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第14章「震える手で魚は捕れるのか?」


 優と焔羅は森の奥へと進み、やがて木々の密度がまばらになっていった。


 「うわ……すごい……綺麗だ……!」


 優は目を見開いた。思わず漏れた言葉だった。


 そこは開けた場所で、木は少なく、中央には小さな湖が広がっていた。


 木々の隙間から差し込む陽の光が水面を照らし、きらきらと輝いている。


 (この水……すごく穏やかだな……)


 湖面は鏡のように滑らかで、岸辺の歪んだ木々を逆さに映していた。ときおり魚が跳ね、水面が揺れてその景色を一瞬だけ壊す。


 「気に入ったみたいだな、へへへ……」


 焔羅がふっと笑った。


 彼は木の陰に回り込み、すぐに戻ってきた。


 「ほら!」


 手には簡素な釣り竿が二本。木の棒に糸と針を結びつけただけのものだった。


 「え……いや……それって……」


 優の声が重く沈む。表情が崩れ、腕を引っ込め、理解した瞬間に目を閉じた。


 「そうだ! 釣りだ、ハハハ!」


 焔羅は満面の笑みで叫んだ。歯がきらりと光る。


 優は空を見上げ、黙り込んだ。


 (釣り……?)


 力が抜け、その場に膝から崩れ落ちる。


 焔羅は優の腕を引っ張り、そのまま湖のそばまで連れていった。


 「ほらほら! この仕事はお前にぴったりだぞ。きっと立派な漁師になれる! ハハハ!」


 優は深く息を吐いた。


 (でも……釣りなんてしたことない……)


 「でも、焔羅さん――」


 「言い訳はなしだ。ほら、やるぞ!」


 焔羅は言葉を遮った。


 二人は湖のほとりに腰を下ろし、焔羅は優に竿を渡した。


 「俺、釣り竿なんて握ったこともないんですけど!」


 優はかすれた声で叫んだ。額から汗が流れ落ちる。


 「坊主……正直に言うぞ。この村の漁師は最近引退しちまってな、代わりがどうしても必要なんだ」


 焔羅は首の後ろに手を当てて伸びをした。


 「でも俺――」


 「はいはい! 心配すんな。やり方は教えてやる。今ある仕事はこれだけだ。やるかやらないか、それだけだ」


 (ああもう! 全然話を聞いてくれない……!)


 「……わかりました……やります……」


 優は深く息を吸い、目を閉じた。


 「よし! やっぱりそう来なくちゃな! ハハハ!」


 (俺に選択肢あるのか……?)


 焔羅は再び木の方へ行き、ミミズの入った桶を持って戻ってきた。


 「で、最初は何をすればいいんですか?」


 優は竿をしっかり握る。


 焔羅は餌を針につけ、そのまま水中へ投げ入れた。


 「簡単だ。釣りはな、落ち着きと集中力だ。浮きから目を離すな」


 水面はかすかに揺れ、流れに乗って落ち葉が運ばれていく。枝からはぽつぽつと雫が落ちていた。


 水の中を、何かがゆっくりと動いている。輪郭は一瞬だけ現れ、すぐに揺らぎに紛れて消えた。


 「見えるか? もう来そうだぞ、ハハハ」


 焔羅が軽く笑う。


 「え? 全然見えませんけど……」


 優は目を凝らしたが、何も見えなかった。


 その影は針へと近づき――食いついた。


 「来たぞ! 見たか、坊主!」


 焔羅は竿をしっかり握り、歯を食いしばる。


 軽く引き寄せ、手応えを感じた瞬間、一気に引き上げた。


 魚が水面から弾き出される――それは鮎だった。


 焔羅は針から魚を外し、手に持つ。


 「ほらな! 難しくないだろ!」


 (うわ……早すぎる……)


 優はしばらくその魚を見つめた。


 (あれ……この魚、日本で見たことある……)


 焔羅は空の桶にそれを放り込んだ。


 「さあ、次はお前の番だ。同じようにやってみろ!」


 「……はい……」


 優はミミズを針につけ、湖へ投げ入れた。


 「よし、あとは待つだけだな」


 「これって時間かかるんじゃ……?」


 「いやいや、すぐ釣れるさ。数分で一匹目だ、ハハハ!」


 ――数時間が過ぎた。


 風の音だけが静かに流れ、太陽はすでに傾き、空を橙色に染めていた。


 焔羅の桶はすでに満杯で、彼は横になって目を閉じている。


 優はひたすら浮きを見つめていた。


 (“数分”って……大嘘じゃん……!)


