三十話 異世界
何が、起きている。
スニルと連れ立って戻ってきたソラフ・ローは私の記憶と違っていた。
朴訥とした村の者達は、入れ替わったのかと疑いたくなるほどだった。
女達は見慣れぬシルクに、レースに、そしてその空から消えた汚れのない白さに溺れていた。
小屋からストレスの溜まった羊が、飢えた羊が、今にも柵を破らんと鳴いている。
主人を失くした牧羊犬が羊の群れの中で意味のない声を上げるばかりで女達は見向きもしない。
男達も加圧式着火装置を始めとする蒸気機関や、蒸気自動車、そして宝石に目を奪われていた。
狩りにも出かけず、酔い潰れながら誰にも譲るまいと宝石を抱き、
何も知らぬ少年のように蒸気機関を眺めている。
酔っぱらいの中には、セポイも混じり肩にマスケット銃を背負う者も居る。
こんな光景はスリナガルでも見なかった。デリーの路地裏のような光景は。
馬車から荷を下ろしもせずにずらずらと並んだ行商人達が思い思いに声を上げる。
「さあさ、紳士淑女の皆々様方!今回お持ちしましたのは、かのヴェネチア共和国よりヴェネチアン・グラスとレースでございます!いずれ、いずれも名のある作り手が生み出したこの世の最高傑作と言えましょう!この機会をお見逃しなく!」
と、くすんだグラスと薄汚れた白い布に形ばかりのレースが縫われた布を掲げ
「こちらにはかのポーランド貴族アントワーヌ・ド・パッテクと名工時計師フランソワ・チェペックの愛する懐中時計をご用意しております!そして貴方方はとても運がいい!今まさに時代の最先端を行く腕に巻く時計なるものもご用意しております!是非一度お手にとって御覧ください!」
と、錆びた懐中時計と、ガラスに罅が入り革を縫い止める糸の解れた腕時計を掲げ
「ここにありますのは遥か、遥か西の最果て、新大陸に居る原住民の祭具とのことです。ええ、ええそうでしょうとも。信じられなくとも無理はございません。私も疑い深く確認しました。一つ一つに物語がありこの場で全てを話せないのが心苦しいばかりでございます。しかして、皆様。このように面妖なものを見たことがお有りでしょうか?私は皆様方の目が真実を捉え、そして遠き地の風習に想いを馳せられる方々と信じております。そして何より、この機を逃せば二度と手に入らないことも一つの真実と言えましょう!」
と、剥いだ木の皮に赤や黄で適当に塗りたくったそれを掲げ
真実を見抜ける酔っぱらい共は商人達の煽り文句にまた酔っていた。
その喧騒に私が混じっていることなど気付きもしない。
呆然と立ち竦む心を奮って声を出す。
「…スニル。これは一体何だ。」
「ソラフ・ローの住民と最近増えた顔ぶれによる宴かと。」
あまりに杜撰な反応に苛立ちを覚える。
「言葉が通じないか?この惨状はいつから、何故こうなった。」
「おおよそ一月程前でしょうか。行商人が旦那様の出自にあるような彼らにとって目新しく見栄えの良いものを持ってくるようになりました。それからと言うもの、見るもの着るもの食べるものとどんどん変わり、今では羊を追いかけ回すものは居りません。」
「何故こうもそこまで大きく転換する?村長は何も文句を言っていないのか。」
「村長はジェームズ氏へ直談判しにスリナガルへ向かった後、戻ってきていません。一気に広まった理由はそれらがタダ同然だったからかと思われます。」
「…タダ同然?それは――」
思わず聞き返した時、妙にはっきりと行商人の声が耳に入った。
「スリナガルの東インド会社商館主人ジェームズ氏の御厚意により本来ならばドゥカード金貨1枚の所を銅貨10枚から――」
そして二の句を継げなくなる。
何故だ、何が起きている。
ジェームズがやり手だという噂は耳にしていたが、その資産はどこから出ている?
そして奴のやりたいことは、なんだ?
村の者を堕落させて何になる?
「…スニル。お前は何故黙っていた。」
「申し訳ございません。しかしながら、旦那様にとって重要な事はこの街の在り方ではなかったと認識しております。その為お邪魔にならぬよう最低限の報告に努めた次第です。」
確かに先日までの私であれば、話だけでこの有様を理解できたか怪しい。しかし、しかしだ。
「使用人の領分を思い出せ。判断するのは私でありお前ではない。」
「はい、申し訳ございません。」
「ジェームズへ文を出すぞ。そこらの行商人なりに言い含めておけ。」
ここまでの無茶苦茶をやる奴に文程度でどうにかなるか怪しいか。
かと言って、スリナガルまで戻れば一月はこの山に戻れなくなる。
それはあってはならないことだ。
「畏れながら旦那様。ジェームズ氏は只今蒸気自動車にてこちらへ向かってきている予定だとのことです。」
主人を失くした村長の部屋で使用人の報告を聞く。
「蒸気自動車?とても走れるような道ではなかったと記憶しているが。」
「どうやら道幅を拡げ土を均したようです。それも行商人が来やすくなった一つの理由でもあるのでしょう。」
呆れた男だ。何をしたいのか全く読めないが、その何かに対して必要なことには躊躇いが感じられない。
「ふむ。ではいつ頃到着する?」
「両日中には来られるかと。」
「ではその時に確認しよう。聞きたいことは多い。その文は処分しておけ。」
「畏まりました。」
「ああ、それとだな。村人の男女数名と行商人から話を聞いておけ。村人からはこの転換への想いと今後の在り方について。行商人からはジェームズとの間でどのようなやり取りがあったのかを。」
「承りました。併せて対応します。」
そう言い置いて使用人は部屋から出ていった。
ジェームズがソラフ・ローに来る。
このソラフ・ローにやりたいことがあるのか?
であれば…ハルピュイア、か。スリナガルに居ながらどうして知ったか…スニルの報告がある以上どうとでもなるか。
奴には小間使いも多いと聞く。商館に連れてきていた娘他数名以外にも居るのだろう。
少しでも違和感があれば使いを出せばいい。簡単なことだ。
この野心家が世にも珍しい、いや限りなく希少なハルピュイアをただただ放置するわけもなし。
であれば、止めなければならない。
蒸気機関も含めて、だ。
咳き込んでいたハルピュイアを連れてきたアルテが伝えたかったことは排煙の影響だろう。
その目が症状が、妻を連想するようですぐに伝わった。
アルテの願いを伝えられるのは私だけだ。
どこまで通じるかわからないが、それが今やらなければならにことならば、やるだけだ。
いや、それこそが今、私にとって最も守りたい者だからだ。




