第15章「痛む笑顔」
釣り針は水の揺れに合わせて、ゆらゆらと左右に揺れていた。枝から落ちた葉が水面に触れ、張りつめた空気を一瞬だけほどいた。
風はゆっくりと吹き抜け、草木の先端をやわらかな波のように揺らしていた。まるで湖の流れを真似していたかのように。
絶え間なく響く音があった。葉擦れの音、時折聞こえた虫の羽音、そして姿を見せることのなかった遠くの鳥のさえずり。
焔羅は黙ったままだった。その視線は、葉の動きを追っていた。
優の手は震え、唇は乾いていた。
(触れちゃいけないことに触れたのかな……?)
そよ風が吹き、二人の髪を一瞬だけかき乱した。
焔羅は腕を組んだ。
「なあ、坊主……あの話はな、少し前のことなんだ……」
——∞∞∞——
その日はよく晴れていた。陽の光がすべてを淡い黄色に染め上げていて、空は広く、ほとんど雲がなかった。
一人の少年が、二人の大人と手をつなぎながら歩いていた。顔には輝くような笑みを浮かべていた。
「ねえ母さん! 太陽の神様の話、もう一回してくれない?」
「それ、もう何度も聞いたでしょ? 飽きないの? クスクス」
「そんなこと言うなよ」
男がため息をついた。
「……わかったよ」
少年は少し頬を膨らませた。
「だって……あの話好きなんだもん。長老たちの話はつまらないし……」
頬がほんのり赤くなる。
「それに……母さんの話し方、すごく好きだから……」
女は彼の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「これがうちの涼よ! 火みたいに熱い子だ! ゲラゲラ!」
「ちょっ、痛いって! 加減しろよ!」
「まったく……お前らは……でも嫌いじゃないぞ! はは!」
一人の男が近づいてきた。大きな斧を背負い、その視線はどこか落ち着かず、まっすぐ人を見ることはなかった。
「悪いが……それは後にしてくれ、涼……」
二人の笑顔が消えた。
「遅くなってすまない……」
男は無理に笑みを作った。
「大丈夫です、焔羅さん。ここで涼と話していただけです」
「いい子に育ってるな。母親似だ」
女は肩をすくめる。
「そうね。でも目は父親そっくりよ! はは!」
涼は不満そうに息を吐いた。
「ちょっと! 俺は俺だよ!」
女は彼の頬を引っ張る。
「はいはい、うちの子だもの!」
「やめろってば!」
男と女は、ゆっくりと焔羅へと視線を向けた。
数秒間、沈黙が流れた。
「……なんだ、その顔は。何かあったのか?」
「涼……父さんと母さんは、焔羅さんと少し話がある。すぐ戻るからな」
「……うん、わかった」
三人は少し離れた場所へ歩いていった。
焔羅は視線を逸らした。
「……本気なのか? 他に方法はないのか……あるはずだろ……!」
女は、はっきりとした声で言った。
「焔羅さん、もう分かっているはずです。他に道はありません……村のためにも、涼のためにも」
焔羅は拳を握りしめた。
「馬鹿げてる……正気じゃない……!」
男が声を荒げた。
「焔羅さん! 空っぽの皿を見てください。このままで、村の人間も涼も、次の冬を越せると思いますか!?」
「だが――」
女が震える声で遮った。
「辛いのは分かっています……私たちだって同じです。すべて考えました……どんな可能性も……涼と離れることを思うだけで……胸が張り裂けそうです……」
焔羅はうつむいた。
「……すまない……俺のせいだ……」
男は肩に手を置いた。
「謝る必要はありません。あなたは立派な長だ……ただ、どうにもならないこともある」
女はまっすぐに見つめた。
「お願いです……私たちに、やらせてください」
「……くそ……」
「焔羅さん、森がいつまでも守ってくれるとは限りません。もし誰かが攻めてきたら……? 防ぐ力も足りない。あなた一人では、いつまでも守れません」
男は懐から紙を取り出した。
「これが……助けになるかもしれません」
焔羅は深く息を吐いた。
「……分かった。お前たちの言う通りだ」
男は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、焔羅さん」
「馬車の準備はできてる?」と女が尋ねた。
「ああ。村に残っている唯一の馬も一緒だ」
「きっと価値はある。信じてくれ」
女は焔羅の手を握った。
「涼のこと……何があっても守ってください。約束できますか?」
二人は真剣な目で見つめる。
「約束する。命にかけて」
焔羅は胸を叩いた。
「さすがです、焔羅さん!」
「必ず戻ります……助けと、村を救うだけの金を持って!」
三人は涼のもとへ戻った。
「やっとかよ! 遅いって!」
男は頬をかいた。
「そんなに待たせてないだろ……」
二人は涼を強く抱きしめた。
「え……? なに……?」
涼の目が大きく見開かれた。
「涼……父さんたちは少し旅に出る。その間、焔羅さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」
涙があふれ出した。
「やだ……やだ……どこ行くの……? しくしく」
頬を涙が伝った。
「こんなの……置いてかないでよ……! ひくひく」
「すぐ戻るわ……大丈夫」と母は無理に笑った。
「愛してるわ、涼……すぐ戻るからね」
二人はそう言った。
涼は二人の服を掴んだ。
「やだ! お願い……行かないで!」
女は彼の頬に口づけた。
「またね、涼……」
二人はそっと離れ、焔羅のもとへ歩いていった。
男の頬にも涙が流れていた。
「馬車はどこだ?」
「森の小道だ」
「……ありがとう。そして……さようなら、焔羅さん」
二人は去っていった。
涼は走り出したが、焔羅がそれを止めた。
「どけよ! 俺も行く! うわーん!」
「……すまない……俺のせいだ……」
涼は焔羅の腕を叩き、噛みついた。
「離せよ! お願いだから!」
「……できない……すまない……」
「父さん! 母さん! 行かないで!」
二人の背中は、やがて見えなくなった。
——∞∞∞——
優は何も言えなかった。
言葉を探したが、声にならなかった。
(涼……かわいそうに……)
「……すみません……そんな話だとは……」
焔羅は空を見上げた。
「気にするな。言っただろ……話すのは構わないってな」
「それで……その後、涼は……?」
「何時間も泣いてた。それからはな……顔を合わせるたびに決闘を挑んできた。俺は長にふさわしくないってな」
「……そうですか」
(それでも、焔羅さんはずっとそばにいたんだ……)
「面倒を見ようとしたが、近寄らせてもくれなかった。村で問題ばかり起こしてな……他のガキどもとつるんでた。だが、俺はずっと見ていた」
「どうして……二人は村を出たんですか?」
「飢えてたんだ。作物は全滅、狩りをするのは俺一人。病人も多くて、食い物は足りない。何日か、俺は食わずに他に回したくらいだ」
「そんな……無理しすぎですよ……」
「口減らしのために出ていったんだと、ずっと思ってた。あんな出方……正気じゃねえ」
「でも……助けを求めに行ったって……」
焔羅は深く息を吐いた。
「ああ……近くの村へ向かった。物資と人手を求めてな。うまくいく可能性もあった……だが、危険すぎた」
「どうしてですか?」
「あの森の向こうに行って……帰ってきた奴は一人もいない」
「そんな……」
焔羅は視線を逸らした。
「……で、どうする。ガキどもの話、まだ聞くか? それとももう十分か?」
「大丈夫です……聞けます。続けてください」
(こんな話だとは思わなかった……)
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