 ちらりと焔羅を見る。


 (まさか……寝てる……?)


 眉をひそめ、焔羅を揺すった。


 「起きてください! 全然ダメです!」


 焔羅はあくびをし、体を伸ばした。


 「まだか、坊主?」


 「まだです! 全然釣れません!」


 「だから言っただろ、忍耐が必要だって」


 「もう十分我慢しましたよ!」


 そのとき――


 湖に巨大な影が現れた。


 水面が震える。


 浮きが激しく引き込まれた。


 「うわあああ!」


 あまりの力に、優の体が引きずられる。


 今にも水に落ちそうだった。


 焔羅が竿を掴み、引くのを手伝う。


 「なんだこりゃ……!」


 二人は力を込めて引いた。


 やがて、その姿が水面から現れる。


 巨大だった。数メートルはある。青みがかった体に、鋭い棘が無数に生えている。口は異様に大きい。


 焔羅の額に冷たい汗が流れた。


 「まさか……本当に……凶魚……!」


 だが次の瞬間、彼は笑った。


 「すげえ! ハハハ!」


 「え!? 凶魚って何なんですか!?」


 優は息を切らしながら叫ぶ。


 「滅多に現れない魚だ! ほとんど伝説みたいなもんだ!」


 焔羅はさらに力を込める。


 「竿が折れなきゃいいが……!」


 ついにそれを陸へ引きずり出した。


 「見ろ! 最高だろ!」


 ――その瞬間。


 怪物が凄まじい力で暴れ、糸を引きちぎった。


 二人は地面に転がる。


 それは再び水へ跳ね、闇の中へ消えた。


 「くそっ!」


 焔羅が地面を殴る。


 「はぁ……はぁ……なんなんだよ……あれ……」


 優は息を切らす。


 しばし沈黙が落ちる。


 焔羅は深く息を吐いた。


 「……今日は負けを認めるか」


 指を鳴らす。


 「それにしても、お前……相当ツイてないな」


 「え? どういうことですか?」


 「その魚はな、極端に運が悪い奴の前にしか現れないって言われてるんだ」


 優は何度も瞬きをした。


 「うわ……」


 焔羅は再び笑う。


 「まあいい! だからって終わりじゃねえぞ! ハハハ!」


 体を起こし、別の竿を優に渡す。


 「まだやるんですか……? ちょっと怖いんですけど……」


 「あと少しだ。あんなのはもう出ねえよ」


 優は唾を飲み込み、汗を拭った。


 「……わかりました……」


 再び餌をつけ、しっかり固定する。


 (……またか……いつまで続くんだ……)


 竿を振り、再び投げた。


 (今度は話でもするか……退屈すぎる……)


 遠くで鳥が鳴いている。静かな旋律のようだった。


 (何を聞こう……)


 目を閉じ、息を吸う。


 (あ、そうだ……昨日の子たちのこと……)


 「焔羅さん、ちょっと聞きたいんですけど……あの子たちって、大変なんですか?」


 焔羅は視線を逸らした。


 表情が変わる。笑みが消える。


 しばらく沈黙。


 「……あいつらのことか」


 低い声だった。


 「いい奴らだ。強いしな。でも……背負ってるもんは軽くねえ」


 声はゆっくりで、どこかかすれていた。


 (どういうことだ……? こんな焔羅さん、初めて見る……)


 「もしよかったら……何があったのか、聞いてもいいですか?」


 優の顔が赤くなり、喉が渇く。


 「構わねえよ……ただ、覚悟しとけ。綺麗な話じゃねえ」

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