第18章「混沌の前触れ」
すべてを覆うような静寂が広がっていた。
鳥のさえずりひとつ聞こえない。
木々の葉もほとんど揺れず、かすかな風に合わせてゆっくりと身を震わせているだけだった。その風でさえ、森を吹き抜ける前に力尽きてしまうかのようだった。
焔羅は足を止め、木々の梢を見上げた。
わずかな音も聞き逃すまいと耳を澄ませながら、片手を耳元に添えた。
優はその様子を見つめた。
「どうしたんですか?」
「いや……なんでもねぇ。気のせいかもしれん」
焔羅はそう答えると、再び歩き始めた。
「坊主、ここからは別の道を行くぞ」
二人は木々の間に伸びる細い道へと入った。
焔羅は歩きながら絶えず左右を警戒していた。
時折立ち止まり、無言のまま周囲を見渡してから再び歩き出した。
優はそんな焔羅から目を離せなかった。
(なんだろう……。でも、なんでこんな気分になるんだ……?)
呼吸を整えようとしても、なぜか息苦しさが消えなかった。
空気が重く、肺の奥まで入ってこない気がした。
(この静けさ……息が詰まりそうなくらい不気味だ)
焔羅は振り返ることなく歩く速度を上げた。
その手がゆっくりと腰の斧へ伸びた。
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
丘を覆う草原の向こうに、村の姿が見えてきた。
その瞬間。
焔羅の手からバケツが落ちた。
目を大きく見開いた。
優も息を呑み、全身が震えた。
村のあちこちに、黒ずくめの人影が立っていた。
全身を覆う黒い衣。
顔には布が巻かれ、見えているのは目元だけだった。
その全員が刃物を携えていた。
村人たちのほとんどは家の外に立たされたまま、身動きひとつできずにいた。
額から汗を流しながら、黒装束の集団を見つめていた。
誰一人として動けなかった。
その中心には、一人の男が立っていた。
男もまた黒い外套を身にまとっていたが、布地には白い装飾が施されていた。
腰には長く湾曲した剣が下がっていた。
男は焔羅を見ると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ようやく待ち人のお帰りかな。これ以上待たせずに済んで助かったよ。フフフ……」
焔羅は姿勢を正し、眉をひそめた。
「お前は誰だ?」
「ひどいなぁ。むしろそれは私の台詞だと思うんだが? 君がこの村の長かな?」
男は焔羅を頭から足先まで観察するように眺めた。
「何が目的だ?」
「単刀直入でいいね。気に入ったよ。別に大した用事じゃない」
「はっきり言え」
「まだ分からないふりを続けるつもりか?」
焔羅は眉を上げた。
「何の話だ? 俺は預言者じゃねぇ。さっさと言え」
男はため息をついた。
「最悪だな……。どうしていつもこうなんだ。こういうやり取りは本当に嫌いなんだよ」
焔羅はゆっくり息を吐いた。
「そうか。じゃあ俺が忘れてるってことにしてくれ。思い出させてもらえるか?」
「フフフ! なかなか面白い冗談だ」
男は手袋を直しながら言った。
「時間を無駄にしたくない。太陽の神器を渡せ」
「はぁ!? 太陽の何だって?」
焔羅は頭をかいた。
「最悪だ……。少しは楽ができると思ったんだがな」
男は指を鳴らした。
「簡単な話だ。君には二つの選択肢しかない。“はい”か“いいえ”だ」
「ただし――後者を選んだ場合の結果は、あまり気に入らないと思うがね」
一人の女性が震える呼吸を押し殺すように口元を押さえた。
何人かの村人がじりじりと後ずさった。
陽菜莉と春香が焔羅のもとへ駆け寄った。
二人の瞳はかすかに揺れていた。
焔羅は二人を自分の近くへ引き寄せた。
「お父さん……ちゃんと大丈夫だよね? 全部うまくいくよね?」
陽菜莉は焔羅のズボンをぎゅっと掴みながら言った。
「大丈夫だ。心配するな。俺が約束する」
「じゃあ……これ、持ってて」
陽菜莉は首にかけていたペンダントを外し、焔羅の首へとかけた。
「これは約束の証だから」
焔羅は小さく微笑んだ。
「いい光景だなぁ……。危うく涙が出そうだったよ。フフフ」
男は両腕を広げながら言った。
焔羅は再び男を睨んだ。
「命に誓って言う。そんなものは知らん」
一筋の汗が頬を伝った。
「残念だ。君の命にはそれほど価値がないらしい」
数秒の沈黙が流れた。
そして男は腕を掲げた。
「全員聞け!」
その声が村中に響き渡った。
「家の中を探せ! 神器を見つけ出せ!」
「見つからなければ焼き払え!」
「誰一人生かして帰すな!」
「男も女も子供も老人も関係ない!」
「目につく者は全員殺せ!」
村人たちは一斉に走り出した。
子供を抱き上げる者。
家へ逃げ込もうとする者。
悲鳴が村中に響き渡った。
赤ん坊や幼い子供たちは泣き止むことなく泣き続けていた。
黒装束たちは即席の松明を取り出し、その先端に火を灯した。
そして剣を抜いた。
焔羅は春香と陽菜莉を後ろへ下がらせた。
次の瞬間、敵の首領へ向かって一気に飛び出した。
「迅歩」
男が静かに呟いた。
次の瞬間には、焔羅の目前に立っていた。
そのまま剣で斧を受け止めた。
激突の衝撃が風となって周囲へ広がった。
「くそっ……魔法か!」
焔羅はさらに力を込めながら叫んだ。
優はその場に立ち尽くしていた。
目だけが戦いを追っていた。
ほとんど瞬きすらできなかった。
「坊主!」
焔羅の怒号が響いた。
「命に代えても陽菜莉と春香を守れ!」
「わ、分かりました! 逃げましょう!」
優は二人の手を掴み、走り出した。
三人は丘を駆け上がった。
そして、その姿はやがて視界の向こうへ消えていった。
(胸が痛い……。くそっ……)
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