第16章「血に染まる夜」
部屋の中は、まるで液体のように濃密な闇に沈んでいた。空気はこもり、わずかに熱を帯びている。重たい呼吸と、ときおり漏れる咳以外、何一つ音はなかった。
部屋の中央には一台のベッドが置かれている。その上で、横たわる少年が時折苦しげに身をよじった。
汗が首筋を伝い、黒ずんだ斑点が全身へと広がっていた。特に顔や手には濃く浮かび上がっている。
扉がゆっくりと開き、古びた木の軋む音が室内に響いた。
一人の老人が部屋へ入ってくる。白髪と深い皺の刻まれた手が、その長い年月を物語っていた。
「……斑点が広がっているな」
老人は傍らの桶に布を浸し、固く絞る。
そして少年の額に乗せられていた布を取り替え、新しい布をそっと当てた。
「……ずきずき……」
「大丈夫だ、史郎……もう少し耐えるんだ……」
老人は目を伏せ、小さく息を吐いた。
数秒後、静かに立ち上がり、扉へ向かう。
外では、一人の女性が待っていた。
肌には皺一つなく、長い黒髪が背中まで流れている。濃い青の瞳はどこか虚ろに辺りを見渡していた。
「……どうですか? 少しでも良くなりましたか?」
「……駄目だ。残念だが、何も変わらん」
「……やはり。もう全身に回っているんですね」
「ならば、急がねばならないな」
老人は重く息を吐く。
「……儂はこれを何度も見てきた。だが、一度として良い結末になったことはない」
「手遅れになる前に、必ず花を見つけます。焔羅はもう隊を集めましたか?」
老人は一瞬だけ俯いた。
「……森田先生。本当に行くおつもりですか?」
女は真っ直ぐに彼を見返す。
「危険なのは承知しています。ですが……息子が死んでいくのを、ただ見ていることなんてできません」
「できることなら、儂が代わりに行きたいくらいだ……あなたが危険に身を置くのを見るのは辛い」
「問題は、あの忌々しい花の場所です」
老人は顎に手を当てた。
「失礼を承知で聞きますが……森田先生。本当にその花は存在するのですか? ただの伝承という可能性も――」
「私はこの目で見たんです! 確証もなく命を懸けたりしません!」
「……そうですか。ですが、どうか戻ってきてください。あなたほど優れた医者を、儂は他に知りません」
「必ず戻ります。息子のためにも」
森田は再び部屋へ入り、ベッドへ歩み寄った。
そして少年の手を優しく包み込む。
そのまま静かに額へ口づけを落とした。
「……大丈夫よ」
「……母さん……?」
森田は立ち上がり、ゆっくりと扉を閉めた。
満月が銀色の瞳のように高く空へ浮かんでいた。
月光は大地を照らし、景色のすべてを青白く染め上げている。
薄い雲が静かに横切り、ときに光を和らげ、ときに眩いほどに際立たせた。
虫の音だけが夜に響き渡り、静寂の中で唯一の旋律を奏でている。
そこへ、風に揺れる木々の葉擦れがかすかに重なった。
森田は森の入り口付近に集まっていた数人のもとへ歩み寄る。
人数は十人にも満たない。
焔羅の持つ斧の刃が、月光を受けて鈍く輝いていた。
森田が足を止める。
「準備は?」
「できてる」
焔羅が短く答えた。
「……では、行きましょう」
誰一人として口を開かなかった。
ただ、それぞれが握る短剣に力を込める。白い月光が磨かれた刃を静かに滑っていった。
一行は無言のまま森へ足を踏み入れる。
冷えた空気が肌へ張り付き、呼吸を重くした。
「……近いんですか、森田先生」
焔羅が低く尋ねる。
「ええ……もう少し先です……」
一人の男が枝を踏み抜いた。
乾いた音が森中へ響き渡る。
全員が瞬時に動きを止めた。
焔羅の頬を汗が伝う。
数秒間、誰も呼吸音すら漏らさぬよう沈黙を保った。
