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第17章「砕けた心」


 太陽がゆっくりと地平線の向こうから昇っていく。


 まだ淡く金色を帯びた朝の光が、朝霧を滑るように抜け、大地を優しく照らしていた。


 小さな雫が曲がった草葉にしがみつき、野に咲く花びらの先で揺れ、細い茎を伝って静かに流れ落ちる。


 そよ風が花々を揺らした。


 小さな少年が花畑の中を駆け回り、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。


 白いマーガレットが、やさしく爽やかな香りを漂わせる。


 「きっと喜んでくれるぞ、ハハハ!」


 少年はそのまま歩き、小さな家へと辿り着いた。


 台所では、長い茶髪の女性が石窯に入れた鉄板をゆっくりと動かしていた。時折向きを変えながら、均等に焼き上がるよう丁寧に火を通している。


 少年は駆け寄り、そのまま彼女の胸へ飛び込んだ。


 「母さん! これ、あげる!」


 差し出したのは、マーガレットの花束だった。


 「大輝、綺麗なお花ね! 本当にありがとう!」


 女性は彼の額に口づけし、優しく頬を撫でた。


 「待って……それ、ブラックベリーのパンを焼いてるの?!」


 大輝は彼女の腕から離れ、満面の笑みを浮かべる。


 「あっ、バレちゃったか! ハハハ!」


 「素敵! ありがとう!」


 女性は再び鉄板へ目を向けた。


 「もうすぐ焼き上がるわ……」


 大輝は手を擦り合わせ、期待に満ちた目で唇を舐める。


 「早く食べたい!」


 彼女は再び鉄板を回した。


 「もう少しだからね……」


 その瞬間だった。


 女性の瞼がゆっくりと閉じかけ、視界のすべてが急に鈍く、遅くなったように感じられた。


 「……おかしいわね……」


 乾いた咳が漏れ、その唇から血が一筋垂れる。


 膝が崩れた。


 身体は支えを失い、そのまま床へ倒れ込む。


 鈍い音が台所に響いた。


 「母さん! 大丈夫!?」


 大輝は震える手で彼女の脈を確かめた。


 「誰か! 誰か助けてよ!!」


 どれほど時間が経ったのか。


 日は昇ったばかりだというのに、厚い雲が陽の光を覆い隠し、景色は灰青色に沈んでいた。空気は乾き、肌を刺すほど冷たい。


 鳥たちの鳴き声も少なく、長い静寂が続く。


 その沈黙を壊すのは、時折吹き抜ける風の音だけだった。


 大輝は家の入口に置かれたベンチへ座っていた。


 視線はずっと地面へ落ちたまま。


 組み合わせた指先だけが、落ち着きなく動き続けている。


 時折、唇を噛んだ。


 扉のそばでは、二人の男が小声で話していた。


 声は低かったが、はっきりと耳に届く。


 「……本当に、こうなるのかよ。くそっ……」


 もう一人の男は深く息を吐き、静かに答えた。


 「肺が限界なんだ。現実を見なきゃならない」


 一瞬、言葉を切る。


 「もう……俺たちにできることじゃない」


 「ちくしょう……森田先生がいてくれたら……あるいは……」


 男は首を横に振った。


 「だが、いない。それが現実だ」


 男は苦しそうに息を吸い込む。


 「……ああ。わかってる」


 そして扉を開け、沈んだ表情のまま部屋から出てきた。


 その時、大輝が座っていることに気づく。


 「あ……大輝。ここにいたのか。お母さんがお前に会いたがってる」


 大輝は何も言わず、静かに部屋へ入っていった。


 女性はベッドに横たわり、白い毛布を胸元まで掛けていた。


 その肌は、灰色がかった色へ変わってしまっている。


 「……大輝……」


 彼は近づき、彼女の手を強く握った。


 「ここにいるよ、母さん……」


 ベッドの横には、マーガレットの花瓶が置かれていた。


 「来てくれて……よかった……最後は、こうしたかったの……」


 「やだよ、母さん! そんなこと言わないでよ! 行かないで!!」


 彼女はゆっくりと手を持ち上げ、大輝の頬へ触れた。


 「あなたは……お父さんによく似てる。優しくて……本当にいい子……」


 大輝はその手を強く握り返す。


 「夢を見たんだ……母さんが村のみんなのために、大きなご馳走を作ってた。見たことない料理がいっぱいあって……すごく美味しそうだった……」


 疲れ切った彼女の唇に、小さな笑みが浮かぶ。


 「……素敵な夢ね……」


 彼女は血を吐き、その腕から力が抜け落ちた。


 「行かないでよ!! ご馳走はどうするんだよ!? みんなを笑顔にするんじゃなかったの!?」


 大輝の頬を涙が次々と伝っていく。


 「あなたが……代わりにしてくれるのよ……」


 「嫌だ!! 一緒にいてよ!!」


 彼は彼女を強く抱きしめた。


 「……大輝。愛してるわ、私の子……」


 「俺も愛してる!! 母さん!!」


 女性は深く息を吸った。


 そして――ゆっくりと瞼を閉じた。


 「……母さん? 母さん! 母さんっ!!」


 ベッド脇のマーガレットが静かに萎れ、一枚の花びらだけがひらりと落ち、床へ触れた。





——∞∞∞——





 優は視線を逸らした。


 (あいつら……本当に色んなものを背負ってきたんだな……)


 彼はパーカーの襟元を軽く直す。


 (気まずい……話題を変えよう。なんでもいいから……)


 「なあ、焔羅。もし村の中から誰か一人をリーダーに選ぶなら、誰だと思う?」


 (なんだよ、その変な質問……)


 焔羅は立ち上がり、ぐっと背中を伸ばした。


 「んー……やっぱ大輝だな。ああ、間違いなく大輝だ」


 優は目を丸くした。


 焔羅はズボンについた埃を払い、魚が入った桶を持ち上げる。


 「さてと、もう遅い。そろそろ帰るぞ」


 太陽は地平線へ沈みかけていた。


 最後の陽光が木々の間を抜け、景色を金色と橙色に染め上げている。


 優は自分の桶へ視線を落とした。


 中は空っぽだった。


 「でも……俺、一匹も釣れなかったですけど……」


 「また今度だ、坊主。今日は運が悪かったな」


 優は立ち上がり、小さくため息をつく。


 「……ですね。じゃあ、帰りましょうか……」



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