだ! 終わりだ! 全部終わった!」
別の村人が駆け寄り、その肩を揺さぶった。
「落ち着け、この馬鹿!」
その時だった。
何かが風を裂くような音が響く。
刃が空気を切り裂きながら飛来した。
それは膝をついていた村人の首を貫いた。
鮮血が噴き出す。
黒装束の人影たちが丘を駆け下りながら、こちらへ向かってきていた。
優には、すべてがあまりにも速すぎた。
刃が首を貫く音。
そして直後に聞こえた血が地面へ滴る音。
目を逸らすことができない。
(嫌だ……嫌だ……嫌だ……!)
優は振り返り、そのまま森の奥へ向かって走り出した。
(もう無理だ……! もう自分に嘘なんてつけない……!)
陽菜莉の目から涙がこぼれる。
優を見つめ、声を張り上げた。
「マツくん! どこに行くの!? 行かないで!」
だが優は振り返らない。
(嫌だ……まただ……! またなのか……!)
拳を強く握り締める。
(この最悪な感覚……もう嫌だ……!)
涙が頬を伝った。
(あの日と同じだ……! 絶望だ……絶望、絶望しかない……! 底なしの穴みたいに……!)
嗚咽が漏れる。
(嫌だ……死にたくない……! もうあの苦しみは嫌だ……!)
喉が締めつけられる。
息がうまく吸えない。
優は枝や草木を手でかき分けながら走った。
(嘘ばっかりついてきた……! 無理だって最初からわかってたんだ……! 俺は他の誰かになんてなれない……!)
背後から足音が聞こえる。
誰かが追ってきている。
(くそ……考えるのをやめられない……! 頭が痛い……!)
額に手を当てた。
足音との距離が少しずつ縮まっていく。
(ああ……思い出した……全部の始まりを……)
世界がゆっくりと遅くなる。
そして一つの記憶が鮮明によみがえった。
映像は瞬く間に形を成していく。
――∞∞∞――
空気は湿っていた。
古い木材と埃の匂いが染みついている。
それでいて喉に引っかかるような乾いた感覚もあった。
室内は薄暗い。
天井から吊るされた黄ばんだ照明だけが頼りなく明滅し、その光は部屋の隅々までは届いていなかった。
{東京に来てから、まだそれほど経っていなかった。}
カウンターの向こう側で、優は使い古された布巾を手に台を拭いていた。
その動きは遅く、機械的だった。
布を左右へ滑らせ続ける。
{来たばかりの頃は、全部がすごく新鮮だった。}
{いろんな人がいた。いろんな顔があった。}
拭く手は止まらない。
時折まぶたが落ちそうになるが、すぐに開き直す。
{でも、なぜかみんな急いでいるように見えた。}
{何かを探しているみたいに。けれど、決して見つからない何かを。}
額から汗が流れ落ちる。
腕にも汗が滲んでいた。
{たぶん……少しずつわかるようになったんだ。}
向こう側から怒鳴り声が飛ぶ。
「優! 今すぐこっち来い!」
優は部屋を出て、店舗の売り場へ向かった。
そこはコンビニだった。
蛍光灯は不規則に明滅し、青白く冷たい光を店内へ落としている。
切れた照明も多く、通路の一部は暗闇に沈んでいた。
狭い棚が整然と並び、パステルカラーの菓子や洗練されたラベルの茶飲料、光沢のある袋菓子が隙間なく並んでいる。
冷蔵設備の調子も悪かった。
一部の冷蔵庫は耳障りな異音を立て続け、別のものは完全に停止している。
曇ったガラス扉の下には、小さな水たまりができていた。
中年の男がレジ近くに立っていた。
眉間には深い皺が刻まれていた。
腕を組み、眉をひそめながらこちらを見ていた。
「遅い! もっと動け! さっさと床を掃除しろ!」
優はモップを手に取り、通路の清掃を始めた。
「聞け。今日は帰るのが遅くなるぞ」
男はため息をついた。
「釣り銭を間違えたって苦情が何件も来てる。その分は働いて埋め合わせてもらうからな」
優はうなずいた。
掃除を続けながら答える。
「はい……すみません……」
{高校も出ていない人間を雇ってくれる場所なんて少なかった。}
{この仕事だけは失えなかった。}
しばらくして床は綺麗に磨き上げられた。
「優! 早くこっちへ来い!」
優は急いで駆け出した。
しかし。
床の一部はまだ濡れていた。
足を滑らせる。
背中から酒棚へ激突した。
何本もの日本酒の瓶が落下する。
ガラスが砕け散り、酒が床へ飛び散った。
男が駆け寄る。
「この馬鹿野郎! 何してやがる!?」
胸ぐらを掴まれる。
男は至近距離から優を見つめた。
「もう限界だ。俺も我慢の限界なんだよ」
「お前はクビだ!」
優の目に涙が滲む。
顔を背け、涙をこらえるようにぎゅっと顔に力を込めた。
その時だった。
耳鳴りが聞こえた。
高く。
長く。
絶え間なく。
男の声が遠ざかっていく。
輪郭を失い、やがて完全に消えた。
{もう限界だった。}
{何も考えられなかった。}
{あれが……俺の最後の日だった。}
――∞∞∞――
優の足は徐々に遅くなっていく。
全身に焼けつくような熱が広がった。
森の中でも少し開けた場所へ出た時だった。
風を裂く音が聞こえる。
彼はわずかに後ろを振り返った。
そして見た。
一本のナイフが飛んできていた。
もう目の前だった。
数センチ先。
優は瞬きをした。
次の瞬間。
刃はすでに腹部を貫いていた。
地面へうつ伏せに倒れる。
(熱い……熱い……熱い……!)
黒装束の男が歩み寄ってくる。
その口元には笑みが浮かんでいた。
「残念だなぁ」
男は肩をすくめる。
「一番外れを引いたらしい」
腹からナイフを引き抜く。
そして頭上へ振り上げた。
「こんなのただの臆病者じゃねえか!」
刃が二度目に肉へ沈む。
肺から空気が押し出された。
優の目から涙が止まらない。
「ぁ……やめ……て……お願い……」
(痛い……! 痛い……!)
男はナイフの柄を握り締める。
「本当に情けねえな」
刃を引き抜く。
そして再び突き刺した。
もう一度。
さらにもう一度。
血飛沫が舞う。
服は真っ赤に染まっていった。
優は何か言おうとした。
だが言葉にならない。
漏れるのは意味をなさない呻き声だけ。
手は青白くなり、力を失う。
瞳から光が消えていった。
視界の中から色が失われていく。
すべてが霞み、輪郭を失っていく。
(ああ……結局……何も変わらなかったな……)
呼吸が止まる。
もう、誰の目にも明らかだった――松木優は死んでいた。
僕が死んだ日 ――「死」から始まる、もう一つの人生。




