二十六話 風向き
ケホッ、ケホッ。
喉に違和感がある。
こんなことは久方ぶりだ。
デリーに居た頃は砂埃なんかで痛めることはあったけど、こっちは空気も綺麗でとんとなかった。
街の方でジェームズが何かしたのだろうか。
こちらとしては物資の調達がしやすくなって困らない。
まぁ旦那様の名前よりもジェームズの方が効き目があることに苦笑いを禁じ得ないが。
こうして頻繁に山に来ていると、色の移り変わりを感じる。
月で言えばまだ夏頃だろうに既に赤く変わり始めている。
木の実や葉を蓄えに虫や獣が往来し、川に魚影もよく見かける。
少し川辺を過ぎて斜面に差し掛かれば岩一辺倒になるが、その冷たさが長い冬の厳しさを告げているようで。
どこかで旦那様には切り上げて貰わなきゃいけないだろう。
稜線に立って見上げれば、いつも以上に黒い空があった。
視線を下ろしても少し遠目はうっすらと黒く、違和感がある。
もしかして、排煙か?
長い長いデリーのパテル・ロードを歩く時、似たような見え方をしていた。
ここから街は流石に見えないが、ジェームズのことだ、蒸気機関を持ち込んでいても不思議じゃない。
デリーではその手腕を奮ってイギリス様と同じような様相に仕立てたらしい。
何一つ嬉しくもないその手腕をスリナガルでも発揮しただけだろう。
ただ、憎たらしい旦那様には一報耳に入れておくべきか。
洞へ向かおうと視線を戻すと空にやたらでかい鳥が酔っ払ったかのように飛び回っている。
ああ、あの化物か。
そう認識し、無視しながら山を降り始めた。
灯し忘れられたカンテラが見えてきた頃、羽ばたく音が迫ってくる。
腰に手を当てながら顔だけ向ける。
はっきりと整った顔立ちが見える距離まできて中空で止まったそれを、半目で見返す。
二匹いるが、どちらも雌だろう。
片方はいつぞやに黒くでかいやつと一緒に居たやつで、もう一匹は初顔だ。
もう一匹は落ち着きなく飛び回って見てくる、ああ鬱陶しい。
二匹とも顔は整っちゃいるが所詮は化物で、体付きなんて人とはえらく違う。
何より雌のくせに胸がないなど、ガキじゃあるまいし。
これでどうして懸想など。
化物は何やら口を動かして音を出しているが、まぁさっぱりだ。
専門家…かどうかは知らないが旦那様に押し付けるに限る。
どうせこいつらも俺になんて期待してないだろうしな。
「付いてこい。」
顎でしゃくってそう言い置いて歩く。
付いてこないならそれはそれだ。
別に俺はカーマの使いでもないし、巡り合わせてやる義理なんてない。
残念なことにゆっくりと距離を保ちながらついてきているようだが。
洞の中は相変わらず薄暗く、外より暗いせいで少し目がなれるのに時間が要る。
本来は静かなはずの洞も、
カチャカチャ、カタカタ
と旦那様の膝が一定のリズムで机ごと音を奏でている。
どうも集中している様子で、入ってきた俺はおろか、化物にまで気付かないとは。
化物は洞の狭さから飛びづらそうにしつつも、何とか降り立ち、互いに気遣っている。
殺れるな。
そう思えるタイミングだった。
対応が難しいのはやはりあの黒いやつくらいか。
「旦那様、旦那様。」
当人は髭の下にある乾いた口をもごもごとするばかり。
「旦那様!」
「ん、ああスニルと、おお!アルテではないか!」
「旦那様、この化物に名前を付けられたので?」
異形に名前付けなど趣味が悪すぎる。
「何を言っとる。彼女が自分でそう名乗ったのだ!」
違ったようだ。まぁおおよそ旦那様の誤解だと思うが。
「これは失礼しました。外を二匹で狂ったように飛び回り、旦那様を探しているようでしたので連れてまいりました。」
「それを早く言わんか!」
大仰に席を立ち上がり、俺の前を抜けて化物の前に立つ。