「……何も来ないか。よかった……」
再び歩き出す。
しばらくして、一行は木々の少ない開けた場所へ辿り着いた。
背の高い草が揺れ、そこへ月光が一本の柱のように差し込んでいる。
その中心に、一輪の花が咲いていた。
透き通るような純白。
半透明の花弁は、闇夜の中で氷の欠片のように淡く光を返している。
甘く、冷たい香りが空気に漂っていた。
風が吹くたび、花は静かに揺れる。
森田が駆け出した。
「……あった! 本当に……!」
焔羅の目が揺れる。
「……なんだ、この匂いは……!?」
突然、血の匂いに混じって、湿った獣の臭いが漂ってきた。
次の瞬間――
鋭い遠吠えが静寂を切り裂く。
茂みから狼たちが飛び出した。唾液を撒き散らしながら牙を剥いている。
その奥から、さらに巨大な影が姿を現した。
雪のように白い巨大な狼。
全長は二メートル半を優に超え、白銀の毛並みが月光を反射している。
瞳は凍てつくような青だった。
「――白い大狼!」
焔羅が叫ぶ。
森田は飛び込み、その花を掴み取った。
焔羅は斧を振り上げ、空を裂くように振り抜く。
「――風斬り!」
轟、と風が唸った。
刃のような突風が狼たちへ襲いかかる。
ほとんどの狼が切り裂かれ、深い傷を負った。
だが、白狼だけは横へ跳躍し、攻撃を避ける。
村人たちが武器を握り駆け出そうとした。
「行くな! 無駄だ!」
焔羅が怒鳴る。
彼らは即座に足を止め、後退した。
森田の肩が激しく上下している。
手も足も震えていた。
――次の瞬間、彼女は駆けた。
白狼が地を蹴る。
凄まじい速度で迫り、その牙が森田の腹へ深々と突き刺さった。
「くそっ!」
焔羅が駆け寄ろうとした瞬間、別の狼が飛びつき、その腕へ噛みついた。
「間に合わない……! 花を持って長老のところへ……!」
森田の口から血が溢れる。
焔羅は斧を握り締め、一撃で狼の首を刎ね飛ばした。
鮮血が顔へ飛び散る。
「やめろっ!!」
別の狼が森田の脚へ食らいついた。
「……早く……」
か細い声。
森田は花を投げる。
焔羅がそれを受け取った。
世界が、ひどくゆっくりに見えた。
白狼が森田の腹から牙を引き抜き、頭を持ち上げる。
そして――
首を引き裂いた。
血が噴き上がる。
焔羅の耳には、甲高い耳鳴りしか届かなかった。
景色も、音も、すべてが遠い。
涙が頬を伝う。
森田の亡骸が地面へ崩れ落ち、鈍い音を立てた。
獣たちはその死体を咥え、闇の奥へ引きずっていく。
「焔羅さん! 行きましょう!」
一人の村人が叫んだ。
視界がぼやける。
焔羅は振り返り、そのまま皆と共に走り出した。
誰も、一言も発しなかった。
数分後、一行は村へ辿り着く。
一人の村人がある家へ駆け込み、扉を開けた。
中では、無精髭を生やした黒髪の男が、汗まみれになりながら鉄を打っていた。
村人はゆっくり近づく。
「……森田さん。奥さんが……その……」
男の目が大きく見開かれた。
手から金槌が滑り落ちる。
地面へ叩きつけられた瞬間、その轟音が工房中へ響き渡った。
——∞∞∞——
枝から一枚の葉が離れ、風に運ばれて地面へ落ちた。
優は木々へ視線を向ける。
(……そんな……)
そして、焔羅の腕へ目を移した。
そこには、噛み跡が醜い傷痕となって残っている。
焔羅は静かに息を吐いた。
その声は重く、かすれていた。
「……あの日からだ。史郎の父親は、一度もあいつの顔を見なくなった」
優はそっと袖をまくる。
(……熱い……)
「……続きを、聞かせてください」
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