「アルテ!よく来てくれた。貴方からここへ来るなんて何かあったのか?」
勿論返答は分からない。
旦那様も理解してはいないだろう。
しきりに頷いてはいるが、ろくに二の句を告げられていない。
旦那様はおもむろに手を突き出して話を止めさせると、また私の前を横切って机の上にある瓶を取った。
土色の液体を揺らしながらまた私の前を横切る。
どうせ誰の視界にも入っていないのならば椅子にでも座ってゆっくりしたいところだ。
この二匹も敵意は無いようだし。
旦那様が瓶を掲げるとアルテ、とやらは首肯を告げるように表情を緩める。
可能性を考慮して、机の上に重ねられた金属の皿を取る。
皿と言っても、素人鋳造師の失敗作のような整っていないものだが。
アルテがもう一匹に飲ませようとしているようで旦那様が開けた瓶を突き出している。
だが、口を当てて舌を伸ばしても液体までは遠そうだ。
「旦那様、これを。」
「ん?おお、気が利くな。」
旦那様が皿と瓶の蓋を交換するように渡してくる。
更に薄く土色の液体が拡がる。
すぐにでも溢れてしまいそうなその液体を器用に維持しながら、もう一匹に飲ませている。
もう一匹も喉をやられたのだろうか。
ああいった異形にまで影響するとは。
アルテは問題なく飲めている様子を見てから、旦那様に向き直って険しい顔で叫んできた。
何事かと困っている旦那様に声をかける。
「旦那様、私もではございますが、彼らにも喉を痛める者が出ているようですね。今回は旦那様がお作りになられた薬が効くのかどうか試しに来たのではないかと。」
「まぁそのようだな。そしてある程度の効き目はあるようだ。」
「はい、その報告もしようと思っておりましたが麓の者からも感謝の言葉が来ています。」
「それは何よりだ。だが、一時的な解消と根本的な解決は別だ。そこは注意深く見なければならん。」
「仰る通りです。そして彼らは根本的な原因が私達にあると見ているのではないでしょうか。」
「何?それは何故だ。ここに彼らへ影響しそうなものなどないだろう。」
「はい、確かにここにはありません。しかしスリナガルに来たジェームズ氏はデリーの変革者です。蒸気機関を持ち込んでいても不思議ではありません。」
「…それでは何か、街の排煙がここまで来ると?だとしても商館一つの蒸気機関などたかが知れておるだろう。」
「ジェームズ氏は街の支持を得るために多くのものへ技術と物資を提供している可能性が高いです。実際ジェームズ氏の名声はど田舎であるはずのソラフ・ローまで聞こえてくるくらいですから。」
「なるほどな。それは良い。行い自体は代理人の域を大幅に超えているが、それで名声が上がっているならば失策ではないということだ。が、ハルピュイア達に影響するようでは話にならん。」
「はい、彼らには私達とジェームズ氏の区別などないでしょうから、それで糾弾しに来たのではないでしょうか。」
「ふむ、筋は通っとる。だが大部分が憶測だろう。違うか。」
「その通りです。しかしながらそれ以上の情報がない以上、違うかもしれないことに恐れて踏みとどまるべきではないと具申します。」
「まぁいい。お前は私より情報を得られる立場にあることは間違いない。それを信じよう。」
「ありがとうございます、旦那様。」
これで旦那様も山を降りて話を付けに行くだろう。
移動時間を考えればまたこの洞に来ることもあるまい。
ようやく登山家を卒業できそうだ。
旦那様はその旨をなんとか伝えようと苦心し、言葉と表情で伝えようと努力していた。
ジェームズ氏は手強いだろう。
後ろ暗い噂も絶えず付き纏っている。
いざ対立した時、俺はどちらに付けば良いのだろうか。
忘れかけてた任務の言い訳を考えて置かなければ。




